第一話:医師の来訪、そして最初の“警告”
「カミラ様、帝都より新しい侍医が参りました」
屋敷の窓から差し込む朝の光が、ベッドに横たわる少女の肌を淡く照らしていた。
彼女は白く華奢な手で毛布を握りしめ、震える声で応える。
「……そんな、急に……ごほ、ごほっ……お会いできるか、わかりません……」
咳。息切れ。手の震え。
誰もが“重病を患う可哀想な令嬢”と信じて疑わないその姿は、
――完璧に演じられた“仮面”だった。
病弱な名家の令嬢――カミラ・フォン・エーデルシュタイン。
扉の向こうで足音が聞こえる。
新しく赴任するという侍医の訪問は、今日が初めて。
カミラは手のひらに忍ばせた小瓶を握る。
中に入っているのは、ごく微量で心拍数を不規則にする薬剤。
強心作用と抑制作用を交互に引き起こすため、医療知識のある者でさえ“何かしらの病気”と誤診する程度に仕上げられている。
(この薬は“演技”では補えない部分を埋めてくれる。今日の医者がどんな目を持っていようと――ばれることはない)
苦みを感じながら薬を舌の下で溶かし、カミラは目を伏せた。
扉が開かれ、若い男が静かに入ってくる。
黒の医療服。整った顔立ちに冷静な眼差し。
帝都第一医科寮より派遣された若き侍医――ハロルド・ベイル。
「失礼します、カミラ様。診察を担当することになりました。どうぞよろしく」
「……ご丁寧に……ふふ……少し、緊張してしまいますわ……ごほっ、ごほ、ごほっ……」
咳込みながらも、カミラはその男を鋭く観察する。
医師としての仕草、距離の取り方、目の動き――そのすべてが冷静すぎるほど整っている。
(なかなかに用心深そうね……)
「まずは軽く、聴診させていただいても?」
「……はい。どうぞ」
伏せたままの目元に、演技の涙を滲ませながら、ゆっくりと上半身を起こす。
侍女が差し出したクッションに背を預けながら、カミラは咳を交えるタイミングを完璧に調整する。
(今なら薬が効いているはず。心拍は不整脈に近い。医者の目からすれば“深刻な病状”にしか見えない)
ハロルドが、聴診器を当てる。
冷たい金属の感触が、薄いナイトガウン越しに胸元へ触れた瞬間――
彼の眉が、わずかに寄った。
(――感じたわね)
「……少し、おかしいですね」
低く、抑えられた声が落ちる。
カミラはすぐに、胸元を押さえたまま小さく呻いた。
「こ、これは……いつも、こんな感じで……ひっ、ごほっ、ごほっ……っ!」
まるで“心臓に痛みが走ったかのような”芝居。
そして目には、ちゃんと薬効の影響で汗が滲んでいる。演技と薬の融合――その効果は完璧だった。
ハロルドは一歩下がり、何かを深く考えるような表情を浮かべた。
その目は、単なる“医者の好奇心”以上のものを感じさせる。
(……やっぱり。普通の医者じゃないわね)
カミラは、胸の奥で冷笑した。
「心拍に明確な疾患名はつけられませんが……心臓に負担がかかっていることは確かです。
カミラ様、しばらく安静を最優先にされてください」
「……ええ……そうしますわ……ごほっ……」
彼女は意図的に力なく笑い、俯く。
涙で揺れる睫毛が、その“儚さ”を見事に演出していた。
ハロルドが書き残していった診療記録には、こう記されていた。
『不整脈、もしくは未確認の心疾患の可能性。現段階では判断不可。慎重な経過観察が必要。』
――予定通り。
そして、彼が部屋を出る直前。カミラはそっと声をかけた。
「ハロルド先生……」
「はい、なんでしょう」
彼女はうっすらと微笑み、首をかしげてこう言った。
「人は、見た目どおりではないことも、あるものですわよ」
部屋の扉が閉まる。
カミラは立ち上がり、鏡の前で唇をなぞる。
微かに残る薬の痺れ。
だがその毒では、人を殺せない。
本物の毒は、殺すべき相手にだけ――それが彼女の流儀。
「さて……まずは“医者”の観察から始めましょうか。
あなたがただの凡人か、それとも――」
その瞳に、冷たく美しい殺意が宿る。




