第8章 同じ場所に立つまで
葛城先輩が結婚した──そんな情報を目にしたのは、半年前のことだった。相変わらずROM専を続けていたTwitterのタイムラインで、そんな投稿を見かけた。どこか現実感のない言葉だったのに、私の胸の奥には妙に深く沈んだ。
それ以来、先輩の名前を目にするたびに、鼓動が一拍遅れるような感覚があった。でも、“もう会うこともないだろう”と、自分に言い聞かせていた。
だから、仕事帰り──あたりはもうすっかり夜だった──駅前の横断歩道でばったり再会したとき、私は完全に動揺していた。
「……透子ちゃん?」
振り返った先にいたのは、まぎれもなく、葛城先輩だった。数年の時間を越えて、その声だけが真っすぐに届いてきた。
「え……あ、はい……あの、久しぶりです……」
自分でも声がうわずっているのがわかった。心拍数が一気に跳ね上がる。視線の置き場に困る。なのに先輩は、まったく変わらない笑顔で立っていた。
「こんな時間だけど……少し、話せたりする?」
私は頷いた。反射的に。その場で断っていたら、きっと一生後悔する気がした。
「うち、すぐそこなの。お茶だけでもどう?」
「でも……旦那さんは?」
そう尋ねると、先輩は一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに微笑みながら答えた。
「出張中だから、気にしないで」
その一瞬の曖昧さが、どこか“夫”という言葉をあえて避けたような、やんわりとした空気をまとっていた。私は胸のどこかで、何かを察していたのかもしれない。
***
マンションの一室。静かな照明。観葉植物の影が床に落ちていた。テーブルの上には、マグカップと薄い紅茶の香り。
「お腹すいてたら、何か作るけど……」
そう言ってキッチンに立つ先輩を、私はソファから見つめていた。
なんで、こんなに自然なんだろう。久しぶりに会って、こんなふうに隣に座っているのに、時間だけが私を焦らせていて、先輩はまるであの頃のままだ。
やがて私は、自分のなかに沈殿していた言葉をひとつずつすくい上げるように、語り始めた。幹事長選で落ちたこと。副幹事長にすらなれなかったこと。どれだけ走っても報われなかった日々。そして──
「……先輩が幹事長になれたことが、ずっと、苦しかったです」
私は震えながら言った。
「先輩のことが好きでした。でも、それと同じくらい、先輩に嫉妬してました。そのふたつが、まったく同じ重さで、ずっと心の中にあって──どこにも吐き出せなくて、本当に、しんどかったです」
先輩は、静かに私の話を聞いていた。まるで、過去の私のすべてを覚えているかのように。そして、ふと微笑んで言った。
「……透子ちゃんは、ほんとに真っ直ぐだね。私、正直、自分が幹事長だったときも、そんなに頑張ってなかったよ」
その言葉に、私は一瞬、息が詰まった。──そんなに頑張ってなかった?どうして、そんな人が、選ばれたんだろう。どうして、私は、あれだけ必死だったのに、何にも届かなかったんだろう。
私は、急にわからなくなっていた。自分の至らなさが、負けた理由だと思っていた。でも、先輩が語る“自然体のリーダー像”は、まるで別の価値観だった。頑張らなくても、選ばれる人がいる。私のように、頑張らないと“存在すら見えなくなる”人間とは違うのだ。私は、泣きながら言った。
「知ってます。でも……それでも、先輩は選ばれたんです。私は、選ばれなかった。──それだけが、どうしても受け入れられなかったんです」
そう、はっきりと伝えた。吐き出した瞬間、また涙があふれた。先輩は、表情を崩さず、ただそっと隣に寄り添ってくれた。
***
先輩は私の手にそっと触れた。そして、まるで「いいよ」とでも言うように、指を絡めてきた。私は、抗えなかった。恋心と嫉妬が、ひとつになって胸の中で渦巻き、先輩の体温に触れた。
「……今日は、泊まっていかない?」
その声に、私はただ頷いた。まんざらでもなさそうな、あのやさしい笑顔に、私は自分をゆだねた。電気を落とした部屋。静かな時間のなかで、ふたつの影が重なった。唇が重なり、手が肌をなぞり、あふれていた感情のすべてが、先輩の中に吸い込まれていくようだった。
途中、ふと目をやった寝室の片隅に、ふたつ並んだスリッパがあった。鏡台の引き出しから覗く、女性用のヘアゴム。そこには男性の気配はどこにもなく、むしろ私と同じ香りのする生活の跡があった。──ああ、やっぱり。
私は、ごく自然に尋ねていた。
「……先輩の結婚相手って、女性の方ですよね?」
先輩は、少し驚いたような顔をして、それから穏やかに笑った。
「うん。やっぱり気づいてたか。透子ちゃん、鋭いね」
「……なんとなく、雰囲気で。生活感とか、そういうの」
「ほんとはね、私も……透子ちゃんのこと、昔から気になってた。でも、透子ちゃんがいなくなっちゃったから、それっきりで……」
その言葉に、私は少しだけ冷める思いがした。──退会しないで欲しかった、ってこと?だとしたら、あのとき、私を幹事長に選んで欲しかった。私は胸の内でそうつぶやいた。
「それって……私のこと、昔から気づいてたってことですか?」
「うん。透子ちゃんも私のこと、本当に好きなんじゃないかって。気づかないふりしてたけど、ほんとは分かってた。別所温泉でメイクしてあげた時も、伊豆急線でアイスを食べさせてあげた時も、新歓合宿でポッキーゲームをした時も──あの時の透子ちゃんの反応から、私にはちゃんと伝わってたよ。ドキドキしてたの、感じてた」
その言葉に、私は少し顔を赤らめてしまった。
「……実は、私、今日が"初めて"だったんです」
「え……ほんとに?」
先輩は、一瞬黙り、それから少し照れたように笑った。
「……透子ちゃん、正直だね。私は他の人と結ばれたけど、透子ちゃんは私と結ばれるまで待っててくれた、ってことになるのかな」
先輩は、そんな自分との対比をやわらかく受け入れ、私の真っ直ぐさを、まるごと肯定してくれた。
その瞬間、胸の奥にずっと押し込めていた感情が、一気にあふれ出して、私は声を立てて泣いた。抱きしめてくれる先輩のぬくもりに包まれながら、ようやくすべてが流れ出ていくのを感じていた。
けれどその一方で、私は先輩の言葉に別の意味も感じ取っていた。──透子ちゃんは私と結ばれるまで待っててくれた──それは、私が同じ場所に立つまで、先輩も待っているということではないだろうか。そう、幹事長という場所に──。
***
私は気づいてしまった。この一夜が、私の中で何かを終わらせるはずだったのに、むしろくすぶっていた火種を再発火させてしまったことに。
私は、先輩の足元にすら届かない。それが真実だった。──でも、だからこそ、少しでも近づきたい。届かないなら、届くところまで行きたい。
今までは、幹事長に再挑戦したいという気持ちは、この世に自らを繋ぎ止めるための“言い訳”だった。けれどその言葉が、初めて前向きな“目標”に変わった瞬間だった。
朝。薄明かりの中、私は笑った。
「先輩……私、ようやく覚悟が決まりました」
柚子先輩は、やわらかく微笑んで言った。
「それなら、よかった」
胸の奥に灯った火は、消えていない。幹事長になれなかったことへのわだかまり。それと向き合い、もう一度挑戦したいと思った。今度こそ、ただの泡沫候補じゃない、ちゃんとした候補として、再び立ちたい──そんな気持ちが、自分の中に生まれていた。そのためには、あのときの延長ではなく、もう一度“学生”として、ゼロからスタートする覚悟が必要だ。
家に帰ると、私はパソコンを開いて、他学部への学士入学制度について調べ始めた。条件、入試時期、必要な書類──ひとつひとつが、今までなら読み飛ばしていたような情報なのに、不思議とすっと頭に入ってくる。
今の私は違う。本気で、もう一度あの舞台に立つために、現実を動かしたいと思える自分がいた。幹事長になりたい──ただそれだけの思いが、今の私を前に進ませていた。
そんな自分に、少しだけ驚きながら──そして、少しだけ誇らしく思いながら──私は、新しいページを開いた。