番外編 招かれざる客
母校の学園祭を訪れるのは、何年ぶりだろう。社会人になってからは、結局一度も顔を出せていなかった。
それでも今年は、なぜか足を向けてしまった。昨日の夜、ニュースアプリで偶然、交研の展示が紹介されていた。懐かしい写真と「交通の未来を語る若者たち」という見出し。その一文に、胸の奥を軽くつつかれたような気がした。
学園祭2日目。大学の最寄り駅に降り立つと、風の匂いまで昔と同じだった。木々の間を抜ける坂道、祭りのような喧騒、模擬店の呼び込み。
だが、私の足取りは重かった。
――行っても、知っている顔なんていない。
そう思いながらも、キャンパスの中心を抜けて交研の展示室の前まで来てしまう。
入口のポスターには、見覚えのないロゴと、「都市交通のカーボンニュートラル化に向けて」というテーマが書かれていた。私のいた頃とはずいぶん雰囲気が違う。それでも、ガラス越しに見えるパネルの配置や手書きの説明文の温かさは、どこか懐かしい。
入るか、帰るか。しばらく迷ってベンチに腰を下ろした。時計を見ると、もう30分も経っていた。
――ここまで来たんだ。入らない方が後悔する。
そう自分に言い聞かせて、私は展示室の扉を押した。
中では、現役の学生たちが熱心に来場者へ説明していた。路線図、模型、データグラフ。あの頃と変わらない、手作りの熱量。
だが、当然ながら、彼らの中に私を知る者はいない。私の知っている後輩は、1つ下の代まで。とうの昔に卒業している。
壁際の写真展示を眺めていると、背後から声をかけられた。
「あれ、もしかして朝倉さん?」
振り向くと、1つ上の先輩が立っていた。その後ろにも、何人かの見覚えのある顔。思わず会釈するが、1人は明らかに目を反らしていた。まあ、心当たりはあるので仕方ない。
「お久しぶりです」
「久しぶり。元気だった?今日は懐かしくてさ、ふらっと見に来ちゃった」
あの時以来の再会。けれど、そこに葛城先輩の姿はなかった。もし会ったとしても、きっと気まずくなっただけだろう。同期の姿もなかった。どうやら転勤族が多いらしい。
先輩方とは展示の感想や近況を軽く交わしただけで、あの時の件には誰も触れなかった。まるで何事もなかったかのように。
――大人の対応をしたということだ、お互いに。
表面だけの笑顔を貼りつけて、私は相槌を打つ。やがて閉場時刻が近づき、先輩方は「じゃあそろそろ」と展示室を後にした。
どうやら、このあと飲みに行くようだ。笑いながら並んで出ていく背中を見送ると、急に胸の奥が冷たくなった。
閉場のアナウンスが流れ、来場者は次々と退場していく。サークルにツテのある卒業生だけが、現役のふりをして残っているのは、昔と同じ光景だった。私もその1人として、片隅の椅子に腰かけたまま、何となく時間をやり過ごす。
現役生が打ち合わせを始めたころ、邪魔になるといけないと思い、ようやく立ち上がった。私が退出するころにも、他のOBたちがまだ数人、残っていた。
キャンパスを出ても、胸の中のもやは晴れなかった。このまま帰るのも、どこか物足りない。
――先輩たちと合流できないだろうか。
そんなことを考えてしまった自分を、心のどこかで笑う。でも、どうしても、もう少しだけ誰かと話したかった。
私はスマホを取り出し、LINEの検索欄から、数年ぶりのチャット画面を開いた。送信履歴の最後は、幹事長選の直前の日付だ。
画面を見つめたまま、しばらく指が止まる。そして、できるだけ丁寧な言葉を選んだつもりだ。
→夕食の会などされているようでしたら、差し支えなければ私も参加させていただけると大変幸いです。
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥がざわついた。5分、10分と待っても既読はつかない。キャンパスの周辺をうろついて30分、ようやく通知が来た。
→すみません。あいにく席が一杯で、今からは難しいと思います。ぜひご一緒にという気持ちは山々なのですが……
文章は丁寧で、冷たくはない。だが、コミュ力に乏しい私でも、流石に意味は分かる。
ため息をつきながら、私はROM専していたXの鍵アカウントを開いた。案の定、目に飛び込んできたのは、交研の御用達だった居酒屋の写真。笑顔の先輩方が、あの頃と同じように、雑多とした店内で乾杯している。「席が一杯」という概念が、いつからこの店に生まれたのだろう。
指先が微かに震えた。胸の奥で、あの日の台詞が蘇る。
――まあ、次の幹事長は小野寺で決まりでしょ
(第3章より)
思えば、メッセージの相手はあの時の先輩だった。決して、彼が意地悪をしたというわけではない。メッセージの相手が他の先輩だったとしても、答えは同じだったはずだ。
私はゆっくりとスマホを伏せ、夜の空を見上げた。街灯の明かりが、涙の膜で滲んでいた。
――もう、ここには私の居場所はないんだ。
交研は、私にとって唯一、本当の自分でいられる場所だった。真面目な優等生を演じなくてもいい場所。羽目を外して、葛城先輩にも少しだけ近づくことができた。そんな時間が、何よりも好きだった。
けれど、あの日――幹事長選で敗れた瞬間、すべてが遠ざかっていった。人は、勝った者の物語しか語らない。敗者はただ、背景として忘れられる。
もし、私が当選して幹事長になっていたら。今の私は違っただろうか。
――意味のない質問だよ。
かつて、そんなヤジで炎上した総理大臣がいた。当時の国会中継を繰り返し再生して、自分に言い聞かせる。
葛城先輩のような人望もなく、社交性もない。人をまとめることより、誰かに認められることばかり考えていた。あの頃には既に、嫉妬と自意識の塊のような人間だった。ただ少し勉強ができて、真面目そうに見えただけ。
そんな私が幹事長になれるはずはない。
――これは最初から決まっていたことなんだ。
シナリオ通りに、葛城先輩は幹事長になり、私は蚊帳の外。唯一の居場所だった交研を離れ、社会に出てからも「何か凄いらしいけど寡黙な不思議ちゃん」を演じる日々。その脚本は、私の意志とは関係なく書かれていたのかもしれない。
人は運命に抗えるのだろうか。私はもう、そんな問いを立てる気力すら失っていた。
駅までの帰り道、学園祭の喧騒が背後に遠ざかる。学生たちの笑い声が、かつての自分のように思えて、胸が締めつけられた。
構内のコンビニで買ったコーヒーを片手に、私は小さく息を吐く。香ばしい香りが鼻をくすぐる。思えば、交研の部室でも、よくこうして飲んでいたものだ。
夜風が頬を撫で、葉のざわめきが遠くに響く。あの頃の笑い声も、きっと今はこの風のどこかに溶けているのだろう。
――私の居場所は、どこにもない。
そう思いながらも、歩みは止まらなかった。電車に乗り込み、窓に映る自分の顔を見る。そこにいるのは、ただの一人の社会人。もう交研の会員ではなく、幹事長候補でもない。
車窓の向こうに流れる夜景が、少しだけ滲んだ。明日になれば、また平凡な日常が戻る。淡々と仕事をこなし、無難な言葉を選んで生きる日々。
それでも――たまに思い出すだろう。あの夏の選挙、あの夜の涙、あの頃の自分を。
ホームのアナウンスが響き、電車が動き出す。私はそっと目を閉じた。
――交研は、もう過去の私の中にしか存在しない。
それでも、あの場所で夢を見た日々があったことだけは、否定したくなかった。誰にも届かなくても、あの頃の私が確かにここにいたという証として。
夜の車窓に、ぼんやりと光が流れていった。その淡い残光の中で、私はようやく小さく息を吐いた。
「さよなら」と、誰にともなく呟いて。




