番外編 ひとつ先の信号
都内から偶然訪れていた知人と、駅前の喫茶店でお茶をした帰り。あいにくの土砂降りだ。店先で傘を開き、新幹線で帰宅する彼と別れた。私は旧市街の方へと足を向ける。
二杯もコーヒーを飲んだせいか、腹の奥がわずかにざわついていた。けれど、さっき喫茶店で用を足したばかりだし、と、その時は深く考えなかった。普段なら車で数分の距離も、歩くと案外遠い。石畳に雨が降りつけ、灰色の景色が少しずつ滲んでいく。
目的の店で用を済ませ、駅へ戻る道すがら、尿意が急に輪郭を持ちはじめた。この通りは店が多いわりに、コンビニのように気軽に借りられるトイレがほとんどない。歩幅が速まる。あの信号を渡れば駅前の交差点だ――そう信じて小走りになったとき、遠目に見えた青い光は、実はまだひとつ手前の信号だった。
その瞬間、堰が切れた。一度緩んだ感覚は、もう自分の意思ではどうにもならない。土砂降りの雨が、せめてもの救いだった。人通りもまばらで、傘越しの世界はぼやけていた。
傘を閉じ、意図的に全身を雨にさらす。「濡れてしまった人間」に見えれば、それでいい――そう思い込むしかなかった。駅の反対側、アウトレットの奥にコンビニがあるはずだ。そこまで行けば、何とかなる。
人目を避けるように駆け、まずは下着を買い、トイレにこもって手早く着替える。濡れた下着は、たまたま持っていたエコバッグに突っ込んだ。だが問題はズボンだ。アウトレットならすぐに調達できる。試着もせず会計を済ませ、ビニール傘で腰を隠すようにして再びトイレへ。靴まで染みていたので、安物のサンダルも買った。靴は、もともと買い替え時だった。
着替えを終えて鏡に映る自分を見たとき、見た目は取り繕えていても、濡れた衣服と、備え付けのトイレットペーパーで拭いただけの自分の体が不安だった。結局、再びコンビニに戻り、ウエットティッシュと、大きめのレジ袋を何枚か購入。トイレに戻って改めて全身を拭きなおし、濡れた衣服を袋に押し込んだ。
電車の時間まで駅で待ったが、気づかれていないかという不安は消えない。結局、多目的トイレにこもり、備え付けの石鹸と水で洗えるものはすべて洗い、密閉した。靴は袋ごと、可燃ごみの投入口に落とす。マナー違反とか、そんなことは気にしない。
帰宅してすぐ、エコバッグごと洗濯機を回す。乾燥機の中で布が舞う音を聞きながら、あの「ひとつ先の信号」を思い出す。
この年になって、私はいったい何をやっているんだろう――恥ずかしさと情けなさが、遅れて胸に広がった。そしてふと、もしあの場に葛城先輩がいたらと思う。葛城先輩は、そんな惨めな姿の私も受け入れてくれただろうか。いや、もしかしたら、案外そういう趣味かもしれない――
そんな妄想をしたところで、はっと我に返った。あの信号は、もう二度と見間違えない。




