番外編 甘さのあとに残ったもの
──2年春の新歓合宿は、群馬県神流村の合宿施設で行われた。私が1年のときは、わたらせ渓谷鉄道の貸切列車があり、それなりに華やかな印象だった。けれど今回は違う。特別な催しもなく、現地集合・現地解散の質素な形式。しかも、旅客鉄道のない神流村が合宿地という──私が執行部にいたとしても、決定に抗えたとは思えないが、どこか引っかかるものがあった。
児玉駅から合宿施設へ向かう送迎バスは、型落ちの三菱エアロクイーン。自家用ナンバーで、見た目は完全に観光バスそのもの。十人足らずの乗客に対して、あまりにも過剰な車体。もちろん、無料の送迎である以上、白バスのような違法なものではないことはわかっていた。ただ、見た目がそれらしく見えてしまうことに、漠然とした不安があっただけだ。すでにこの時点で、私はなぜか「今夜、何かが起こる」と感じていた。
***
到着後は夕食、新入生向けのクイズ大会。そのあとは自由飲酒タイム。こういうときでなければ、私は葛城先輩とまともに話すことすらできない。酔っていれば、なにか許されるというわけじゃない。でも、素面では踏み込めない領域が、お酒の席ではほんの少し近づくことがある。
「せ、先輩……あの、ポッキーゲーム、しませんか?」
自分でも驚くくらい、声が震えていた。続けて、念押しをしてしまう。
「ほ、本当にしますよ? 後で訴えるとかなしですよ? ちゃんと確認しておきたいんです」
先輩は目を丸くし、それからいたずらっぽく笑った。
「やりたいの? やりたくないの? どっち?」
まるで私を試すように、わざと目をのぞき込むような仕草で言ってくる。その視線に鼓動が跳ねた。私はその笑顔にどきりとした。からかうような余裕のある目線と、軽い「いいよ」に、胸が詰まった。
「……じゃあ、やりますね……?」
声はかすれていた。先輩は座布団の端に膝を折り、少し身を乗り出す。
「ほら、ちゃんと加えて。ゆっくりね」
自然すぎるその声に、余計に緊張が走った。
主導権は完全に、先輩のものだった。先輩の唇と、私の唇。そのあいだに、ポッキーが1本。部屋の灯りが柔らかく、畳の上には座布団と空き缶の残骸。ほのかに熱を帯びた空気のなか、私たちはゆっくりと距離を縮めていく。ポッキーの端を噛みながら、少しずつ近づく。
先輩の吐息が頬をかすめ、私は目を閉じた。視界が閉ざされ、五感が研ぎ澄まされる。先輩の体温、かすかな香り、湿った呼吸──すべてが私の世界を埋めていく。私は、唇が触れたその先、舌が絡む妄想に没頭していた。とろけるような感触。先輩の舌に包まれて溶けていく感覚を、頭の中で繰り返した。
ポッキーは短くなり、互いの距離はほんのわずかに。先輩のまなざしが潤んで見えた。私はそれを直視できずに目を伏せる。心臓が早鐘を打ち、呼吸を整えようとしても逆に苦しい。あと数センチ、あと数ミリ──このまま行けば、きっと触れる。その確信と、触れてしまうことへの恐れ。
その瞬間──ぽきり、と乾いた音がして、ポッキーは折れた。
「……も、もう一回、してもいいですか?」
何を言っているのか、自分でもわからなかった。さっきまで誘っていたはずなのに、完全に翻弄されている。
「好きだね、透子ちゃんはこういうの」
先輩は笑って、もう一本のポッキーを差し出した。気づけば私も、わずかに笑っていた。
***
「透子ちゃん、そろそろいいかな?」
先輩の一言で、我に返った。
「す、すみません。もうしませんから……」
唇まで、あと数センチだった。届かなかった。でも、先輩の呼吸は確かに感じた。あのときお願いすれば、キスも許されたのかもしれない。それでも私は、何もできなかった。そのことだけが、少し悔しい。先輩の香り、体温、笑顔──それらだけが、私の中に濃く残った。
***
そろそろお開きという頃に、畳の上で横になっていた3年の相原直樹さんの様子がおかしいと、数人が気づいた。呼びかけにも反応がない。たまたま居合わせた4年生たちが顔を見合わせた。
「これ……急性アルコール中毒じゃないか?」
そう言って、すぐに処置が始まる。水を取りに走る人、バケツを運ぶ人──皆がそれぞれに動いた。
相原先輩は、意識のないまま数度戻していた。意識がない。それだけで、どれほど危険な状態かは言うまでもない。一歩間違えれば、命に関わる。
それでも、すぐに救急車を呼ぶべきかという判断は揺れた。「大ごとにしたくない」──その空気は、確かにあった。サークルの合宿で飲酒事故が起きれば、公認取り消しの可能性もある。誰もがそのことを意識していた。
とはいえ、対応が遅れれば、取り返しのつかないことになる。ある4年生が#7119(救急相談センター)へ電話をかけようとしたそのとき、相原先輩が意識を取り戻した。──事なきを得た。運が良かっただけだった。
無謀な飲み方をした本人が最も反省すべきなのは当然として──私が気になったのは、その間の葛城先輩の動きだった。あの場で動いていたのは、ほとんどが4年生たちだった。水を持ってきたのも、処置の指示を出したのも。葛城先輩は、誰かに促されてスマホで応急処置の方法を調べただけ。私の記憶が正しければ、それ以外のことはしていない。誰かに指示を出すでもなく、「お願い」と頼むことすらなかった。現場の対応は、事実上すべて丸投げだった。
もちろん、無闇に動いて混乱を生むのは良くない。けれど、幹事長という立場である以上、少なくともその場に「いるだけ」では済まされないはずだ。
私はそのとき、ようやくわかった気がした。葛城先輩は好きだった。でも、幹事長に選ばれたときから、私はずっと違和感を抱えていた。──この人は、本当に幹事長としてふさわしいのか?あの夜、私はその疑問に対する答えを受け取ってしまった。
覚悟も、責任感も。葛城先輩には決定的に足りていなかった。あの場にいた誰よりも立場があるのに、責任を引き受ける姿勢が、どこにもなかった。憧れでも理想でもない。私はその夜、初めて先輩を冷静な目で見つめた。
──もし、自分が幹事長だったら。そう思わずにはいられなかった、一夜だった。




