番外編 男装温泉ナイト
──1年生の冬、副幹事長選で敗れてから数週間後のことだった。交通研究会の旅行班で、上田電鉄を貸し切って別所温泉に泊まりに行った。鉄分と温泉を同時に摂れる、そんな贅沢な冬の小旅行だった。貸切列車の旅は、想像をはるかに超えて充実していた。鉄道会社の厚意で、普段は立ち入れない車庫での運転体験までさせてもらい、鉄道好きとしては夢のようなひとときだった。
夜には当然のように宴会が始まり、旅館の大部屋でのバカ騒ぎは、深夜に差し掛かっても終わる気配がなかった。
「透子ちゃん、ほら、あれやってあげるよ! 男装メイク!」
突如、部屋の隅で化粧ポーチを広げていた葛城先輩が、そう声をかけてきた。彼女はすでに、自分の顔にしっかりと影を入れ、ウィッグをかぶって「二次元から出てきた王子様」みたいになっていた。笑いながら「これで演劇部落ちたんだよねー」と言っていたが、正直、完成度が高すぎて引いた。あの眉の角度、口元の涼しさ、ウィッグ越しの横顔。 そして、どこか誇らしげに微笑む姿。
(こんな人が幹事長なんて、ずるい)
(……いや、だからこそ、少しでも並びたい)
「……やります」
そう決断したのは、先輩の王子様姿に並びたかったから。負けず嫌いの私は、即答していた。頬骨のライン、鼻筋の影、目元のぼかし──全部、葛城先輩が丁寧に施してくれた。至近距離で鏡越しに見つめられながら、指先で頬をなぞられるたび、私は心の中で何度も跳ね上がっていた。
(やば……めっちゃドキドキする)
緊張を悟られないように、ひたすら無言で耐えながら、私は“それっぽい顔”になっていく自分を見つめていた。
そのときだった。
「何時だと思ってるんですか! 苦情がたくさん来てるんですよ!」
突如ドアが開き、旅館の支配人が鬼の形相で飛び込んできた。その場は、まさに男装軍団の宴たけなわ。葛城先輩はとっさに顔をタオルで拭き取り、あっという間に“文学部の人畜無害そうな先輩”に戻った。
一方私は──
「……あの」
バッチリメイクのまま、スポットライトを浴びるみたいに支配人の前に立っていた。支配人の目が、一瞬にして泳ぐ。支配人の目が、一瞬にして泳ぐ。たぶん、私のことを「どっちだ……?」って一瞬本気で迷ったんじゃないだろうか。
「いい加減にしてください! メイクなんて、部屋の中で静かにやってもらえませんか!」
と支配人は顔をしかめて怒鳴った。怒鳴り声が、やけに耳に響いた。
私の顔はまだ“戦闘態勢”のままだった。みんなは笑いをこらえながら顔を見合わせ、支配人が部屋を出たのを見届けるや否や、大爆笑が巻き起こった。葛城先輩は「透子ちゃん、強すぎ!」と腹を抱えて転げ回っていた。
……でも、私にはちょっとした誇りがあった。
(もしかして、今夜だけは葛城先輩を超えたのでは?)
そんな錯覚とともに、私は男装メイクのまま一人で優越感に浸っていた。
翌日から、「葛城×朝倉」カップリングをネタにしてくる人たちが出てきた。「マジで付き合えば?」 「昨日の“ダブル王子”の並び、尊かったわ~!」──誰も本気で思ってない。
でも、それでも。ちょっとだけ、うれしかった。私はこの冬の夜を、ずっと忘れない気がする。




