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末の先

作者: 南波 晴夏

本作は文学フリマにて販売した短編集『末の先』に収録されている表題作です。

『末の先』は引き続き文学フリマにて販売予定です。ご興味がございましたらぜひブースまで足を運んでいただければと思います。

サークル太陽花屋にてお待ちしております!


『末の先』収録作品

「末の先」

「末永く果てるまで」

「愛を残す」

「君を残す」

 窓から差し込む夕日に淡く照らされ、長いまつげが頬に影を落としている。

 高校三年の春。一年の頃から付き合っている彼女とは結局三年間同じクラスになり、こうして放課後の教室に二人で残る習慣も変わらず続いていた。今までは他愛のない会話をしたりゲームをしたりして過ごすことが多かったが、受験生になってからは勉強することの方が多くなっていった。

 彼女はクラスの中で一際目立つような存在ではないものの、親しい人にはよく陽の光のような笑顔を見せていた。快活で強かで、敵に回すと恐ろしい。そんな性格の彼女は意外にも真面目に勉強していた。内側に巻かれた毛先が肩に乗り、前髪の分け目から覗く額は少し幼く見える。

 ふと、彼女の大きくて丸い目が僕の方を向いた。

「今絶対サボってたでしょ」

 僕の視線に気づいてか、彼女が悪戯にそう言ってニッと歯を見せる。その笑顔には何度見ても決まって釣られてしまう。

 やがて最終下校時刻を知らせるチャイムが鳴り、彼女は両手を組んでうんと伸びをした。

「終わったぁー。ね、今日もあそこ行くでしょ?」

 勉強が終わって学校を後にすると、僕たちは決まって駅近くの路地裏にある小さなカフェに向かった。そこは僕らが高校生になるのと同時期にオープンしたらしく、今となってはすっかり行きつけの店になっている場所だった。紺と白を基調とした清潔感のある外観は印象的で、爽やかさの中にアンティークを織り交ぜたような内装にも店主のこだわりを感じる。その雰囲気は彼女曰く『女心をくすぐる』らしい。

 落ち着いた白い壁に木製の鳩時計は不思議と調和が取れていて、彼女はその鳩時計と店の看板メニューであるパンケーキをすっかり気に入っていた。

 一番奥のテーブル席。いつものように彼女がソファ側、僕が通路側の椅子に腰かけ、ブラウンのエプロンを着けたウェイトレスに慣れた調子でパンケーキと紅茶を注文する。

 何の変哲もない日常。幾度となく繰り返してきた行動様式。

 それでも彼女と過ごす毎日は新鮮で、同じことをしていても飽きることなど決してなかった。学校の話、家族の話、趣味の話。尽きることのない会話はどれも他愛のないもので、どれもかけがえのないものだった。

 満足そうにパンケーキを頬張りながら次々と話を展開させていく彼女は生き生きとしていて、僕はその姿を見ていることが好きだった。弾む会話に心を躍らせ、ぬるくなった紅茶の存在すら忘れて笑っていると、時間はいつの間にか過ぎ去ってしまっている。十九時三十分近くになると、決まって彼女の口からお開きの言葉が放たれる。

「帰ろっか」

 いつもの如く彼女がそう言って立ち上がり、鮮明に漂っていた『過去』はフェードアウトするように消えていった。



            *



 絵鳩瑞樹(えばとみずき)には不思議な能力がある。

 その能力とは眠っている間、一時間だけ過去や未来へ行くことができるというものだった。

 ただし向かう時空に規則性はなく、本人に決定権はない。その上過去や未来の中での瑞樹の行動は現実には影響しない。

 病気の発見が遅れて亡くなった愛犬を『過去』で動物病院に連れて行っても、中学生の頃に行った『未来』で高校生のテストが全く解けなくても、現実は残酷に平等に巡っていて、愛犬が生き返ることもなければテストが零点になることもなかった。

 瑞樹はこの不思議な能力を『旅』と呼び、親しい人以外には隠して生活してきた。

 瑞樹の意志を無視する『旅』は、時に瑞樹の精神を蝕み、そして癒した。変えられない過去を嘆くことも、絶望的な未来を体感してしまうことも、裏を返せば全て『今』を大切にすることに繋がる。

 長年この能力と共に生きてきた瑞樹は、『旅』との付き合い方を充分に承知していた。

「ねーえ、まだぁ?」

 瑞樹の腰くらいの位置から、舌足らずな声を上げて手元を覗き込んできたのは小学一年生の瑞樹の孫であった。ほのかに香る甘い匂いに釣られてやってきたのだろう。瑞樹はお腹が空いたと訴える愛孫のためにパンケーキを作っていた。それは妻の好物でもあり昔から作り慣れているのだが、何しろ人数が多いので全て焼き上げるまでには少し時間がかかる。

「もう少しかなぁ」

 優しく答えながら、触れやすい位置にある頭を撫でる。幼さ特有の柔らかく短い髪が皺だらけの指の隙間を滑り抜ける。

「なんだ、またいつもの作ってもらってるのか? おやつの時間までまだ一時間もあるだろ」

 呆れたように笑いながらそう言ったのは帰省中の息子だった。細く通った鼻筋の割にくりくりと丸い目が妻によく似ている。

「いいじゃないか。それまでゲームでもして遊んでいれば」

「全く、父さんは相変わらず孫に甘いな」

「当然だろう」

 言いながら、『ゲーム』と聞いてはしゃいでいる孫の頭を再びくしゃくしゃとかき混ぜる。その無垢な笑顔は瑞樹に言いようのない幸福感を与えた。

 やがてパンケーキが二枚ほど焼きあがった頃、リビングからは楽し気な笑い声が聞こえてくるようになった。キッチンから顔を出して覗いてみると、孫と息子は同じテレビ画面を見て一緒になって笑ったり慌てたりしていた。こうして遠目から見ると息子まで幼い子どもに戻ったように見える。ソファの上で立ち上がっている孫の背丈が息子に近づいているからだろうか。二人はまるで気心の知れた友人のように見えた。

 テレビに向かい合う形で配置されているモスグリーンのソファは、この家を買ったばかりの時に購入したものだ。ありふれた家具屋で見つけた別段高額な訳でもないソファだが、妻はひどく気に入ったようで、訳もなく瑞樹を座らせたがることがよくあった。そのソファの左側が妻の定位置で、インドア派の妻はよくそこに座って本を読んでいた。

 そのうちゲーム内で何らかのアクションが起こったらしく、二人はわっと声を上げて一段と盛り上がっていた。ふと甘い香りが鼻腔をくすぐり、瑞樹はハッとして手元のパンケーキをひっくり返した。しかしパンケーキには既に黒い焦げ目が付いてしまっていて、瑞樹は苦笑しながら焦げたパンケーキを自分の皿の上に移した。火力を弱め新しく生地を流し込み、フライパンに蓋をしてから瑞樹は再び顔を上げた。

 目先のダイニングチェアには先月四歳になったばかりの孫娘が大人しく座っていた。

 ゲームをして盛り上がる父と兄を他所に、ひとりで黙々と折り紙を折っている。やがて瑞樹の視線に気づいたのか、孫娘は手を止めて完成していた折り紙をこちらに向けて掲げた。

「じいちゃん」という控えめな声に、瑞樹は火を止めてダイニングに出て行った。何か話したいことがあるのかと思ったのだが、孫娘は瑞樹が近づくと更に手を突き出して「ん」と短く言っただけだった。

「じいちゃんにくれるの?」

 尋ねると、孫娘は口を開きはしないものの恥じらうように身をよじって頷き、笑顔を見せた。瑞樹は小さな手からハート型に折られた鮮やかな赤色の折り紙を受け取って「ありがとう」と微笑んだ。そのまま優しい手つきでシャツの胸ポケットに折り紙を仕舞うと、瑞樹は一度モスグリーンのソファに目を向けた。

「ばあちゃんにも作ってあげて欲しいな」

 言うと、孫娘は一度大きな目をぱちくりとさせたが、やがて黙ったままこくりと頷いた。小さな頭にぽんと手を置いてキッチンに戻ろうとすると、玄関扉の開く音がした。

「ただいまぁ」

 両の手に買い物袋をさげて玄関に立っていたのは瑞樹の義理の娘だった。即ち孫達の母親である。頼んでいた夕飯の買い出しから戻ったようだった。

「ありがとう。悪いね」

「いえいえ、このくらい……あ、それ」

 顔を上げて丁度瑞樹の胸ポケットから覗く赤色に目が行ったのだろう。思わず、といった感じに声を零した義娘に瑞樹は「可愛いでしょう。さっきもらったんだ」と得意気に胸を張った。

「やっぱり。この子本当に折り紙が好きで。誰かにあげる時は決まってハートを作るんですよ」

 言いながら義娘は色とりどりの折り紙が広げられたダイニングテーブルを覗き込む。一方孫娘は大人たちの会話など気にも留めていないようで、せっせと手を動かしていた。

 やがてテーブルの上に置かれた薄ピンク色のハートを見て、義娘が「あれ?」と興味深そうな声をあげる。

「これもじいちゃんにあげるの?」

 既に次の折り紙に手を付けていた孫娘は、母の示したハートに目を向けてふるふると首を振った。

「ばあちゃんの」

 ただ一言そう言った孫娘に、義娘は「そっかぁ」と娘の頭を撫でた。

「じいちゃんが頼んだんだ」

 言うと、二人は同時に瑞樹の方へ目を向けた。こうして見ると本当によく似ている。

 瑞樹は思わず笑って、「ありがとう」と心から礼を言った。

 数分後、人数分のパンケーキを焼き上げると孫娘は机に広げていた折り紙を小さな袋に丁寧に仕舞い始めた。瑞樹は義娘が拭いてくれたダイニングテーブルに出来上がったパンケーキを並べていく。時期にリビングからゲームをしていた二人がやってきていそいそと席に着いた。

 使い終わったフライパンなどを片付けていると、ダイニングから「じいちゃあん」と孫娘の声がした。瑞樹は「すぐに行くよ」と答えてパンケーキの乗った皿を持ち上げた。

 キッチンを出て、早くもパンケーキに食いついている孫に笑みを零しながら、瑞樹は自分の席を通り過ぎて建付けの悪くなった襖を開く。

 漆黒の前卓にパンケーキの乗った皿を置き、その隣に薄ピンク色のハートを飾って、ゆっくりと妻を見上げた。

 ふわふわとした真白い髪。遠近両用の眼鏡。くりくりと大きな目は柔らかく細められ、眦には皺が走っている。

 小さな写真立ての中で、妻はぴくりとも動かずに笑顔を保ち続けていた。

 蝋燭に火を付けて線香をあげ、りんを鳴らして両手を合わせる。いくつになっても子供に思える息子のこと、可愛くて仕方のない二人の孫のこと、息子と孫を支えてくれる心優しい義娘のこと。今日あった出来事を伝え、目にした光景を頭に浮かべる。

 ゆっくりと瞼を開け、その顔を目に焼き付けて、午後三時を知らせる鳩時計が鳴った。



            *



 どこからともなく漂う甘い香り。高校生の頃から馴染みあるものになったその香りは胸を満たす幸福の前兆だった。

 目を開けると、すぐ目の前によく見慣れた顔があった。

「おかえり」

 朝の挨拶にしては異質なそれが、僕と彼女との通常のやりとりだった。

「今日の旅はどうでした?」

 そう言って、彼女は悪戯に微笑んだ。

 僕には不思議な能力がある。

 その能力とは眠っている間、一時間だけ過去や未来に行くことができるというものだった。

 過去は思い出の反芻として。未来は心待ちにするための下見として。長年この能力と共に生きてきた僕は、『旅』との付き合い方を充分に承知していた。

「ただいま」

 僕はあくびをしながら彼女の言葉に応える。彼女には割と早い段階で能力のことを話していた。だから『旅』のことを知っている彼女は、毎朝「おかえり」という言葉で旅から帰った僕を迎えてくれるのだ。

 彼女は満足気に微笑み、「パンケーキ出来てるよー」と間延びした声で言いながら寝室を出て行った。籍を入れて、二人で住むための家に越して来てからいつの間にか三週間が経っていた。

 うんと伸びをして寝室を出ると、ダイニングには二人分のパンケーキと紅茶が並んでいた。さすが僕が作るものより数倍綺麗に焼きあがっている。

 ふとリビングに目を向けると、真新しい二人掛けのソファが目に入った。モスグリーンのクッションがやけに鮮やかに見える。その左側には一冊の単行本が置かれていた。きっと僕が起きるまではそこで本を読んでいたのだろう。新しい生活の中でも、彼女には早くも習慣が出来ているようだった。

 彼女と向かい合う形で席に着き、柔らかいパンケーキを堪能しながら今日の『旅』を思い返す。過去の『旅』も未来の『旅』も、それが良いものでも悪いものでも、『旅』は等しく『今』を愛しいものに感じさせる。

 朝日を反射する薄茶色の髪。大きくてくりくりとした小動物のような目。張りのある肌。シミ一つない頬。

 やがて僕の視線に気が付いたのか、口いっぱいにパンケーキを頬張っていた彼女が顔を上げる。

 その目はやっぱり、いつか生まれてくる我が子によく似ていた。

「今度、パンケーキの作り方教えてよ」

「えぇ? 瑞樹が作ってくれたことだってあるじゃん。それに作り方って言っても混ぜて焼くだけだよ?」

 怪訝そうに眉をひそめてそう言う彼女に、僕は思わず笑ってしまった。

「いいんだよ」

 心を癒すために過去があるのなら、未来は今の僕にどんな影響を与えるのだろう。

 必ず訪れる未来の一部を知っているというのは、とても有利で心地よく、そして残酷なことなのかも知れない。もしかしたらこの先、訪れる未来を受け入れられず蹲りたくなるような日が来るのかも知れない。

 ……それでも。

「何ぼーっとしてるの?」

 不思議そうに顔を覗き込んでくる彼女に、「なんでもないよ」と答えながらパンケーキを頬張る。溢れ出してしまいそうな何かを抑えるように、一切れ二切れと詰め込んでいく。

 ……いつか、今日を思い出す日のために。

 此処に訪れる日のために。

「これからもよろしく」

 甘ったるいパンケーキを飲み下して言うと、彼女は一度大きな目をぱちくりとさせ、ニッと歯を見せて幸せそうに笑った。

「末永く、ね」

『末の先』

令和六年五月十九日発行

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