第44話 カオスのはじまり
「うん、どうしよう……。なにから手をつければいいのかわからないっていうか、僕もうなんにもしたくない……。そうだ! 真珠ちゃん、僕と駆け落ちしよう!」
久々に会った竜胆叔父様はいきなり白絹お祖母様ばりの現実逃避! いや、駆け落ちって、白絹お祖母様よりドリームひどいよ!
だけどこれって寝不足とか時差ボケかなぁ。竜胆叔父様、こちらの昨日の午後の時点でアメリカ大陸だったもんね。なのに月白お兄様の「すぐ来て!」コールで大至急帰国することになって、それから準備とフライト時間だけでも相当あるはずなのに、今ってなんとまだ朝八時!!
ちなみに今、この黒玄家本館のダイニングルームには沙華さんとミルクちゃんとたぶんわたしが初めて会う相済真津子さんも同席してる。
昨日のお話合いで沙華さんたちはしばらくこの本館の三階で寝泊まりすることになった。
だけど、昨夜のわたしはゴリラと遊んで疲れてたから、真津子さんと会わずじまい。おやつのあと、早めのお風呂の時点でもう半分寝てて、晩ごはんは栄養たっぷりな哺乳瓶ゴクゴクだったらしい。完全に記憶にないくらい寝ミルク!
その分も今朝は夜明けのお庭を闇王パパや月白お兄様と一緒にお散歩。
ルンルンランラン、クアアもぴょんぴょん、キャーわくわく楽しいなって、白絹お祖母様やばあやにほほえましげに見守られながら、ひとしきり遊んだ後での朝ごはんは本館のダイニングルーム。
沙華さんたちは先に席についてたけど、闇王パパが部屋に入ってもミルクちゃんは泣かなかった。憲法の魔力制御装置の調節がうまくいったらしい。
でも、ゴリラは立ち入り禁止! っていうか、たぶんお仕事? 昨日のおやつのあと、青い髪の少年が宵司を呼びに来たんだよ。
「姫尊いオレ復活! でも闇王陛下の威圧で皆もう十回くらいフリーズしたんで、ボス解凍ヘルプ、仕事プリーズ! 逃げようにもここんちダンジョンよりムズいトラップだらけだし請求書パねぇっす! 経費とか数字の羅列でオレら全滅っす!」
宵司がそれからどうなったか、真珠ちゃん、知らない。別に興味ないしぃ?
でもって、沙華さんとミルクちゃんと相済真津子さんが加わった朝ごはんはいつもの十倍くらいにぎやかだった。正確にはミルクちゃん一人で大騒動だったんだけど……。
結論。わたし、まだもっとぜんぶ不器用な赤ちゃんでよさそう。
一応ね、沙華さんと真津子さんが自分の食事を適当に詰め込みながら、二人がかりでミルクちゃんに離乳食食べさせてたんだよ。
わたしもばあやに抱っこされて食べてたんだけど、同じように自分でスプーン持って食べたいって主張しても、そのスプーンを落としたり物をこぼしたり汚したりする度合いが違う……。
あきらめて食べさせてもらっても、口に入れてもらう途中でイヤイヤ首振って辺り一面汚しまくって、その汚れたのが嫌でギャーと泣き叫ぶことになるし、まだまだまともな言葉は出てこない。せいぜい「まんま」。
ミルクちゃんはまだ一歳のちいさな怪獣。
いやぁ、これは真珠ちゃんの成長が早すぎたね。反省。食べ物をお口に入れてもらったら、よーく噛み噛みしてごっくんしてから、笑顔で「おいち」とか礼儀正しすぎた。
だけど、月白お兄様は言葉がもっと早かったみたいだし、こういうのって個人差があるし、なにより、なによりもね、ここまでダダっ子赤ちゃんプレイするのは、おばさんメンタルがガリガリ削られてつらい……。
「真珠ちゃんはおとなしくて賢い子だって聞いてたけど、本当だったんだねぇ。いや、こりゃ憲法さんが心配していたのも納得だ。真珠ちゃんと較べて育てられたら、ミルクの性格が悪くなっちまいそうだ」
苦笑しながら、相済真津子さんはベビーチェアに座ってたミルクちゃんを自分の膝に引き寄せる。ミルクちゃん、よだれベタベタ、ひっくり返したお味噌汁であちこち汚れてるけど、よしよしする真津子さんの手に躊躇いはない。視線にも愛情がこもってる。
むしろ、白絹お祖母様がミルクちゃんを見る目の方がよそよそしい。でも、白絹お祖母様は自覚してる。
「そうなのよ。ごめんなさいね、真津子さん。ミルクちゃんは悪くないってわかっているし、本当に申し訳ないとは思うんだけど、ミルクちゃんを見ているとどうしても宵司の赤ん坊の頃を思い出して……いえ、違うわね。真珠が可愛いの。ああ、そうだわ。ミルクちゃん専属のお世話係を増やすから、相性のよさそうな人を好きなだけ採用してね」
必殺お金で解決!
だけど、真津子さんはとんでもないと首を振った。
「いやいや、ミルクのお世話係はもう五人も雇ってもらってるから、十分すぎるほどだよ。まあ、これから半月くらいは同じ屋根の下で暮らすことになるって聞いたから、一度はご挨拶をと思ったんだけどね。憲法さんの懸念が正しいのはよくわかった。この二人は一緒に育てないほうがいいね」
うーん、ミルクちゃんの育ての親から見てもダメかぁ……。
原作回避のための、幼少期からヒロインと仲良く作戦失敗!
まったく、憲法ってばなに言ってくれたんだろうね。真津子さん、すっかり懐柔されちゃってるよ。
そりゃ憲法、外面いいけどさ。インテリで優しげで、見た目だけなら常識的。ラスボス魔王な威圧たっぷりの闇王パパとか、カテゴリーが人間外、金髪ゴリラでむさい宵司と較べたら、黒玄三兄弟で一番ふつうに見えるイケメンかもしれない。だけど、中身は手段選ばないストーカーなのに……。
「ああ、いっそ白絹さんはミルクにとって金持ちの冷たい婆さんでもいいんじゃないかい。その分も私はミルクにとって優しくて愛情深い下町の婆さんってことになるし、沙華もいいお母さんと思ってもらえそうだ」
ミルクちゃんの口元を拭きながら、真津子さんは冗談めかして笑う。
だけど、白絹お祖母様は真顔で同意した。
「あら、そうね。こういうのは憎まれ役がいた方が周囲の愛情を実感できるものですもの。ええ、悪役なら任せて。わたくし、いくらでも薄情で冷酷な祖母として振舞えるわ!」
慌てて真津子さんが否定する。
「い、いや、ドラマじゃないんだから、そこまで極端な役割分担はいらないよ。あまり会う機会のない祖母が真珠ちゃんを可愛がってるけど、一緒に暮らしている私や沙華はミルクが一番可愛いって、それくらいでいいだろう。ああ、でも、沙華はなんだかんだと真珠ちゃんのことも同じくらい可愛いって思うかもしれないけど、私はずっとミルクを見てきたからね。どんなに手がかかっても、この子が一番可愛いよ」
その時だった。
ミルクちゃんが「キャー!」と興奮したようすで、真津子さんの膝の上に立ち上がった。
「それは助かるな。一応僕もミルクちゃんを我が子として一番に可愛がるつもりだけど、母さんと月白の態度がひどすぎてどうしようかと思っていたんだ。まあ、その分も竜胆はミルクちゃんを可愛がってくれるだろうけどね?」
憲法登場!
でも、ミルクちゃんのキラキラした視線が向けられているのは憲法じゃない。その隣、憲法がどこぞの空港に迎えに行ってきた極上に綺麗なお兄さん、竜胆叔父様に完全ロックオン!
「あぅ、キャうば! あーあぅああああ!!」
「ミ、ミルク? ち、ちょっと、そんな、暴れないで……!」
「ミルク、どうしたの? ちょっ!? ミルクっ!」
ミルクちゃんがものすっごい勢いで暴れるのに耐えかねて、真津子さんはミルクちゃんを膝から落としそうになった。沙華さんが横から抱き取ろうとしたけど、ミルクちゃんは器用に身をかわして床に着地。
そして、ミルクちゃん、すべての包囲網を潜り抜けて駆け出した。まさしくまっしぐら! ダダダダダーッとすごい勢いで、最短距離最短時間で竜胆叔父様の足元へ。
「相変わらず赤ちゃんホイホイだね、竜胆は」
「…………初めまして、ミルクちゃん。きみの叔父です」
がしっと自分の足にしがみついたミルクちゃんの勢いに圧倒されて、竜胆叔父様は一瞬、びくっとしたけど、すぐにミルクちゃんを抱き上げてほほえむ。
「僕の両親もきみに会うのを楽しみにしているよ。お盆には都合がつくだろう。きみは姉さんのたった一人の娘だから、うちの両親はきみを溺愛する祖父母になるよ。なんならきみのことはきみの育ての親ごと縹家で引き取るから、黒玄家に冷たくされたら、すぐうちにおいで。というか、もう僕が連れて帰ったほうがいいんじゃないかな、この子?」
ちらっと横目で憲法を見る竜胆叔父様。その視線がなんとなく冷たいような気もするけど、憲法はにこやかに微笑んだ。
「真珠と較べられて育つよりその方がいいかもしれないけど、竜胆、きみの姪っ子として生きるのもそれはそれで大変だよ。人並外れた美貌の弟を持つ姉として、ずっと苦労してきた露茄を知る僕が保証する」
「うん、ほんっと、面の皮一枚で態度を変える人間への試金石になってよかったよね。それより、僕、一応、真珠ちゃんの診察のために帰ってきたから、あとで遊ぼうね、ミルクちゃん。ほら、ママが迎えに来たよ」
すぐにミルクちゃんのあとを追った沙華さんは竜胆叔父様の前に立っていた。
沙華さん、こうして見ると背が高いね。竜胆叔父様よりちょっと低いけど、一七五センチくらいありそう。
母親がこの沙華さんで、父親が宵司なんだから、遺伝的にわたしの身長一八〇センチ超えるよね? ヒール履けばゴリラ抜けるかも! やったね! チビって逆に言い返してやれるよ!
うん、将来、腰の曲がった宵司を思いっきり見下ろして「ちいさいわねぇ」って、クスッと悪役っぽく嘲笑うとか楽しそう! 悪役令嬢ごっこ!
……って、違う違う! わたし、いい子。悪役にならないから! 特にミルクちゃんは絶対にいじめないよ。でも、ゴリラはゴリラとして扱うけどぉ?
「ミルク、ママだよ。朝ごはん足りた? 今日はもう食後のおっぱいいらないのかなぁ? ミルク、もう乳離れしちゃうのかなぁ? ママ、さみしいなぁ?」
竜胆叔父様から離れたくないってイヤイヤしてたミルクちゃんだけど、沙華さんが竜胆叔父様の手から無理やり自分に抱き寄せて、胸にぎゅっと顔を伏せさせたらクンクン! その匂いと声にようやく「まんま!」を思い出したらしい。魔法が解けたように母親の胸でおとなしくなった。
その間に竜胆叔父様はわたしに接近。
ばあやの手からわたしを受け取って、抱っこして指で首筋に触れたあとで出てきた言葉が冒頭の現実逃避。
「うん、どうしよう……。なにから手をつければいいのかわからないっていうか、僕もうなんにもしたくない……。そうだ! 真珠ちゃん、僕と駆け落ちしよう!」
そして実際、現実がひどすぎた。
先にそれを思い知らされた竜胆叔父様の混乱ぶりも仕方のないことで、ここから始まる黒玄家大パニック。
さすがダントラ! この世界はダンジョンの数だけ恋がある世界とはまったく違うものだった……。