番外編③ ムリなムリゲー
ハイハイするようになっても、よちよち歩くようになっても、ミルクはいつでもあたしのあとをついてきて、目の届く範囲にあたしがいないと大泣きして、離乳食をたっぷり食べておなかいっぱいになっても別腹であたしのおっぱいが必要なお母さんっ子だった。
夜寝るときもおっぱいちゅーちゅーしながら。
入眠儀式にそういうのが必要な子もいるからって、おかあさんは大丈夫って言うけど、周りの子より言葉も遅いようなのがちょっと心配だった。
だけど、予防接種のあと以外は熱も出さないし、毎日よく寝てよく食べて元気いっぱい遊ぶ可愛い子。
「えー、ぜんぜん、かわいくないよ、そいつ! かわいいっていうのは、ああいう赤ちゃんのことをいうんだよ。あの子、すっごいおひめさまなんだよね? ぼく、おおきくなったら、あの子とけっこんする!」
「あの子とけっこんするのはオレだ! オレ、世界一のぼうけんしゃになって、あのおひめさまとけっこんする!」
あたしにとっては世界で一番可愛いのはミルクだったけど、母子寮の他の子供たちはテレビCMに出てくる赤ん坊に夢中になっていた。
その赤ん坊はたしかに可愛らしく笑っていた。
だけど、淡いピンクのキラキラした髪に大きな菫色の瞳と透き通るように白い肌って、できすぎた人形にしか見えなかった。CG合成か魔道具の人形だろうって、大人たちは話していた。
「いや、あれが本物の赤ん坊なわけないでしょ。あんな大きな紫の瞳の赤ちゃんなんてありえない!」
「でも、あの黒玄帝が人形相手に笑う? あんなに優しくとろけるような笑顔で抱っこしてるんだから、きっと髪と目の色だけ編集で変えてるんだよ。あ、てことは、あの赤ちゃん、顔はあのまま? かっわいい! あたしもあんな娘が欲しい! 次は外人と子供作ろっかなぁ」
そのCMは黒玄グループって世界で一番お金持ちな企業が、日本の子供たちに百万円ずつ配るって知らせるものだった。
政府と黒玄グループが推進するピッと通すピッドカードを申請すればいいだけだから、『黒玄帝からのお年玉』って呼ばれてた。
「ラッキーだったね。沙華は十八歳だから給付金の対象年齢だよ。あんたの分は名前の申請のときに作った銀行口座に振り込んでもらえるけど、ミルクはまだ口座作ってないからね。ミルクのはあとで申請することにして、あんたの分だけほかの子供たちと一緒に先に手続きに行こう」
黒玄家って、あれだよねって思い出した。
たぶんあたしが取り替えた赤ちゃんが行った先で、ミルクの本当の親がいるところ。
だけど、ミルクはあたしのおっぱいが好きだし、あたしがいないとすぐに泣く。だから、この子はあたしの赤ちゃん。この母子寮でおかあさんにも他の人にも可愛がられてるし、この子はあたしがいないとダメだから。
でも、あたしが産んだ赤ちゃん、どうなったんだろう。あの子もミルクみたいに大きくなったのかな。ミルクみたいに日本人っぽく育ったかな。
黒玄グループのCMの赤ちゃん、よちよち立ってるから、たぶんミルクと同じくらいだよね。だけど、あんな可愛い子があたしの赤ちゃんなわけない。肌の色はあたしに近いけど、髪も目も色が違うから、あの子はきっとお人形か、ぜんぜん関係ないガイジンの赤ちゃん。
黒玄家といえばもうひとり、あたしをガイジン呼ばわりして紙のオカネをばらまいた冒険王。あの人はあの人で太っ腹だったみたい。
チップって規定の料金以外のおまけのことで、外国だと払うのが当たり前のこともあるけど、日本じゃふつうは払わないでいいらしい。
百万円ってあの時はただの紙の束だったけど、今は価値を教えてもらった。
一個百円のアンパンを十個買ったら千円。百個買ったら一万円。一万円札が百枚で百万円だから、百万円ってアンパン一万個分。一生食べてもなくならないかもしれないくらいたくさんになる。だから、黒玄帝からのお年玉の百万円はものすごい大金。アンパン一生分!
だけど、本当は働いて稼いだお金には税金がかかる。チップでもらったお金ってぜんぶが自分のものになるわけじゃないんだって。税金とか社会保障費とかわからなすぎて、まずその呪文を唱えられるようにって勉強中。難しい。いくら唱えても記憶に残らない。
あたしのレベルってまだミルクと同じくらいみたい。周りの子が読んでる絵本でさえ字ばかり見てるとくらくらしてくる。ミルクと一緒に音の出るおもちゃで遊ぶくらいがちょうどいい。でも庭の水やりは他の子供たちより上手にできる。重たいジョウロとかホース、ちゃんと持てるからね。
おかあさんはそういうのをいちいち褒めてくれる。
「沙華はいい子だね。沙華が毎日水やりしてくれたから、今年はナスが枯れずにまだ収穫できるよ。トマトは水のやりすぎで枯れた? ああ、私はトマトよりナスの方が好きだからいいんだよ。トマトはぐしゃっとする感触がねぇ。でも、これは他の子には内緒だよ。おばあちゃんは好き嫌いなんてないってことにしてるからね」
母子寮に来て最初の頃、あたしは毎日、馬鹿みたいに食べてた。食べすぎて吐いても、また空腹になった部分を埋めるようにひたすら食べ続けていた。
だけど、吐いた分の食べ物はあたしが消化吸収してるわけじゃない。そういうのを繰り返すうちにオチチが出なくなった。
ミルクは泣いた。おなかすかせて大泣きして、可哀相だと思うしオチチが張って痛いのに出なくてあたしも泣いた。
「よしよし、いい子だね。いっぱい泣いて疲れただろうから、ちょっとこのお水飲もうか。顔を洗うより、一緒にお風呂に入ったほうがいいね。お風呂であったまったら、ちょっとねんねしよう。いい子だ、大丈夫。おかあさんが一緒にねんねしてあげるから、もう大丈夫だよ」
おかあさんは自分よりずっと背の高いあたしを抱っこして、鼻をチーンとかませてくれて、一緒にお風呂に入ってくれた。赤ちゃんにするみたいに髪とか身体を洗ってくれた。パジャマのボタンをとめて、ドライヤーで髪の毛を乾かして綺麗にとかしてくれた。布団で一緒に寝て、背中トントンしながらあやしてくれた。
一週間くらいおかあさんに赤ちゃん扱いされて絵本を読んでもらったり、爪を切ってもらったり、たっぷり甘やかされてるうちに、あたしのオチチが出るようになった。無理に食べたいって気持ちもなくなった。
そのあいだミルクはあたしのオチチが飲めなくて、哺乳瓶がどうしてもダメだったから他のお母さんのおっぱい飲ませてもらってた。毎日体重が増える時期だったのに、ちょっと痩せた。だけど、あたしがオチチをあげるようになったら、すぐに大きくなっていった。
おかあさんに大切にされるたびに胸があったかくなって、ミルクにおっぱい吸われるたびにうれしくなる。あたしの腕の中ですぐに泣き止むミルクがかわいい。どうしてもあたしじゃなきゃダメなんだって、ミルクがあたしに教えてくれる。
おかあさんに愛されて、ミルクに必要とされて、世の中でふつうに生きていくための常識とか物事の道理とか善悪の判断基準とかを教わって、だんだんあたしにも自分がやっちゃいけないことをしたんだってわかってきた。
赤ちゃんを取り替えるなんて、ぜったいに許されない。ふつうの人間はそんなこと考えない。おかあさんや母子寮で働いてる他の人とか母親たちはそんなこと夢にも思わないから、ミルクはあたしが産んだ赤ん坊だって信じてる。
他の誰より、ミルクが一番あたしを自分のお母さんだと信じてる。
ミルクの世界はあたしを中心にまわってて、ミルクといるとあたしは世界で一番価値のある人間だって気がする。ミルクが一番好きなのはあたし。あたしは他のだれでもなく、ミルクにとってこの世でただひとりの大切な大切なお母さん。
なのに、あたしは本当はミルクからそうやって愛されるはずのお母さんからミルクを奪って、あたしのことを一番好きになってくれるはずの自分の赤ちゃんを手放した。
あたしは悪いことをした犯罪者。バレたら警察に連れていかれて、ミルクと離れ離れになって牢屋に入れられる。でも、そんなのミルクが可哀相って自分に言い訳して、あたしは自分の罪をなかったことにした。
だけど、CMとか噂話で『黒玄グループ』っていっぱい聞くようになってから、おなかがチクチクして食事が喉を通らなくなった。
「最近食欲がないみたいだね。どうしたんだい? なにか心配なのかい?」
痩せていくあたしを心配して、おかあさんは病院に連れて行ってくれたけど身体に問題はなかった。精神的なものだろうって。
「ああ、将来が心配になってきたんだね。大丈夫だよ。別にミルクが小学生になった途端にここを出て自立しろってわけじゃないんだ。あんたみたいにまだ勉強が必要な子はずっとここにいていいんだよ。ただ、ここからだと学校が遠いから、子供が小学生に上がる頃に部屋を借りることになるだけで、その前にあんたの就職が先だ。だけど、やりたいこととか興味のあることがないなら、ここでずっと働いてくれてもいいんだ。あんたは子供たちの遊び相手にぴったりだからね」
おかあさんはやさしい。あたしはおかあさんの子供になれてよかった。
でも、できれば最初からおかあさんの子供として生まれたかった。ずっとずっとおかあさんに育ててほしかったって泣いたら、おかあさんもあたしと一緒に泣いて一緒に寝てくれた。
「今からだって何年でも何十年でも育ててあげるよ。沙華はミルクと同い年、去年生まれたばかりの私の娘だ。だけど、私もいい歳だからね。寮母として引き受けるのはあんたが最後だ、沙華。あんたは私の末の娘だから、ずっと甘えっ子でいいし、いずれあんたを正式に私の娘として養子縁組できたら嬉しいんだけどね」
苗字は同じだったけど、相済沙華はおかあさんとは戸籍上、他人だった。だけど、おかあさんは養子縁組してあたしを本当の娘にしてくれるって。
胸がドキドキワクワクした。おかあさんの本物の娘になれる、これでずっとおかあさんと一緒にいられる。
でも、その喜びは一瞬だった。
正式に養子縁組するにはお役所に提出する書類が複雑で時間がかかる。だからあたしは『黒玄帝からのお年玉』をもらうために先にピッドカードの申請に行くことになった。
おかあさんが連れて行ってくれるはずだったけど、その日、熱を出した母子がいて、おかあさんは看病に残った。
「沙華ちゃんのお手伝いは任せて、おかあさん。なにしろあたし、ピッドカード申請の補助員として市役所に正式に雇われた臨時公務員だから! うちの子、来年には小学生だし、あたし、このまま正式に公務員になれるようにがんばるんだ!」
母子寮からほかに二組の母子が一緒に申請に行って、車の運転も市役所の臨時職員になったお姉さんが担当してくれた。お姉さんは金土日の週三日勤務だから、お休みの木曜日に行くことになった。
書類は問題なかった。市役所の会議室に設置された個別ブースの一区画で、付き添いのお姉さんがほとんどあたしの代わりに書いてくれて、あたしは自分の名前だけ書けばよかった。
だけど写真撮影が終わって、最後に個人識別装置っていうのに右手の人差し指をピッと通したら、ガシャンって指が挟まって抜けなくなった。でも、お姉さんも市役所の係の人もすごく落ち着いていた。
「ああ、そういえば、この機械、新しいから不具合が出るかもしれないって研修で教わったね。大丈夫だよ、沙華ちゃん。腕が疲れたらいつでもミルクちゃんの抱っこは変わるからね」
「えーと、なになに、こういう場合は『申し訳ありません。こちらの装置に不具合があったようです。すぐに担当者を呼びますので、どうか少々お待ちください。こちらのミスでお時間をお取りして本当に申し訳ありません』って言いながら、ここのアドレスにピッとメール送信! よし、できた! 大丈夫ですよ。すぐに『担当者』が来てくれますからね」
何が何だかわからなかったけど、お姉さんがついててくれるし、あたしはミルクを抱っこしたままそこで待っていた。
途中でお姉さんが野菜ジュースを買ってきてくれた。もともと個人情報を入力するからって隣とのあいだは完全に仕切られてる。お姉さんに見張っててもらいながら授乳することもできた。
だけど、さすがにオムツ交換はそこでってわけにはいかなかったから、お姉さんにミルクをトイレにつれていってもらった。
でも、すぐに市役所中に響くような泣き声が聞こえてきて、なのに指が装置から抜けない。
「ああもう、故障とかぜったいありえないし、なんなんだよこの機械。ねえ、ちょっと叩いてみていい? そしたら直るかもしれないし、ミルク、あたしが行かないと泣き止まないし」
係の人に断ってちょっとその機械を叩こうとした時だった。背後から声をかけられた。
「手が痛むだけだからやめておいた方がいいよ。初めまして、僕は黒玄憲法。その装置の開発者で、担当者で、たぶんその赤ちゃんの関係者になるのかな。ああ、間違いなさそうだ」
振り向いた先にいたのは見たこともないくらい極上の男だった。すらりとした長身に深い声、仕立てのいいスーツ。銀縁メガネの奥から鋭い瞳であたしと急いで戻ってきたお姉さんの腕の中のミルクを見ている。
ハケンのお店の仕事でちょっとくらい立派なホテルに行ったことはあるし、立派なスーツを着たお金持ちにブランド品を買ってもらったこともある。食べ方もわからない料理が出てくるレストランで、ハイソとかセレブとかいう人種に笑われながらディナーという名の見世物をさせられたこともある。世の中には金髪碧眼のおばかな若い女ならだれでもいいって仕事があって、今考えればあたしは朝から晩まで無休で無給で働かされていた。
そういうのは労働じゃなく、
『あんたはね、搾取されていたんだ。本当はまだ大人に保護されて学校に通わなきゃいけない年だったのに、悪い連中につかまってひどい目に遭ってたんだ。だから、人生をこれからおかあさんと一緒に取り返していこうね』
犯罪被害者。
だから、おかあさんはあたしを本当の娘にしてくれて、ミルクと同じように赤ちゃんから育てなおしてくれるはずだった。
だけど、そんなのもうぜんぶムリ。かなわないっていうか、あたしの人生、ムリゲーすぎる。
「人見知りか。頭のいい子だね。これくらいの波長なら大丈夫かい? ああ、こういう好みは月白に近いね。やっぱりこれが普通の反応だと思えば、あの子は本当に面白い」
ミルクはずっと一緒に暮らしてるおかあさんでさえ泣き止ませられないことが多い。一度泣き始めるとあたしが抱っこするまで泣き止まないのが当たり前だった。なのに、その男の人はお姉さんの腕で泣き叫ぶミルクに手を伸ばして、頭を軽くひと撫でした。たったそれだけでギャーギャー響いていた泣き声が止まった。
辺りが急に静まり返る。あんぐり口を開けて見とれていたお姉さんや市役所の係の人が我に返ってうろたえた。
「……っ、え? くっ、黒玄……って、まさか、あの!? すっ、すっごいイケメン!」
「え? た、担当者って、えっ!? げっ、芸能人じゃないの!?」
いや、外見だけのイケメンとか芸能人とかとは違う。あたしが仕事で行った先にいた男の人たちとは清潔感が段違い、女の媚びや甘えがまったく通じないタイプ。興味なさそうっていうか、たぶんあたしを女とも同じ人間とも認識してないだろう、完全に別の世界に生きる人。あたしとは人間としての種類が違う。
「とりあえず一緒に来てもらっていいかな? 込み入った話になるし、まあ、何にせよきみにとって悪いようにはしない。それだけは保証するよ」
言いながらその人はあたしを拘束していた装置に軽く触れて、あたしの手を解放した。
手は自由になったけど、もう人生終わった。ゲームオーバー、劣悪な環境で生まれ育ったガイジンの孤児で犯罪者、あたしのムリゲー人生は最悪な結末で終わるんだともうぜんぶ諦めた。