日々を彩る、恋愛短篇。—萌黄—
第4弾です。
今回は少し長くなってしまいました。
このシリーズを書き始める前から、ずっと頭の中でこの映像が流れていたので、やっと文章に起こせてうれしく思います。
ぜひ、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
「行ってきます」
誰が聞いているわけでもないのだが、アパートの奥に向かってそう呟く。扉を閉め鍵をかけると、両腕をグッと上に伸ばし、息を吸い込んだ。
——5月。世間では五月病なんてものに悩まされる人も多いらしいが、俺には無縁の話だ。
大学に入って2年目。ひとり暮らしもすっかり慣れ、感染病のせいでリモートになっていた講義は少しずつ教室で開かれるようになり、新たに受け始めた講義では友人もできた。派遣のバイトも順調だし、悩みの種なんてひとつもない。
ワイヤレスのイヤホンを耳に挿し、ケースをポケットに押し込めて階段を下りる。お気に入りの洋楽リストを流すついでに、スマホで時間を確認する。——9:35。講義は10:30からだから、今行っても早すぎるけれど、たまには普段入らない道でも歩いてみよう。せっかく、こんなにいい天気なんだし。
去年はほとんどパソコンのモニター越しで講義を受けていたから、正直スーパーへの道以外はほとんど知らない。大学は分かりやすい大通りに面しているため、一応迷わず歩けるけれど、普段通るその道が最短距離かは分からなかった。
車を持っていない俺とは無縁の駐車場を横切り、いつもは上るはずの緩やかな坂を、今日は下ってみる。俺の住むアパートは住宅街のど真ん中にあった。大人は仕事へ、子供たちは学校へ行った平日のこの時間は、驚くほど静かだ。大学生向けのアパートも立ち並んではいるが、こんな中途半端な時間にこの辺りをうろついている学生はほとんどいない。
坂を下り切る前に、小さな横道に逸れる。どの道に繋がっているかは知らないが、仮に迷っても時間に余裕はあるし、最悪マップのアプリに頼ればいいだろう。
車1台通れるかくらいの狭い道を抜けると、辺りより少し年季の入った家屋が並んでいた。営業しているのかも疑いたくなるほどの小さな弁当屋(とはいえ、中からは微かに美味そうな揚げ物の匂いがしているし、きっと営業中なのだろう)。平成どころか昭和に建てられたであろう日本家屋。松の形にくり抜かれたブロック塀からは、季節を少し早とちりした紫陽花が顔を覗かせる。
いつだったか、父に勧められて観た映画の主題歌がイヤホンから流れてきて、俺は自然と口ずさんだ。周りに人がいるわけでもないし、問題ないだろう。
去年の必須科目の英語の講義の中で、好きな洋楽を1曲和訳するというものがあった。その時に選んだ曲だ。「時が経っても、愛するきみに忘れないで待っていてほしい。必ずきみの元へ帰るから」——そんな意味だった気がする。
恋愛小説も恋愛映画も嫌いじゃない。俺は、運命だって信じるし、ドラマにも感情移入して自分と主人公を重ねるタイプの、まあ人から見れば若干痛々しいタイプの人間だ。そのせいで、「重い」と一蹴され高校時代の彼女に振られたといっても過言ではない。
おかげで大学では一応猫を被るようになったけれど、俺は自他ともに認める根っからのポジティブ人間で、根本的な性格や考え方を変えようなんて気は一切起きなかった。だって、当時の彼女とは縁がなかっただけで、誰が何といおうと、これが俺だからね。
——と、開き直って歌い続けるうちに、少し広めの公園に出た。遊具は少ないが、大きな広葉樹がたくさん植えられていて、ベンチもあって、ちょっとお弁当を食べたり本を読んだりするにはぴったりな場所だ。
まだ時間はある。俺は、何となく手近なベンチに腰を下ろした。背もたれに体を預け、空を仰ぐ。まだらに降ってくる木漏れ日と、風が揺らす枝葉の音が心地よい。芽吹いたばかりの木の葉が、重なったり離れたりして、明るい緑と深い緑の光を交互に地面に落としている。——春だな。
しばらくぼんやりしていると、ポケットでスマホが震えた。取り出して、画面をつける。——チャットの通知だ。
『おつー。お前、もう学校いる?』
同じ学部で、去年友達になったやつからだ。今年も同じ講義を選択し、この後も同じ講義を受ける予定である。
俺は、アプリを開いて画面に親指を滑らせた。
『まだ。何?また課題?』
『せいかーい。ラーメン奢る。あと、お前がこの前寝てた講義のレポートもつける』
『乗った。待っとけ』
大学は人生の夏休み、なんていう言葉をよく耳にするが、それと同時に、ずる賢く生きるためのすべを身に着ける場所でもあると俺は思っている。実際、真面目に全ての課題やレポートを自分ひとりの力だけでこなしている学生なんて、数えるほどしかいないだろう。俺たちだって、こうやって得意不得意に応じて取引するのが日常茶飯事なわけだし。
仕方ない。友人が助けを求めているならば、行かなければ。なんて、本当はレポートとラーメン目当てだけど。俺は、立ち上がり、さっきまでよりも早歩きで公園をあとにした。
暫く行くと見覚えのある大通りに出たので、僅かに足を緩める。講義棟の壁は既に見えているし、正門は目と鼻の先だ。この時間ならあいつが課題を写す時間もたっぷりあるだろう。
再び鼻歌を歌いながら大学の敷地側に埋められた植え込みと道路側の街路樹との間を進んでいると、突然、トートバックを叩かれた。
「!?」
驚いて振り向く。そこには、深く腰を折って俯いている、ショートボブの女性が立っていた。
——謝られている?いや、別に俺はなにもされていない。歌がうるさかったのだろうか?静かにしてほしいと頼まれている?
一瞬で考えを巡らせたが、結果としてそれは杞憂であった。彼女の体は、僅かに上下に揺れていた。彼女は謝罪のために腰を折っているのではなく、膝に手をついて息を整えているのだ。どうやら、何か疲れているようだ。もしかして、体調が悪くて助けを求めたのでは?
「あの……どうかしましたか?救急車、呼びましょうか?」
そう声をかけると、彼女はびくっと顔をあげ、初めて俺を見た。
白いマスクから覗く、紅潮した頬。意志の強そうな、少し太めの眉。アーモンド形の、一重の大きな瞳。いかにも日本人らしい——素朴な、でも愛らしい、そんな顔をしていた。歳は、同じくらいか、少し上だろうか。
彼女は、ぶんぶんと首を横に振った。そして、右手を差し出す。
「……あっ、俺の!」
その掌に乗せられていたのは、白いイヤホンケースだった。なぜ自分のだと一瞬で分かったかと言うと、実家で妹に悪戯で貼られた四つ葉のクローバーのシールがあったからである。
ポケットに入れていたはずのそれが落ちたとすれば、恐らく公園でベンチに座ったとき。音楽を聴いていたせいで(その上気持ちよく歌っていたせいで)気付かなかったが、どうやら、あの場からずっとこれを渡すために追いかけてきてくれたようだ。
「ありがとうございます!助かりました!!」
少々大きすぎる声でそう言ってイヤホンケースを受け取ると、彼女はほっとしたような顔をした。
緑っぽい——あの公園の木の葉の色と同じギンガムチェックのエプロンに、Tシャツとジャージ。保育士か何かだろうか?あの辺に保育園やこども園なんてなかったような気がするが。
「あの……」
何かお礼を、という前に、彼女はぺこりと頭を下げると、すぐに背を向け走り出した。
最後の最後まで一言も発してくれなかった。人見知りなのだろうか?それとも、見知らぬ男だから警戒している?どちらにせよ、それでもわざわざ落とし物を届けに追いかけてきてくれたのだから、ありがたい。
日本男児としては、恩は返さなければ気が済まない。あの感じなら、この辺りに職場があるか、住んでいるはずだ。お礼をするために彼女を探し出すなんて、ストーカー行為だろうか——。
俺は、そんなことを考えながら、講義棟に足を踏み入れた。
「ストーカーだろ」
無事課題を提出し、俺をラーメン屋へと連れてきた友人・環は、水を飲み干した後さらりとそう言った。
「えー……やっぱ駄目かなぁ」
「駄目かどうかは知らねぇよ。でも、普通に考えてちょっとキモい」
今朝の出来事を話したら、この返答だ。とはいえ環は、俺のちょっと特殊な性格を知ったうえで普通に接してくれる数少ない友人のひとりだし、遠慮なく相談できる。
「別に、一目ぼれとかしたわけじゃないんだって。ちょっとタイプではあったけど。でも、とりあえず純粋にお礼がしたくて。ほら、これも何かの縁だったわけだし」
「縁っていうか……イヤホンケース落としたお前の所為だけどな」
「偶然あの道を選んで、偶然落として、偶然あの子がそれを見てたんだから。縁だよ、やっぱり」
俺の力説に、環は苦笑いを浮かべた。
「お前がそう言うなら、そうなのかもな」
環は、頭ごなしに俺を否定しない。彼自身は縁だとか運命だとかそういうものを信じてはいないし、それなりにモテるようで、その分過去に嫌な思いをしたのか、あまり恋愛というものに興味をもっていない。けれど、物語のような恋愛を夢見る俺を煙たがったり馬鹿にしたりは絶対にしなかった。
「でも実際、礼なんてどうするんだよ。落とし物拾った程度じゃ、なにやっても重いと思われるぞ」
「コーヒー奢るとか!」
「ナンパじゃねぇか」
軽く頭をはたかれ、下唇を出しながら乱れた髪を整える。そんなことをしているうちに、注文していたラーメンとショウガ餃子が届いた。
「いただきます」
ふたりで手を合わせ、麵をすする。環に勧められ、初めて”とんこつみそ”なるものを食べたが——うん、美味いな、これ。スープがちぢれ面によく絡まるし、具のひとつひとつに味が染みていて、文句のつけようがない。餃子はショウガが良くきいていて、羽根がパリッとしているのに中はほろほろと口の中でほどけて、旨味が広がる。大学近くにこんな店があるなら、早く来ておけばよかった。
健康的ではないと分かってはいるが、ラーメンのスープは1滴たりとも残さない主義だ。俺は、どんぶりを傾け、ちまちまと残ったコーンもろとも、一気に喉の奥へ流し込んだ。
なぜか店頭で飼われているウーパールーパーとにらめっこしている間に環が会計を済ませ、ふたりで店を出る。
「お前、午後、講義は?」
「今日はない。さっきのコマだけ。環は?」
「俺は14:50からあるはずだったけど、休講。……とりあえず、公園行ってみようぜ。コンビニでアイスでも買って。例の子の手がかりって、あの公園だけだろ」
要するに、ひとりであの辺をうろつくのは怪しまれるから、環もついてきてくれると——そういうことである。俺が目を輝かせて両手で環の手を握ると、彼は鬱陶しそうに顔をしかめた。
——ああ、持つべきは心優しき友である。
朝に比べると、公園には人影が僅かに増えていた。ゲートボールをする少人数の老人たちと、ベビーカーを押した女性がふたり。エコバッグをベビーカーのフックにかけているから、買い物帰りに立ち寄ったという感じだろう。
幸いベンチは空いていたので、俺たちは木陰のベンチに並んで座り、レジ袋からコーラとアイスを取り出した。流石に、コンビニの会計は割り勘である。
「……長閑だな」
環は、チョココーティングされた棒付バニラアイスをひと齧りして、そう呟いた。
コン、という耳に優しいゲートボールの音が響くばかりで、やはりこの辺りは静かだ。女性ふたりの声は遠くて聞こえないし、赤ん坊は寝ているようで鳴き声ひとつ聞こえない。
俺も昔ながらのソーダ味のアイスを口に咥え、辺りを見回した。やはり、保育園のような施設はこの辺りにはない。保育士があの時間に保育園を離れるなんてそもそもあり得ないし、彼女はエプロンの必要な別の仕事ということだろうか。
その答えは、案外早く見つかった。
「……あれじゃねえの」
環の指さす方に目をやる。公園を囲む背の低い柵の向こう。洋風の小さな建物に、木製の吊り看板。「フラワーショップ 松崎」の文字。店先にはバケツに入った色とりどりの花が並び、金属製のじょうろなんかも置かれている。
そして、半開きのガラス扉から、明るい緑のギンガムチェックのエプロンがちらりと覗いた。——彼女だ!
「え、マジ?見つかった?」
意外そうに環が問う。俺はこくりと頷いた。彼自身、きっと本当に彼女がいるとは思っていなかったのだろう。しかし確かに、花屋なら汚れてもいいようにエプロンとジャージだろうし、あそこからなら俺が落とし物をしたのも見える。
アイスを片手に持ったまま俺がふらりと立ち上がると、環が慌てて手を引いて引き留めた。
「突然すぎるし、お礼できるものも用意してないし、食いかけのアイス片手にしてる男が突然近づいてくるとか怖ぇから。とりあえずお前はそれを食え!」
「でもっ、まさか見つかるとは思わなくて!やっぱり運命だよな、これって!」
「わかった、わかったから!一旦座れっての!」
俺たちは、自分で思っていたより騒がしかったのだろう。ママ友らしき女性ふたりも、ゲートボール中の老人たちも、何事かとこちらを見る。そして、彼女も——。
「!」
——目が、合った。向こうも、気付いたようだった。
そして、彼女は、すぐに店の奥へと姿を消した。
「……避けられた?」
「まあ……逃げたな、今のは」
無慈悲な言葉だ。ドカッと、勢いよくベンチに倒れ込む。やっぱり、怪しかっただろうか。ストーカーだと思われただろうか。
がりっとアイスを齧り、ため息を吐く。
「どうすれば避けられずにお礼できるかなぁ……」
「そこで諦めるっている選択肢が出てこないのがお前らしいわ」
ふっ、とこらえきれないように環が笑う。ぼんやりと花屋の扉を眺めていると、ガラスの奥で、また影が動いた。もしかして、と背筋を伸ばす。ちらっと、彼女が顔だけを出した。そして、目が合ってはまた引っ込んでしまう。かと思えば、また少しだけ姿を見せる。
「警戒してる?俺、通報されちゃったりする!?」
絶望的な顔でしがみつく俺には目もくれず、環は何かを考え込むように花屋の方を見つめていた。
「いや……アレは多分、警戒じゃなくて……」
突然、リュックを開けてルーズリーフとペンケースを取り出す。そして、それを俺に差し出した。
「お前、彼女に手紙書け。今朝のお礼とか、ちゃんとお礼したいってこととか。個人情報になるから連絡先とかは書くなよ。名前も下の名前くらいにしとけ」
「はぁ!?」
唐突すぎて困惑する。この距離で手紙って、中学生じゃあるまいし。しかし、環の顔は真剣そのものだ。
「多分だけど、どっちかっつーと彼女は好意的だよ。でも多分、近づけない理由があるんだろ。俺たち今マスクしてないし、店を離れられないとか、他の店員の目が気になるとか。だから、ここに手紙だけ置いていく」
突拍子もないことだし、俺が立ち上がろうとすると隠れてしまう彼女が自分に好意的だとはどうしても思えないけれど、基本的に心理的な部分で環の考えが外れたことはない。占い師レベルの的中率だ。俺は、不審に思いながらも紙にペンを走らせた。
『今朝はイヤホンケースを拾ってくれてありがとうございました。
きちんとお礼したいので、また明日、この公園に来ます。迷惑でなければ、返事をください。
浩介』
書き終えると、環がそれを縦長に折り始める。そして、ベンチの後ろの木の低い位置の枝に、折れないようにそっと括り付けた。
「なんか……大昔の恋愛映画みたいだな」
「いいだろ、別に。どうせお前、こういうの好きじゃん」
そう言いながら、環はごみをビニールに集め、ルーズリーフもろともリュックに入れる。そして、行くぞ、と歩き出した。俺は、その背中を追いつつ、彼女と目を合わせて木を示した。彼女は、ただおろおろと、木と俺の顔を交互に見比べていた。
——本当にうまくいくだろうか。
俺は、疑いながらも公園を後にした。
翌日、8:00。
今日は1コマ目から講義がある。俺は、昨日より少し冷たい空気の中、あの公園に足を踏み入れた。脇目もふらず、真っ直ぐにベンチの後ろの木に向かう。
昨日括り付けたルーズリーフは——ない。少なくとも、読んではもらえたのだろう。じゃあ、返事は?木の端から端まで、目を滑らせる。あの、明るい緑一色。白っぽいものがあればすぐに分かる。
やっぱり迷惑だったか——と、落胆しかけたとき。
枝に巻き付けられた細い針金が、きらりと光った。そしてその先には、木の葉と同じ色の、折り紙で折られた葉っぱ。よく見ると、端の方に小さく「マツザキ」と書いてある。
俺は、そっと針金を解き、その紙を開いた。
『お手紙ありがとうございます。びっくりしました。
お礼なら駅前のドーナツ屋さんで……なんて、冗談です。偶然見てただけだし、何もお礼なんていらないけれど、もし迷惑でなければ、ひとつだけ。
私、お話が得意じゃないので、やり取りする友達もあまりいないんです。だから、こうやって、ときどきでもいいのでお手紙を交換させてもらえませんか?
お返事、お待ちしています。 マツザキ』
バッ、と顔を上げ、あの花屋の方を見る。彼女がいた。開店前の準備なのか、花の入ったバケツを並べている。
——目が合う。時が止まる。きっと俺は、とんでもなく気持ち悪い顔をしているだろう。勝手に笑みがこぼれる。だって、こんなに嬉しいことはない。彼女は迷惑がっていなかった。ストーカーだと思われなかった。手紙をやり取りしたいと言ってくれた。
危うく駆け寄りそうだったが、頭の中で環が『突っ走るな!』と突っ込みを入れた気がして、踏みとどまった。彼女は話すのが得意じゃないというのだから、突然直接話しかけてはいけない。冗談まで添えているのだから、本質はお茶目な人なのだろうけど、吃音症とか、人と対面すると話せなくなる人だっているし、彼女にも何か事情があるに違いない。でも——何か、声をかけたい。
俺は、彼女が書いてくれた木の葉の色の手紙を持った手を大きく振って、叫んだ。
「おはよう!」
彼女は、一瞬驚いたような顔をして、それからゆっくりと目を細め、マスク越しでも一目で分かるほどの、弾けるような笑顔を見せてくれた。
——何ということでしょう。純粋なお礼の気持ちだったはずなのに。そりゃあ、可愛いなあとは思っていたけれど、ちょっと前まで見ず知らずの赤の他人だったはずなのに。俺はすっかり——。
彼女に、恋をしてしまったようです。
それから暫くの間、彼女との木を介した手紙のやり取りは続いた。俺が手紙を受け取るのは、必ず朝。時間を把握したのか、彼女はいつもその時店先に出て、俺の「おはよう」に笑顔を返してくれた。
梅雨に入ってからは手紙にビニール袋を被せたし、7月を迎えると、彼女の茶目っ気からか小さな風鈴が添えられることもあった。手紙の内容はよりプライベートに踏み込んでいき、俺は大学の講義で笑った教授のドジな話を書いたり、彼女は最近ハマっているお笑いコンビのネタについて書いたりした。スマホの画面を1タップするだけで繋がれるこの時代に、こんな回りくどいことをするなんて、と大抵の人は思うだろう。でも、環の言う通り俺はこういう繋がり方が大好きだったし、手間をかけるほど縁が強く結ばれていくような気がしていた。
そして、すっかり彼女からの保護色の手紙を見つけることに慣れた、夏休みを迎えて暫く経った8月8日。
『暫く実家に帰省するから、手紙はお休みするね。
帰ってくるのは16日の予定。暑い日が続くけど、松崎さんも体を壊さないように気を付けて。
俺、妹がいるんだけど、こいつが面白くてさ。妹の土産話を持って帰ってくるから、次手紙を書くときは、松崎さんからもなにか面白い話が聴けると嬉しいな。 浩介』
俺は、そう書いたルーズリーフをいつもの枝に括り付け、公園を離れた。いつもと違う時間だからか、今日は店先に彼女の姿が見られなかったけれど、仕方がない。
実家は県内にあるから、電車ですぐだ。大きめのボストンバッグを肩に担ぎ、俺は駅へと向かった。
8月16日、16:30。
親の車でアパートまで送ってもらった俺は、荷物を整理する間もなく、すぐに書き終えた手紙と土産代わりの木の葉の色のシーグラスを手に、いつもの道を急いだ。
もしかしたら、今日に合わせて彼女が手紙を結んでくれているかもしれない。閉店時間には早いし、店先に出れば彼女の姿を見られるかもしれない。
地面からまとわりつく熱気を振り払い、ただひたすらに住宅街を進む。
公園に着くと、夏休み中の子供たちが水道付近でわらわらと遊んでいた。水風船や水鉄砲。地元でもあんな光景を毎日見かけた。どこの子供も、やることは変わらないものだ。
付き添いの親の目もあるし、木を物色するのは躊躇われたが、それでも待ちきれなかった俺はすぐに手紙を探した。——無い。流石に、今日帰ると予定していたとはいえ、いつ手紙を見つけるか分からない状態では用意できなかったのだろうか。彼女の店に目をやると、店に明かりが点いている様子はなく、表にもバケツが出ていない。どうやら休業中のようだ。もしかしたら、彼女も実家に帰省したり旅行に行ったりしているのかもしれない。
俺は、ビーチグラスもろとも枝に手紙を括り付け、アパートへと帰った。
「……で、それからずっと音沙汰無し、と」
久しぶりに俺の家を訪ねてきた環は、コントローラーを床に置いて、憐れむようにそう言った。現在、俺たちは、沢山のキャラクターがいろいろなステージで戦う某有名ゲームの真っ最中である。
もう、9月半ば。大学の夏休みは長く、あと2週間はあるが、俺の心に夏をエンジョイできる余裕はない。
「俺からの手紙も残ったままだし、店先にも出てこないし。開店してる様子はあるけど、彼女の姿は見えなくてさぁ。嫌われたかなぁ……」
「そこで店に突撃しないだけでも、成長したよ、お前は」
言いながら、環はグッと麦茶をあおる。褒めているのか、けなしているのか。ちぇっと舌打ちしながら環に視線を向けると、彼の肩越しに、壁にかかった時計が目に入った。——12:00過ぎ。
「お昼時だな」
「どうせ食材なんてないんだろ。どっか食いに行く?」
環の問いかけに、考え込む。暑すぎてラーメンという気分ではないし、ファミレスは人が多そうだ。それに、この後は借りている映画を観る予定だから、できれば家で食べられるものがいい。となると、配達してもらえるものかお弁当か。コンビニは飽きたし——。
あ。
「気になる弁当屋があるんだけど、そこでもいい?」
俺の言葉に、環は不思議そうな顔で首を傾げながらも、こくりと頷いた。
自動ドアを通り抜けると、油の匂いとたくさんの調味料の匂いが鼻をくすぐった。
「いらっしゃい。初めて見るお客さんねぇ」
奥から、昔ながらの割烹着と三角巾を身に着けたお婆さんが出てくる。幼い頃お世話になった給食のおばちゃん、というイメージだ。
メニュー表を見ながら、心が躍る。夏野菜カレー弁当、豚の生姜焼き弁当、チーズチキンカツ弁当。サバの味噌煮弁当なんてのも捨てがたい。
「……野菜も食えよ」
横からボソッと呟かれ、うう、と小さく呻く。男ひとり暮らしだと、どうしても普段野菜の摂取量が減る。環もひとりでアパート暮らしだが、彼は自炊好きなので、たまにお節介すぎるほど野菜を食わされる。
結局、俺は天丼弁当にサラダを、環は冷しゃぶサラダ弁当を注文した。お婆さんは、10分くらい待ってね、と言い残し、店の奥に姿を消した。
「わざわざあの公園近くの弁当屋にしたのは、彼女からの手紙を探すためか?」
暇つぶし代わりに壁の古ぼけたポスターを眺めつつ、環が訊く。俺が「悪いかよ」と答えると、「別に」と肩をすくませた。
「花屋は開いてるんだろ?もういっそ、普通に花買いに行ってみれば?」
「迷惑かけたら嫌じゃん……。それに、話すのが苦手って言ってたし。嫌な思いさせたくないだろ」
「……浩介って、いい奴なんだよな。いい奴なんだけどな……」
何だよ、その言い方は。けどって何だ。いい奴だな、で止めてくれればいいだろ。
俺を見る環の目は、残念な生き物を見るような目である。
「……もしかして、『フラワーショップ 松崎』のとこの子の話じゃない?お友達?」
突然、厨房との間に掛けられた暖簾をくぐり、お婆さんが顔を出した。店の奥ではまだ調理中の音が聞こえるから、他のスタッフが弁当を作ってくれているのだろう。
——いや、そんなことより。
「知ってるんですか?彼女のこと」
俺は、勢い込んでそう尋ねた。お婆さんは、そりゃあね、とニコニコ顔で頷く。
「昔っからのお得意様だもの。小さい頃はとっても明るくて面白い、お喋りな子でねぇ。まあ、暫く大変だったみたいだけど、また最近頑張り出したらしいじゃない?上手くいくといいわよねぇ」
環と、顔を見合わせる。お喋りな子?明るくて面白いのは否めないが、彼女の「話すのが苦手」は嘘なのだろうか。それに、暫く大変?最近頑張り出した?
——何の話をしているんだ?
ここで第三者から彼女のことを聞いてしまうのは、マナー違反だろう。けれど、俺と距離を置いた理由の手がかりが少しでも得られるなら——。
俺はかいつまんで事情を話し、彼女のことを問いただした。
お婆さんは、難しい顔で、口を開いたのだった——。
月日は流れ、11月。
空気が乾き始め、長袖にアウターがすっかり定着し出したころ。
俺は、朝早くに、あの公園に立っていた。
風が吹くたびに枝に別れを告げる茶色い木の葉の中、まるで芽吹いたばかりのような色をした葉っぱがひとつ。
——どれだけ、この瞬間を待ちわびたことか。
俺はその葉を手に取ると、開いて中身を見た。
そして、公園を出て、初めて花屋の入り口をくぐる。
「いらっしゃいま……あら」
その女性は、別人ではあるけれど、彼女によく似ていた。ちらっと俺の手元の葉っぱの手紙に目をやり、ああ、と頷く。
「きみが、あの子の……。ちょっと待ってて」
穏やかな声でそう言い、踵を返す。彼女は、どうやら奥で作業中のようだった。何やら話し声が聞こえたあと、慌てていたのか、何かにぶつかって倒したような音が響いてきて、思わず笑ってしまう。
そして、彼女はおずおずとその姿を現した。
ああ、変わらない。その意志の強そうな眉も、一重のクリッとした目も。
俺は、何だかいろいろな感情が溢れてしまいそうになるのを堪えて、すっと拳を上げた。驚いて目を見開いた彼女が、俺の手をじっと見つめて追う。
こめかみから顔に沿って拳を下ろし、それから左右の立てた人差し指を向かい合わせて折り曲げる。
合ってるよな。ちゃんと練習したし。
恐る恐る彼女の顔を見ると、彼女はみるみるうちに眉を下げ、マスク越しに口と鼻を覆い、目に一杯の涙を溜めて。
それから、そっとマスクを外し、震える声で——そして、いつも見せてくれていたあの笑顔で、呟くのだった。
「オ、ハ……ヨウ」
その一言だけで、満たされた。
せっかく会えた彼女の姿は次第に歪んで見えなくなってしまったけれど、そこには確かに彼女がいて、俺を見てくれていて、再会を喜んでくれていて。
うん、やっぱり、誰が何といおうと、俺と彼女は縁で結ばれていて、運命なのだ。
◇ ◇ ◇
俺は、あの日以来一度も彼女の花屋には行っていない。
——直接、裏手にある彼女の自宅に招かれているからである。
「コウ、スケ。それ、違う」
「えっ……山折りじゃないの!?」
何をしているのかと言えば、彼女——椎奈に折り紙で葉っぱを折る方法を教わっているのである。
子供じゃあるまいし、なんて思われるかもしれないが、折り紙でできた葉っぱは、俺と椎奈との思い出の品だから。
俺はあの後、彼女とあの日椎奈を呼んできてくれた女性——彼女の母親の口から、一切の事情を教えてもらった。
彼女は、元々明るく活発で、うるさいと叱られるほどにはお喋りな子供だった。友達も多く、近所の大人たちからも可愛がられ、沢山の人に愛されて育ったらしい。
しかし、小学校の遠足中、彼女の歩いていた列に、一台の乗用車が突っ込んだ。原因は操作ミス。運転手は、70を超えた老人だった。
幸いどの子供も怪我は軽くて済んだが、彼女は喉を怪我し、一時期入院していた。と言っても、そう深い傷ではない。出血はそこそこにあったが、付き添いの教師の応急手当と迅速な救急隊員の対応のおかげで、完治にはそう長くかからなかった。
だが、彼女にはひとつ障害が残った。
——失声症。
機能としては問題ないのに、事故のショックかストレスか、とにかく心因的な問題で、声が一切出せなくなってしまったのである。
元々の明るさから、本人は最初こそ気にしていなかったものの、元は仲の良かった友人たちは、彼女と距離を置くようになった。理由は単純明快。「話しづらい」「面倒くさい」——それだけである。
家族は辛いなら学校を休んでもいいよと彼女に声をかけ続けた。しかし、彼女は芯の強い女性だった。ひとりでいることも構わないと、小中高と一日も休まず学校に通った。もちろん、沢山の出会いの中で、理解ある友人も数人できた。だが彼女は、逆にその相手に気を遣い、あまり深く関わろうとはしなかった。
そして、高校卒業後、資格を取るために勉強をしつつ、親の経営する花屋の手伝いを始め、4年後の春。
——俺と、出会ったのである。
最初は本当にただの親切心だったらしい。イヤホンケースを落としたのが見え、声をかけようにも出ないのだから呼び止められない。仕方なく、早歩きの俺を、彼女はずっと追いかけてくれた。何とか追いついて無事渡せたはいいが、会話はできないし、慌てて追ってきたからスマホもメモ帳も持っていない。結局、怪しまれる前に逃げ帰るしかなかったそうだ。
再び公園にやってきた俺を見て、彼女は動揺した。ちゃんと話さなかったのが失礼だっただろうか、それとも何か問題があっただろうか。そんなことを思いつつも、俺の勢いの良すぎるお礼の言葉のせいで、悪意があるようには思えなかったらしい。ちらちらと様子を窺っていると、俺が手紙を残したのに気づいた。彼女は、声が出なくても、これなら人と繋がれるかもしれない、とそう思った。
手紙をやり取りするうちに、彼女は俺との文字を通した対話を楽しんでくれるようになった。夏休み、俺が帰省すると知り、寂しがってくれると同時に、彼女は決意した。
失声症を、治そうと。
少しでも、直接言葉を交わせるようになりたい。そう思った彼女は、その手の病院や有名な医者を調べまくり、いろいろな心療内科やカウンセラーを渡り歩いた。ただ、15年近く放置していたその事故のトラウマを乗り越え喉を使えるようにするには、かなりの時間が必要だった。結果として、俺と再会するまでに、4か月もかかってしまったという。
「でもまさか、浩介くんも手話を勉強していたなんてねぇ」
椎奈の母親が、トレイにお茶と和菓子を持ってリビングにやってきた。ありがたくいただきながら、少し申し訳なさを出しつつ答える。
「勝手だとは思ったんですけど、ぼんやりとした事情はお弁当屋さんから聞いて。もちろん、椎奈さんは耳が聞こえないわけじゃないって知ってましたけど、でもやっぱり、同じ言葉で会話したいなと思って。手話だって、言葉のひとつですから」
「……そう」
頷きながら、椎奈の母親は少し涙ぐんでいた。
彼女もまた、ずっと椎奈を心配し続け、苦しんできたのだろうと思う。いつだったか、椎奈が席を外してふたりで話したとき、「まさか声を取り戻そうとするなんて思わなかった」と零していた。俺が、そのきっかけを与えたのだと。
病気を治そうとしたのは椎奈自身で、俺はただ勝手に彼女を好いただけの男だから、大層なことをしたつもりは一切ないのだけれど、椎奈の母親は、何度も礼を言って頭を下げていた。
今でも、スムーズに話せるまでには回復していない。しかし確実に、椎奈の声は伸びやかになっているし、お喋りになってきている。
ふたつ年上の俺の恋人は、今もまだ、進化し続けているのだ。
「浩介。次、この色」
見よう見まねで何とか木の葉を折れるようになった俺に椎奈が差し出した紙の色は、彼女がいつもあの木に針金で括り付けていた、若い葉っぱの色。
「ああ、コレね。普通の黄緑とはちょっと違うよな。なんて言うんだっけ、この色」
俺が尋ねると、椎奈は折り紙のパッケージの裏を指さし、答えた。
「これ。萌黄」
そっか、と俺は微笑んだ。萌黄。椎奈と同じ名前の——公園に立つ、椎の木が春に広げるあの葉っぱの色の名前。彼女の手紙の色。彼女のギンガムチェックのエプロンの色。そして——。
彼女の首元で揺れる、ペンダントのシーグラスの色だ。
最後までお読みいただきありがとうございました。
このふたりは、さして美人でもイケメンでもなく、本当に素朴、純朴なイメージです。外見を取り繕っていない、ありのままのふたりが、私は大好きなのです。
また、他のお話でお会いしましょう。ぜひ、他作品もお読みください。宜しくお願い致します。