浸食していく黒
悠理との戦闘を終えた後。
俺は壁を殴った。
何度も何度も壁を殴った。
亀裂が入り、表面のコンクリートが剝がれようが関係ない。
「クソッ!クソクソクソクソクソッ!」
きっと仮面の下の俺の表情は怒気を含んだ何とも醜い顔になっているだろう。
「どうして俺がッ!相手は雑魚のヒナ鳥一匹だぞッ!どうしていつも俺ばっかりッ!」
月明りが入らない暗い密室で一人、先の戦闘を思い出して憂さを晴らす。
今からでも構わない。
誰かを殺すか?女を犯すか?
いや、そんなことで俺の気は収まらない。
彩使いの剣士――笹宮悠理。
あいつを殺すことでしかもう俺は存在意義を見出せない。
衝撃で付けていた仮面を床に落としても気にせず、壁に当たる。
散々、壁に当たり少し憂さが晴れた俺は埃をかぶったテーブルの上に置いてあったウォッカをあおる。
ほとんどが口から外れ、ジャケットを汚す。
「おーおー、いけないんだぞ、非行少年。未成年者飲酒禁止法一条一項に抵触するぞ」
「クレイン……」
物陰から突然現れたクレインに仮面を拾ってもらい、未成年飲酒をたしなめられる。
俺は再度仮面を付けて、彼女の言葉をよそに結局持っていた分のウォッカを空けた。
「今さら、酒が何だってんだよ」
「そうだね、君はその歳でお酒の比にならない多くの悪事を働いてきた。今さら余罪が一つ増えたところで、何も変わらない」
ほろ酔い気分になりつつあった俺はクレインの言葉で一気に酔いが冷めた。
クレインはテーブルに腰掛けて、仮面を外す。
生憎、俺には背中しか見えない。
仮面を取ったことでさっきまでくぐもっていた声が鮮明に聴こえた。
「それで、彩使いの子は『千里眼』を何て?」
クレインは胸ポケットから、ライターを取り出して、くわえた煙草に火を点ける。
「一本くれ、クレイン」
大きく深呼吸して、俺に副流煙がかかる。
「簡単な仕事一つこなせないような人にはあげません。それで質問の答えは?」
鶴のお面のような高貴さはなく、鋭い目つきをした猛禽類のような双眸で俺の答えを促してくる。
「知らない、と言っていた。ただ、あれは十中八九ウソだ。現に俺は市原の当主を殺し、逃走していた際、確かに見られた気がした。アレが恐らく『千里眼』だ」
「なるほどねぇ……」
クレインは煙草を口にくわえ、腕を組んだ。
彼女から流れてくる柑橘系の香水と副流煙とが混ざった臭いが鼻腔に入り、俺の喫煙欲を刺激する。
「おい、クレイン。いいだろ、俺にも一本くれ」
「やれやれ、仕方ないなぁ」
俺の再三のアプローチを受けて、クレインは箱から一本取り出し、指で弾いて渡した。
ライターを俺は持っていないので、テーブルの上に置いてあったマッチを擦って、煙草に火を点ける。
気持ち良く煙草を吸う俺をクレインは冷ややかな視線で見る。
「ファルコン……嗜好品を辞めろとは言わない。現に私も酒は飲むし、煙草も吸うからな。だが、限度がある。君はその歳であまりにも依存し過ぎだよ」
「……うるせぇよ、余計なお世話だ」
「何が余計なお世話だ、私を舐めるのも大概にしろよ」
珍しくクレインは声を荒げて、俺の胸倉を掴む。
クレインの細腕一本で俺の身体は簡単に持ち上がった。
「離せよ、クレイン」
「君が自分でここから抜けたらいいんじゃないかな」
クレインはこう言っているが、そんなことが出来ないということはこの人が一番良く知っている。
成す術のない俺は睨むことしかできない。
クレインはもう片方の手で俺のジャケットの内ポケットを漁り、ボトルを手に取り俺の顔の前に出す。
「それに、これはポーションだろ?こんな非合法のブースタードラッグにまで手を出して、君は破滅したいのか?一時は確かに回復するし、酩酊するかもしれない。だけど、身体にも精神にも多大な負荷を掛けるこれは命の前借りに他ならないんだぞ」
俺の愛用しているポーションは先日、繁華街で取引をしていた売人から横取りしたものだ。
先の戦闘で大量に消費してしまったが、まだ十分な量がある。
傷の治癒に大きな効果があるこのポーションだが、身体に急激な細胞分裂を無理やり引き起こさせるため、その負荷は計り知れない。
だが、本当に影響が大きいのは精神面だ。
第七能力保持者である俺に影響が出るくらいだ。一般人がそれを飲んだら、一瞬にして廃人の出来上がりだ。
俺もポーションを飲むようになってから、どうも感情のコントロールが難しく、破壊衝動が抑えきれなくなってきていることを実感する。
「……我慢できなくなってきているのは認める。これ以上、飲めば戻って来られなくなることも。だから、今残っているこれで最後にすることを約束する」
「本当だね?」
「誓って、本当だ」
クレインの手が離されて、俺は地面に足をつく。
やめる、やめないではない。
これ以上はポーションを手に入れることができないから、やめざるを得ないのだ。
この前はたまたま偶然で売人のものを横取りすることができた。
ただ、入手経路が分からない以上、これ以上手に入れることは難しい。
「君が今日、そんなに荒れているのは彩使いの子に痛い目見せられたから?」
今日はいつにも増してクレインが絡んでくる。
図星を突かれて俺は無視を決め込む。
「ファルコン、君は彼に固執し過ぎてるんじゃないのかい?」
「当たり前だ、全力のあいつを倒してこそ意味がある」
「へぇ、それは随分とご執心なこったねぇ」
クレインは俺に背を向けたまま、着ていた着物の帯を緩めて外し、服を脱ぎ始める。
同年代の男なら理性のたかが外れかねない下着姿になったクレインを見ても、俺の中で情欲は一切湧いてこない。
これもきっとポーションによって情欲が破壊衝動に変換されているからだろう。
「心外だな、君くらいの歳ならもう少し反応を示してくれたっていいじゃない」
病的なまでに白い肌に扇情的な黒い下着のまま、クレインは腕を組み、壁にもたれる。
それを俺は客観的に自分の精神状態を捉えて、冷めた視線を送る。
「どうだ今夜は私のベッドで夜を明かすか?」
腰に手を当て、豊満な胸を強調して、誘ってくる。
無論、俺に好意がある素振りなどこれまで一度たりとも見せたことのないこいつにはそんな気はさらさら無いのだろう。
見た目と反して色気を一切感じない。
この薄汚い売女が。
「明日も早い、一人で寝る」
「分かった。ファルコン、今一度、私たちの目標を確認していいか?」
俺が彩使いのヒナ鳥に固執していることを危惧しているのか、警告の意味を込めて問いかけてくる。
俺らの目標は、そう――。
「神の御使いである『千里眼』の巫女の捕獲」
期待していた答えを訊けたのか、下着姿のクレインは満足そうに微笑む。
「その通りだ。我らが導師レグルス様の望む世界の実現には彼女の力が不可欠と言っていい。その為にはどんな犠牲や代償も厭わない」
「ああ、もちろんだ。重々理解している」
「あ、そうそう、少し待っててくれ」
クレインは衣服をまとわずにそのまま、ドアを開け奥の部屋に入っていた。
三十秒ほどで、ドアが開いてクレインが布に包まれた棒状の何かを抱えて戻ってきた。
「それは何だ?」
口角を上げ、不敵に笑ったクレインは巻かれていた紫色の布を床に落とす。
「――ッ!刀か?」
この現代日本において、刀を見る機会はそう多くない。
俺は小さいときから何度も見ているが、それでも随分と久しぶりだ。
「君の明日の装備だ。銘は『鳳切』。邪魔なヒナ鳥を討つための刀」
「鳳切……」
渡された刀の重さを両手で感じ、観察する。
形状は日本刀か。鞘は赤黒い血の色で統一され、鍔は四枚の羽根が折り重なっているように見える。持ち手の部分は鍔の羽根同様の空色で染められている。
自然と手が動き、鞘から刀身を抜こうとする。
「おっと、ここでは抜かないでくれよ。私も剣を取らないといけなくなる」
クレインの言葉でここでの抜刀はやめておく。
「これを明日、俺が使っていいのか?」
「ああ、それは君に譲渡とする。今後は君のものだ、大切に使ってくれ」
改めて、刀に目を配る。
クレインがこれをどこで手に入れたかは分からない。
だが、彼女からの予期せぬ貰い物で楽しみが増えた。
早く、この刀をヒナ鳥たちの血で赤く染めたい。
「『鳳切』は妖刀と呼ばれる類のものだ。使えばお前の身体能力や世界の見え方、治癒力、思考力その全てをこれまでとは比べ物にならないほどに変えるだろう。だが、その分代償も計り知れない。くれぐれも使わないことを強く勧めよう」
「…………ああ」
それでもこの刀は鞘越しでも持っているだけで俺の感情やどんどんと増幅していくように感じる。
笹宮悠理。
奴を完膚なきまでに叩きのめして、血でこの美しい空色までもを赤く染めたいと強く思う。
待っていろ、鳳切。
明日は確実に仕留める。
鳳切とクレインを同時に視界に収め、呟く。
「笹宮悠理を殺し、『千里眼』の巫女を捕らえる。そして――」
浅く呼吸をして、一言。
「俺が明日から、世界を完結させる」
目の前の美女が不敵に微笑む。
望むべき明日をもたらす。
俺がこの世界の第一部を終わらせる。
エンドロールはすぐそこまで来ている。




