天衣無縫の期待
「天音ちゃん、あなた優しいのね……」
「え?」
悠理がのぞみさんと二人、男子トイレに去ってしまった後、不意に名前の通り藍色の髪をした女性――藍吏さんに話しかけられる。
「あまり深く考えなくても大丈夫……コレはきっとあなたたちを守ってくれるはずよ」
藍吏さんはテーブルの上に置かれた痛覚遮断テープにそっと手を添える。
白くなめらかな手が添えられたテープはより一層黒く見える。
「……手、綺麗…………」
いけない、つい声に出してしまった。
悠理なんかじゃこの綺麗な手で触られただけで何か勘違いしてしまいそうだ。
藍吏さんは口に手を当ててクスクス笑ってくれた。
「ふふっ、綺麗だなんて、ありがとう。天音ちゃんだって、とっても綺麗よ」
「い、いや、私なんかじゃ、藍吏さんと比べるのもおこがまし――」
言い切る前に両頬を掴まれ、喋らせてもらえなくなる。
「いたいれふよ、あいりひゃん」
目の前の女性は綺麗に整った顔を私の顔に近づけ、両手で頬ををぐにぐにと上下に引っ張る。ある程度、私の頬の感触を楽しんで満足したのか、険しい表情から、いつもの穏やかな表情に戻る。
険しい顔の藍吏さんも凛々しくて素敵だけど、やっぱり私はいつもの優しい顔の藍吏さんのほうが好きだ。
藍色という珍しい髪色をしてはいるが、とても良く似合っている。
いや、似合っているという表現よりかは藍色という色が目の前のこの人の髪色になるべく生まれたと、そう考えるくらいにマッチしている。
「天音ちゃん、私は怒ってる。何でか分かる?」
肩まで垂れる藍色の髪を揺らして、私に問いかける。
以前、同じようなことを私が悠理に言ったけど、彼は「女子の言う怒ってる理由当てるのって、偏差値が百あっても無理だろ」と言っていたのを思い出す。
聞いているほうからしてみれば、簡単ななぞなぞなのだが、きっと聞かれている方はどんな試験問題よりも難しい。
今になって、悠理の言っていたことに納得する。
まぁ、悠理は偏差値、百もないんだけどね。
「わかりまへん」
私の答えを聞いて、藍吏さんは頬を掴んでいた手を離してくれる。
「いい? 天音ちゃん、よく聞いて。私とあなたをあなたの頭の中で比べるのは構わないわ。ただ、口に出して自分を卑下することは許したくない」
「え?」
「もちろん天音ちゃんの自分をへりくだることで相手に敬意を伝えるということを否定はしないわ、否定はしない、だけど…………」
きめ細かい白く、皴一つ無い両手で私の両手が握られる。
吸い込まれそうな藍色の双眸で目を合わせられる。
目が合わせられた、ただそれだけでここでは無い何処かに身体を預けられたように、浮遊感を覚える。
「だけど……?」
藍吏さんは頷き、言葉の続きを話す。
「……だけど、自分を卑下することは自分をこれまで信じてくれた人たち皆んなを侮辱することになる。だから、あなたにはあまり、そういうことはして欲しくないの」
はっとした。息が詰まる。
私は知らず知らずのうちに多くの人に期待を無下に扱っていたのかもしれない。
「天音ちゃん、皆んなあなたに期待してるわ。私はもちろん、のぞみや代表だって。それに一番期待してるのは……」
大丈夫、藍吏さん。
それは私がよく分かってるよ。
普段はヘタレで、馬鹿な男子とつるんで、ちょっとでも可愛い女子相手にはへこへこして、ワンチャン狙って、だけど皆んなはそんな彼の不器用な優しさを知ってるから、愛されてる。
いつだって私よりも剣も勉強も運動もできないし、顔も身体も女の子と見間違うくらいなよなよしてる。
私の頭の中には、
小さいころの私におやつを取られて泣きじゃくるけど、最後には優しく渡してくれる彼。
小学生のときに私に試合で負けて、本気で悔しがる彼。
去年、試験で私に勝つために一生懸命勉強してた彼。
その多くの思い出を昨日の出来事のように頭の中で思い出すことができる。
彼はいつだって私がどんなに嫌なことをしても、最後には許してくれたし、何かあれば頼ってくれた。
そんな彼が今度は私を一番に頼ってくれている。
胸が締め付けられる。
期待で視界が眩む。
それでも私は彼の力になりたい。
「藍吏さん、ありがとう。今回はきっと、いや、違うかな」
今度は藍吏さんが私の言葉を待ってくれる。
息を大きく吸い込んで、力強く答える。
「今回も、そしてこれからも私は悠理を支え続けます」
満足気に藍吏さんは私に背を向ける。
「その言葉を聞けて、十分だわ。私に付いてきて」
真っ白な景色の中、小走りで藍色の髪の女性の歩みに並ぶ。
そこから先の藍吏さんは優しい笑みを浮かべるだけで何も言葉を発さなかった。
「は?」
「いやだから、服を脱げと言っているんだ」
この人は個室に入るなり、何を言い出すんだ?
俺とのぞみさんの二人は今、男子トイレの個室にいる。
幸い、個室の中は広く、中三男子の平均身長より少し低い俺と小柄なのぞみさんではあまり窮屈に感じない。
「いや、パンツだけは履いてていいぞ?な? 笹宮少年、分かるだろ?な?一枚ずつで構わないから、な?とりあえず、脱ぎ脱ぎしよっか?」
言い方に悪意を感じる。
酔い潰した女性をテイクアウトする悪質なチャラ男のワンチャンを狙うセリフにしか聴こえん。
上目づかいで可愛くお願いされればされるほど、脱ぐ気が失せる。
「ねぇ、脱ぎ脱ぎ、まぁだぁ~?」
この人こんな可愛い声出せるのかよ。
絶対これで上層部言いくるめて、研究資金巻き上げてんだろうな。
俺もさっき天才少女から説明を受けたスーパーアイテム――痛覚遮断テープを使用するにあたって衣服を脱ぐ必要性があるということを理解はしてるつもりだ。
だが、服を脱ぐ際にも心の準備、テンションというものがあることを目の前の白衣ロリっ子には理解して欲しい。
俺は観念して、着ていた患者服に手を掛け、首から抜く。
上下のつなぎになっているため、着脱はすごくラクだ。
「まぁ、のぞみさんには研究だったり、治療だったりでもう何度も見られていますからね。今さらって感じです」
「潔い男は好きだ。早速、始めていくとするか」
のぞみさんは白衣の内ポケットから黒光りするテープを取り出し、俺の両肩に巻く。
身長差があり、届かないので若干俺がかがむ。
素肌の上から両肩の周りにグルグルとテープが巻き付けられる
「よし、立って良いぞ」
指示に従い、かがむのをやめて、起立する。
今度はのぞみさんが若干かがんで、俺の両太ももにテープを巻いていく。
シュルシュルと小気味良い音を立てて、手際よく進んでいく。
テープを巻き終わったのぞみさんは両手をパンパンと上下に鳴らして、仕事が終わったことを暗に伝えた。
最初こそひんやりとした触感がテープから伝わってきたが、十秒ほどでその感覚は消えた。
「うぉっ!え!何だコレ!き、消えた?」
目の前の事実を信じられず、思いがけず声が出てしまった。
さっきまで俺の肌に貼られていたはずのテープが突然消滅したのだ。
「消えてなんかいないよ、笹宮少年。この痛覚遮断テープは日常生活を送るうえで障害にならないように、肌と同化して見えなくなっているだけだ。まぁ、消えたと感じても無理はないか。コレは専用のライトでも当てない限り、認知されようがないからな」
反重力といい、光粒子刃といい、この人の作るアイテムは本当にすごいな。
改めて、目の前に立つ小柄な少女は天才だと再認識する。
「笹宮少年よ……あまりパンツ一丁で見つめられても、ときめくものもときめかんぞ…………」
のぞみさんの目からは光が消えている。




