そらのそこのくにせかいのおわり(改変版)3.4 < chapter.3 >
カナリアの腹の中で、キールはあり得ない景色を見ていた。
「……サイト?」
すぐ隣に子供のころのベイカーがいる。この時のベイカーはごく普通の子供服を着ていて、ちっとも貴族らしくなかった。
(ええと……この場所は……)
町はずれの空き地である。今は再開発によって宅地化されてしまったが、キールが子供のころには粗大ごみや廃材が放置された荒れ放題の場所だった。
その空き地の雑草の茂みに、その辺にあるものを掻き集めて造った秘密基地があった。この時は確か、自分の秘密基地にベイカーが勝手に入り込んでいて――。
(……ああ、そうか。これは……)
自分とベイカーが初めて会った日の記憶だ。
体格差に物を言わせてベイカーを引きずり出して、殴り合いの喧嘩をして、互いにボロボロになったところで急な雷雨に見舞われて――全身ずぶ濡れでガタガタ震えながら、ようやく自己紹介をしたのだ。
「なんでそんな名前なんだ? それ、女の名前だろ?」
自分の口がそう言うのを、ぼんやりと他人事のように聞く。
するとベイカーは、どう見ても女の子にしか見えない顔で精一杯の反論をしてくる。
「女の名前じゃない! お前が言ってるのは、女優のサイト・ミリアンのことだろう!? あの女優が有名になりすぎたせいで『女の名前』って言われるようになったんだ! 元々は男にも女にも使える名前だったんだぞ!!」
「知るかよ! 女の名前って言ったら女の名前だ! うちの学校にいる『サイト』って名前の子、全員女だぞ!」
「それはたまたま、お前の学校がそうだっただけだ!」
「じゃあお前の学校には、他に男の『サイト』はいるのかよ!?」
「っ! ……それは……」
「ほら見ろ。やっぱいないじゃんか!」
「……ぅっ……っ……うぅ……」
「え……いや、おい……泣くなよ」
「泣いてなんか……ヒック……ない……っ、もん……っ!」
「その……えっと……あー、うっぜえなあぁーっ! やーい! 泣き虫オカマ野郎ーっ! お前なんか女の名前がお似合いだぁーっ!!」
「うっ……うわあああああぁぁぁーんっ!」
「うるせえんだよ! 早くどっか行っちまえっ!」
泣きじゃくるベイカーを豪雨の中に叩き出して、秘密基地の入り口につっかえ棒をして、それから――。
(ああ……そうだ。俺はこの後、一人で……)
廃材の山から拾ってきた毛布にくるまって、雨に濡れた寒さで震えていた。
(でも、本当に寒かったのは身体じゃなくて……)
心が酷く寒かった。
はじめて会った小さな子を、相手の話も聞かず、いきなり殴ってしまった。
親からもらった大切な名前をバカにして、泣かせてしまった。
素直に謝ることができず、こんなに激しい土砂降りの雨の中に叩き出して――。
(最悪だな、このクソガキ……。いや……そうか。そうだよな。俺は、まだ……)
この日のことを謝ることができていない。なぜなら、先に謝られてしまったからだ。
数日後、ベイカーはもう一度秘密基地に来た。今度は一人ではなく、執事と一緒だった。ベイカーは勝手に中に入ったことを謝罪しに来たのだ。
あのときのベイカーの顔は今でもよく覚えている。
(……格の違いを見せつけられた、ってやつだよな……たぶん……)
ベイカーの顔は、ほんの何日か前に泣きじゃくっていた子供の顔ではなかった。自分の非を認め、真摯に向き合い、真っ当な手段で事態の解決を図る『大人の顔』をしていた。
仲直りの立会人として執事まで連れてこられては、キレて逃げ出すわけにもいかなかった。キールは横柄な態度で「まあ許してやるよ」などと答え、なし崩し的に仲直りし、改めて『友達』として名乗りあった。ベイカーが同い年であることはこのとき初めて知った。体が小さいから、二つか三つ年下だと思っていたのだ。
(あー……なんだ? こんなことを思い出すってことは、俺はこのことを謝りたいのか? 謝りたいんだよな? だけどもなぁ~……ったく、あの野郎。絶対に隙なんて見せてくれねえんだよな……)
長い付き合いだからわかる。ベイカーの中では、もうこの件は解決済みなのだ。秘密基地に勝手に入って、勝手に漫画を読んで、勝手に玩具で遊んでいた。それさえなければ、その後に発生した殴り合いの喧嘩も、名前に関する口論も、何もかもが発生しなかった。だから原因を作った自分が謝罪すれば、その先のことはすべて丸く収まると考えているのだ。
そう、たしかにあるべき場所に収まってはいる。
丸いかどうかは別として、子供の喧嘩の後始末は完全に終わった。
終わっていないのは、キールの心の整理である。
キールは一つ息を吐き、それから大きく息を吸い込んだ。
そして、今の気持ちを正直に吐き出す。
「おい、サイト。この糞野郎のド畜生。お前がさっさと大人になっちまったから、あのあと秘密基地熱が急に冷めちまったんだぞ。あんなに必死に作ってたのに……」
思い出の景色は消え、世界は闇一色に染まる。
自分の姿さえ見えない墨色の世界で、キールは言った。
「もうちょっと、クソガキのままで居たかったんだよ。俺はさ……」
闇の腕に抱かれて、キールの意識はどこか遠く、深い場所へと沈んでいった。