そらのそこのくにせかいのおわり(改変版)3.4 < chapter.1 >
どんな人間にも『うまくいかない日』はやってくる。今日はたまたま、それがトニーに訪れたようだ。
「ッテェ……」
デスクの引き出しに指を挟んでしまった。なぜそんなことになったのか、自分でも理由が分からない。使い終わったペンを仕舞い、いつも通りの動作で引き出しを閉めただけなのに――。
「大丈夫ですか? 血が出ているようですが……」
よりにもよって、マルコが後ろを通過した瞬間にやってしまった。トニーはぶっきらぼうに「余計なお世話だ」と言おうとしたのだが、今日は本当に『うまくいかない日』であった。
言葉を発しようと息を吸った瞬間、ホコリか糸くずのようなものを吸い込んでしまった。
激しく咳き込み、背中を丸めて机に伏す。あまりにひどく咳き込んだものだから、離れた席にいたキールまで心配して近付いてきた。
「どうした、大丈夫か?」
こんなくだらないことで先輩にまで心配をかけてしまった。トニーは恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいになったが、何よりもまず、状況を説明しなければと思った。
しかし、「大丈夫です」という短い言葉が出て来ない。
息を吸い込むたび、喉に引っかかった何かが震えて、ますます咳が出てしまうのだ。
「呼吸器系の持病をお持ちですか?」
マルコの問いに、トニーは首を横に振る。
ホコリを吸い込んだ、という文字列を机上のメモに記そうとしたのだが――。
「……!」
ペンを仕舞った瞬間に指を怪我して、そこからこの状況が始まったのだ。机の上にペンはない。
筆談失敗。ペンを取り出すか他の手段を使うかと考えた矢先、状況はトニーの想定外の方向から強制進行させられた。
ピンポンパンポーンと軽快なベルの音が響き、館内放送が始まった。
〈医務室からのお知らせです。
ただいま、総務部職員に百日咳の発症が確認されました。
百日咳は細菌性の感染症です。騎士団員には混合ワクチンの接種が義務付けられておりますが、体質によっては予防接種の効果が三、四年程度で失われてしまうことがあります。
各部署の責任者には、所属職員の健康チェック実施をお願い申し上げます。
微熱、鼻汁、咳などの症状がみられた場合、当該職員は直ちに医務室へ。
早期発見、感染予防にご協力ください。〉
顔を見合わせるキールとマルコ。
違う、これはホコリを吸い込んだだけなんだ! と、身振り手振りで伝えたつもりのトニー。
しかし、このジェスチャーは正しく伝わっていなかった。
片手で咳き込む口元を押さえ、もう片方の手を前に突き出して『待って!』と訴える仕草は、キールとマルコの目には『感染するから離れて!』と仲間を思い遣る仕草に見えていた。
「大丈夫ですよトニーさん! 特務部隊への異動時、混合ワクチンを打っていただきましたから! まだ抗体は消えていません!!」
「俺も今年、抗体検査を受けたばかりだ。安心しろ、俺たちなら大丈夫だからな!」
ああ、違う。違うんだ二人とも。俺はなんともない。本当になんともないんだ。頼むから話を聞いてくれ。いや、話したくても話せないのだけれども!
『うまくいかない日』のトニーは、結局何も言えないまま、キールに付き添われて医務室に向かった。
トニーが医務室に強制連行されている頃、車両管理部にも『うまくいかない日』が訪れていた。
「あっれー? ノルベルトさーん! ウエスの予備ってどこにありましたっけー?」
「え? ストッカーにあるでしょ?」
「上から二段目ですよね?」
「うん、そう、二段目……って、あれ? 無いね? もしかして、この間ので最後だったのかな……?」
「発注忘れですかね?」
「かなぁ……?」
と、二人で金属製の棚をガサゴソと漁っていたときだ。
荷物を動かした振動で、最上段の梱包用クッション材が荷崩れを起こした。
「イダダダダダッ!?」
デニス目がけて落下してきたものは、古紙を溶かして固めたハニカム構造のクッション材である。長距離輸送時に重量物の下に敷く物なので、それなりに硬く、重さもある。
「あっ、ちょっ……デニス君大丈夫!?」
「大丈夫……じゃ、ないかも。血が……ゲホッ! ゴホッ!!」
「あー、もー、すごいホコリだな……。ストッカーの掃除、しばらくサボってたからなぁ……まあ、とりあえず傷口を洗おう。立てる?」
「はい。すみませんノルベルトさ……ゲフッ! ゲフンッ!」
頬と額からの出血である。傷口自体は小さくとも、見た目のインパクトは大きい。
ガレージ中二階のオフィスで仕事していた事務官も、ドサドサという物音に気付いて階下に目をやり、血まみれのデニスを見て飛び出してきた。
「デニス君! どうしたの!?」
「それが、ストッカーの荷物が荷崩れ起こして、頭に……ゲホッ!」
「コージーさん、医務室に連絡! 大したことないと思うけど、頭の怪我だからさ!」
「了解! 担架とか車椅子は?」
「大丈夫、俺がカートで医務室の外扉まで連れていくから」
「OK、そう伝えておく!」
こうしてデニスは顔面から血を流し、激しく咳き込んだ状態で医務室へと搬送された。