愛はしきたりに勝てるか
「それで、貴方はどうしたいの?」
夜会の中、突如、他に好きな人が出来たので婚約を破棄すると言い出した長男マクシミリアンに、女帝エリザヴェータは尋ねた。
「ですから、婚約破棄を」
「破棄してどうするの?」
エリザヴェータは、聞きたいのはそれじゃないとばかりに、被せる様に尋ねる。
「マリヤと結婚します」
平民のマリヤにドレスを用意し夜会に連れて来ていたマクシミリアンは、彼女の肩を抱いてそう答えた。
「帝位は諦めるの?」
「何故、諦める必要が? 我が国では貴賎結婚を禁じていない筈ですが?」
マクシミリアンは、不機嫌を露わにそう返す。
「マクシミリアン様。私は、マリヤを愛人とする事を認めますわ。わざわざ、茨の道を歩ませる事も無いと思いますけれど」
マクシミリアンの婚約者であるエレオノーラが、寛容にもマリヤの為を思って、考え直す様に言う。
「私は、愛する者を正妻にしたいのだ!」
「そう……。マリヤ。覚悟はあるのね?」
エフレン語で話していたエリザヴェータは、エンジリ語でマリヤに覚悟を問う。
「は、はい! マクシミリアン様の為なら、どんな辛い事にも耐えて見せます!」
「宜しい。では、我が国の五つの公用語を、半年後までに習得しなさい」
「は、母上! 何故そのような無茶を!? それは、嫁イビリと言うものではありませんか?! マリヤが平民である事が気に入らないのですか!」
マクシミリアンは、エフレン語で愛する恋人を庇い、母を諌める。
「貴方は何を言っているの? 我が国の帝室は、21歳までに五つの公用語の習得が義務付けられている事を忘れたのかしら?」
エリザヴェータは、マリヤの為にエンジリ語で答えた。
五つの公用語は、主に王侯貴族が使うエフレン語・王都の在るエンジリ島で使われているエンジリ語・東のチネセ島で使われているチネセ語・北のルッシ島で使われているルッシ語・南のエスパン島で使われているエスパン語である。
「忘れてなどいません! 私は幼い頃から十年以上の年月をかけて習得しました。それなのに、マリヤは半年でなどと!」
エリザヴェータの気遣いに気付いたのか、マクシミリアンもエンジリ語で話す。
「それは、貴方がエレオノーラよりマリヤを選んだからでしょう? 何の為に、幼い時に婚約を決めたと思っているの?」
「で、ですが、マリヤが21歳になるまで三年あるのに、何故、半年なのですか!?」
エリザヴェータは、溜め息を吐いた。
「忘れているのね。それは、21歳までに結婚しないと帝位継承権を失う決まりだからよ。当然、結婚相手は五つの公用語を習得済みでなければならない。結婚式の準備が始まる一年半年前までにね。貴方は二年後に、21歳になるでしょう?」
マクシミリアンは思い出したようで、ハッと表情を変えた。
「無茶でイビリだと言うなら、貴方が帝位を諦めれば良いわ」
「それは……」
諦めきれないのだろう。マクシミリアンは躊躇い、口を閉ざした。
「マクシミリアン様。私、頑張ります!」
マリヤは、健気にもそう口にした。
「マリヤ……。ありがとう。信じているよ。君は優秀だ。きっと成し遂げられるだろう」
「マクシミリアン様……」
良い話だな~と、エレオノーラは思った。
「半年後が楽しみね」
次の日から、マリヤは寝る間も惜しんで勉強した。
しかし、彼女がするべき勉強は、公用語だけでは無かった。
マナーやダンス・主要貴族の顔や名前など、覚えなければならない事は、余りにも多かった。
(ルッシ語で)「紅茶の茶葉は、如何致しましょうか?」
「え、えっと……。お茶? (飲みますかと聞かれたのかしら?)はい」
(エフレン語で)「素敵なドレスですね。どんな生地を使っていらっしゃるの?」
「布? え、あの……。(布が素敵と言われたのよね?)ありがとうございます」
(エスパン語で)「この絵は誰の作品だったかな?」
「(描かれている人物が誰かって? どうしよう?! 知らない!)す、済みません!(エスパン語で解らないってどう言うんだっけ?!)」
(チネセ語で)「(流行りの本を手に)この本を読んだ事があると思いますが、感想を聞かせて貰えますか?」
「(感想? ええと……)わ、私は思います。この本は……。(チネセ語、殆ど覚えていないのに、どうしよう?)面白かったです?」
会う人全てが練習相手(マクシミリアンも例外ではない)で、気の休まる暇も無い環境で、マリヤは精神を病んでしまった。
間もなく、マクシミリアンの21歳の誕生日まで一年半となるある日の事。
「マリヤ。頑張ったな。もう、良い」
「……マクシミリアン様」
マリヤは安堵からなのか、目から涙を流す。
寝不足から、目の下には隈が出来ていた。
「あの日、エレオノーラは、愛人を認めると言っていた。だから、大丈夫だ。早く元の美しいマリヤに戻って、私を癒しておくれ」
マリヤは、呆然とマクシミリアンを見上げた。
「あは。あははははは!」
「……マリヤ?」
狂ったように笑い出したマリヤに、マクシミリアンは戸惑った。
側に、ナイフなどが無くて幸いだった。
もしあれば、マリヤはマクシミリアンを殺していただろう。
一頻り哄笑したマリヤは、空いている窓から身を乗り出して、スルリと落下した。
マクシミリアンは、何が起きたのか解らなかった。
幸いにも植木がクッションとなり、マリヤは一命を取り留めた。
一部始終を複数名が目撃していた為、マリヤの自殺未遂の原因がマクシミリアンである事をエリザヴェータに報告され、結果、彼は女帝の怒りを買った。
マクシミリアンは21歳を待たずして帝位継承権を失い、マリヤが心身の健康を取り戻し誰かと恋愛結婚するまで、謹慎を命じられた。
これ以降、帝室では、16歳以降に公用語を五つ習得済みでは無い人物と婚約する場合は、帝位継承権を放棄する事となった。
二兎を追う者一兎も得ず