花は透明
当時の私たち家族の家は郊外にあって、日当たりのいい小さな庭が台所裏についていた。父はこの庭を、わざとほぼ放置させていたから、ガーデニングをして花を咲かせたかった母親は、引っ越した当時はがっかりしていた様子だった。
ほぼ、というのは、外来種が見つかった時に限り、父は人が変わったような血眼で駆除し、種子が地面に落ちていないことを天に祈っていたからだ。父は植物学者だった。おかげで小さな庭は、最低限の秩序のもとに野草(雑草という言い方を父は嫌った)が生い茂る場所となっており、基本的に子供は庭に立ち入ることを禁止されていた。
何歳の頃だったろう。まだ小学生だった私は、夏の暑さに耐えかね、母の不在をいいことに、冷蔵庫を開けて涼もうと画策し、台所に足を踏み入れた。足裏にぺたぺたとリノリウムが涼しかったが、ふと裏口に兄の丸まった背中があるのに気付き、立ち止まった。
「お兄ちゃん、お庭はだめだよ」
一応声をかける。すると兄は、ちょい、と手で私を招いた。私はぺたぺたと裏口に近寄った。
兄は高校生で、いわゆる少し難しい年頃というやつだったと思う。機嫌が悪い時が多く、扱いに難儀した。ただ、年の離れた私には比較的優しく接してくれていたように思った。
「なあに?」
モグラでもいたのかと覗き込むと、そこにはもっと驚くべきものがあった。
庭の端、建物に沿って屋根のせいで日当たりの良くないあたり、そこにすっと一輪、背伸びをするように、見たことのない花が咲いていた。
その茎も葉も花もまるでガラスか水晶のような透明で、ところどころ光を受けて微かに虹色にきらめいていた。一番上には小さな蕾があり、きっとあと少しで咲くのだろう。私は何も言えず見とれていた。
「これ、本物」
「多分」
兄は静かに言った。私はますます興奮してきた。
「お父さんに言わなきゃ。きっと喜ぶよ」
はたと気づく。この家で一番植物に詳しくて、大好きで、何よりも変わった草に喜ぶのはきっと今二階で仕事をしている父だ。それなのに、どうして兄は父にすぐ報告をしないのだろう?
「お兄ちゃん、なんでお父さんに言わないの?」
「うーん」
兄は首をひねった。自分でもまだよくわからない、という風に。
「お手伝いしたらきっと喜ぶよ」
「あんまり、喜ばせたくないのかも」
私は頬を膨らませた。ひねくれ者がいる!
「なんで」
「これをあの人が見つけるだろ。そしたらきっと、新しい名前がつくんだ。それで、ラベルを貼って、標本にして、研究室にしまわれるんだよ」
「だってそれがお父さんのお仕事でしょ」
「うん、でも俺が見つけて、お前に見せたかったのは名前のないこの花なんだ」
兄は淡々とそう言った。私はよくわからないで、少し泣きそうになっていた。
「お兄ちゃん、お父さん、嫌いなの?」
「嫌いじゃないよ。ほんと、嫌いじゃないんだ。でもさ、俺、名前のないものは名前のないまんまがいいんだよ。どうしても、そうなんだ」
兄が頭を撫でてくれた。一体いつぶりだろうか。その手が意外に大きくて、しっかりしていることに気づく。父の手とおなじくらいには。
「だから、あの人より前にお前に見せたかったんだ。それだけ。もういいよ。親父を呼んできなよ」
兄が立ち上がった。透明の花は静かに風に揺れている。私はなんだかよくわからないまま、あのねお父さん、お兄ちゃんがね、すごいもの見つけた、と二階に駆け上がっていった。
兄が家を出たのは、それから少し経ち、進学する時だった。父は透明の花を繁殖させることに成功し、今も窓辺の植木鉢にあの時の株の子孫が細々と生きている。
透明の花には、発見者である兄の名前が冠された。それを聞いた時、兄は、なんだか取り返しがつかないようなそんな顔で、静かに笑ったものだった。