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第七話 怪しい雲行き、そして広島にて

 その後案の定、情勢は動き始めた。当たり前といっちゃあ当たり前なのだが、家康が諸大名との婚姻政策を進め始めた。もちろん、秀吉の遺言破りである。


 一時、利家派と家康派に諸将が分かれ、一触即発の事態となった。だが、家康はさすがに利家とやりあうのは不利と考えたのか、利家に謝罪。いったんは事態が収拾したものかと思われた。


 だが、不運が重なる。もともと病に侵されていた利家は3月に死去。調停役だった利家の死去により、武断派諸将の不満が爆発、文治派筆頭の三成を襲撃したらしかった。結局、三成は難を逃れたものの、家康によって責任を取らされ、佐和山城に謹慎となった。


 俺は、これらの報告を名島城で聞いていた。ここまで、歴史の通りである。違う点といえば、秀次が清洲城でまだ生きていることだった。だが、あの事件以降、豊臣政権内での影響力は低下。関白の職を返上し、領地の統治に専念しているようだった。


 慶長5年に入り、雲行きはますます怪しくなった。大坂から領国の会津に戻った上杉景勝らが軍備を増強しはじめ、家康がそれを咎めたのだった。話によれば、家康はすでに上杉家弾劾の書状を使者に託して送り、謀反を企てていないというならば、釈明のために上洛せよ、と言い切ったらしい。


 そんな中の慶長5年4月1日、俺は毛利輝元から広島城へ15日に来るようにという書状を受け取った。なにか会議があるらしい。まあ、なにかといっても……文治派に付くか、武断派に付くか、という話だろう。


 広島までの距離を考えれば、あんまりゆったりしている余裕はない。頼勝や重元、宗永に留守中の政務代行を頼み、古満姫に別れを告げ、供を二十人程度連れて、出発した。


 なんとか14日の昼、広島城下についた。道中、特に不自由なことはなかったが……あえて挙げるとすれば、船酔いだ。門司港から下関港まで、橋もトンネルもあるわけでもない、なので、地元の漁師から船をチャーター。下関に向かったのだったが……


 揺れる、揺れる。口にし難いほと酔うはめにになった。気合いで嘔吐はなんとか回避したものの、供は何人か吐いていた。うん、しかたがないよ。


 14日は広島城下の宿に宿泊、翌日、広島城へ向かった。


 門番に、名島城主の小早川だと伝えると、すぐに通してくれた。案内役の小姓に大広間へと連れらていくと、輝元のほか、何人かの武将はすでに控えているようだった。


 俺は毛利両川の片方である小早川家の当主であるせいか、輝元のほうに近いところに座らせられた。


 輝元や主な毛利家の家臣とは、養子に入ったときに顔を合わせている。輝元は、今年で四十七、八歳のおじさんといえばおじさんである。風貌は……まあ、どこにでもいそうな優し気な雰囲気を漂わせているおじさん、そのものだ。


 それからしばらく経ち、諸将があらから集まると、奥に座っていた輝元が話を始めた。


「皆の衆、今日はよくぞ集まってくれた。こたびの話というのは……今後の毛利家に関わる重要な話じゃ」


 ここでいったん、話を切った輝元は大きく深呼吸をすると、話をつづけた。


「加賀大納言の死去以来、内府の行動は目に余る。だが、考え方によっては、次の天下人は内府とも考えられるだろう。そこで、皆の意見を聞きたい。我が毛利家は、内府方に付くべきか? それとも、あくまで備前宰相らと連携して、内府めに立ち向かうべきか?」


 この輝元の話を聞いて、まっさきに意見を述べ始めたのは、月山富田城主の吉川民部少輔広家だった。


「恐れながら申し上げます。それがしは、もし大事が起こった場合、内府方に付くべきかと存じます。と申しますのも、反徳川筆頭だった石田治部少輔ですら謹慎に追い込まれておる有様。また、五大老の一人である会津中納言も、今後のことと次第によれば、攻め滅ぼされてしまうでしょう。歯向かうのは危険かと」


 ここまで言い切ると、広家は座った。この広家という武将……俺はどうにも好きになれない。史実での内通行為もあるが、実際の顔を見てみても、どこか小賢しいといった印象を受けるのだ。


「ふむ、他の者はどうじゃ?」


 輝元が再度尋ねる。


「殿、拙僧は内府方に与することは反対でございます」


 それに応えて、二番目に口を開いたのは、安国寺恵瓊だった。


「内府は、太閤殿下が薨去された途端、専横を始めたような輩です。信用なりませぬ」


 恵瓊は、伊予6万石の主である。今回も伊予から駆けつけてきたようであった。風貌は……まあ、どこにでもいる坊さんそのものだ。


「安国寺殿、信用できる、できぬの問題ではありませぬ。重要なのは、どちらに与するのが元就公から受け継いだ毛利家の存続によいのかです。それを考えれば、内府に敵対するのは……」

「いいや、吉川殿。内府方に与したところで、そのうち難癖をつけられ、改易・減封というのがオチでしょうな」


 それを聞いた広家が反論しようとしたところで、輝元が話をいったん止めた。


「広家、恵瓊。その方らの意見、ようわかった。どちらも道理じゃ……ところで、金吾。おぬしはどう思う?」


 突然、話を振られた。いや、そんな……ええっと。


「そうですな……それがしは、内府方に与するのは間違いかと」

「ほう、それはなぜじゃ?」


 広家から少し、恨めしそうな視線が来たような気がするが、知-らない。


「はい。これはそれがしの予想ですが……近いうちに天下分け目の戦いが起こるでしょう。内府とそれに対抗する者たちの間で」

「なるほど」

「その戦いでは、内府に対抗する者は……それがしの考えでは、備前宰相か石田治部少輔のどちらか、かと思いまするが、殿に総大将への就任を依頼してくるでしょう。もちろん、その提案を断り、内府方に加勢すれば、内府方はあっという間に勝ち、多少の領土も加増してくれるでしょう。ですが、今でさえ百二十万石を誇るこの毛利家を天下を狙う内府が放っておくとはおもえませぬ。安国寺殿のいう通り、改易、よくて減封は間違いありませんな」


 これだけの言葉を俺は、一気呵成に言い切った。我ながら、なかなかの雄弁?


「あい、わかった。なかなかの説得力じゃ。確かにそうかもしれぬな……」


 輝元もそこそこ納得している様子。


「では、他の皆はどうじゃ?」


 それからもしばらく、激論が続いた。吉川派の諸将は、毛利家重臣の福原越後守広俊、宍戸備前守元続、益田玄蕃頭元祥、熊谷豊前守元直ら。安国寺派の諸将は、小早川侍従秀包、毛利参議秀元、毛利大蔵大輔元康らだった。

 もちろん、俺は安国寺派だった。


 結局、輝元は自分の意見を表明しないまま、その日の会議は終わった。いざ、となったらもう一度、会議を開き、その場でどうするかを決めるらしい。


 翌日、俺は広島の城下町を散策した。名島の城下町はもちろんのこと、丹波亀山の城下町より大きいし、活気に溢れている。


 茶屋で、きなこ餅を食べたりして休憩しながら、うろうろし続けた。いやあ楽しい。なんていうか、昔の街並みっていうのは、眺めているだけで楽しいもんだ。


 そんな感じで街を歩いていると、一軒の雑貨屋を見つけた。その軒先に並べられている商品になんとなく目を向けると……それは、櫛だった、質もよさそうである。古満姫へのおみやげに……いいかもしれない。店主に声を掛けてみよう。


「あのー」

「ああ、いらっしゃい、旦那! 何をお望みで?」

「いやな、この櫛を妻におみやげに思って……なにで出来てるんだ?」


 一応、材質を聞いてみよう。見た感じ、べっこうじゃないかとおもうんだが。


「べっこうです、旦那。質もいいですよ」

「へえ……じゃあ、買った!」

「ありがとうございます! では、二百文」


 安くはない。安くはないが、いい買い物だ! うん。俺は、二百文を払うと櫛を受け取り、街の散策を続けた。


 夜になり、宿に帰り着くと俺は、早めに寝た。疲れたし、明日には名島に戻らないといけない。


 


 

 


 


 

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