第五話 慶長の役と醍醐の花見
秀吉からの命令で、俺は一万の兵士を率いて、朝鮮半島へ向かった。任務は釜山の守備である。すでに日本軍は首都、漢城まで進撃していたのだった。
正直言って、連れてきた兵士たちも士気は上がらないようだった。それはそうだろう。言葉も通じない、自分にメリットがあるわけでもなし。
二回目となる朝鮮への出兵、慶長の役がどういう結果になるのかは、わかっていた。だが……こればかりはどうしようもない。いや、ホントに。秀吉へ撤退の請願をしようとも考えたが、どう考えても受け入れてくれるとは思えないよ。
結局、釜山滞在中は、釜山城の増築、強化に勤しんだ。逆に言えば、本当になにもすることがなかった。そんなことより、ショックだったのは養父、小早川隆景の死去だった。養父とはいえ、とても親切にしてもらった身だった。
だが、一年も経たないうちに、秀吉から帰国命令が出たので、釜山城の守備に500の兵士を残し、命令通り帰ることにした。
そして俺は今、大坂城の謁見の間で、秀吉が現れるのを待っていた。すると、秀吉がついに姿を現した。その顔は以前と変わらないように見えたが、いささか意気消沈した様子が滲んでいた。
「おお、金吾。よくぞ戻った」
俺は頭を下げて、かしこまる。
「そう硬くならずともよい。釜山城の普請、よくやってくれたな。あとは、他のみなに任せるのじゃ」
「はい。ですが、殿下……お体のほうは大丈夫ですか?」
「最近、疲れが少し溜まっておってな……顔にでも出ていたか?」
「は、左様で……殿下はお拾い様の為にも、長生きせねばなりませぬゆえ」
「そうか、それもそうじゃな。では金吾、長らくご苦労だった。もう、下がってよいぞ」
秀吉の言葉を聞き、俺はもう一度、頭を下げると、部屋から退出した。
それからはまたしばらく、名島城で政務を行うことになった。もとからの10万石に加え、小早川領30万石をまるまる譲り受けてしまったことに気を使ったのか、秀吉から、山口宗永と松野重元という二人の武将が追加で送り込まれた。どちらも、文官というよりは、武官タイプの武将ではあったが、人は多ければ多い方がいい。
三月、秀吉が醍醐寺で豪勢な花見会を開催したという話が耳に入ってきた。醍醐の花見といえば、秀吉最晩年のビッグイベントとして有名。体調は本当に心配だったが、九州の筑前、この名島城で出来ることはなにもなく、引き続き、政務にあたっていた。
名島城は、三方を海に囲まれた小高い丘の上にある城だった。そのため、防御は鉄壁だったが、城下町は丹後亀山城と比べると、悲しいものがあった。農家や武家屋敷がちらほらと立ち並ぶばかりで、飲食店や雑貨屋などは皆無。月に3、4回回ってくる定期市での買い物ぐらいしか娯楽がなかった。
あまりに暇だったので、頼勝と将棋をしてみたりした。だが、どうせ俺と同じぐらいだろうという楽観的な予測はすぐに打ち砕かれ、そして……ボコられた。
年齢も17歳になった。奥さんの古満姫も17歳に。ちょっと前からがだいぶ話が出来るようになった。
趣味はスゴロクらしい。和歌の嗜みも少々あるとか。今度の定期市でべっこうの櫛でも買って、プレゼントしようかなあ、なんて思っていた時……
ある知らせが届いた。秀吉が危篤状態になっているという知らせである。これを聞いた俺はすぐさまいろいろなことを放り出して、全部を頼勝に任せて城を飛び出した。
このままだと、家康が専横を始め、調停役を務めていた前田利家が死去したとたん、もとから仲の悪かった石田三成筆頭の文治派と福島正則らの武断派が対立が激化。そして、その隙につけこんだ家康が天下への道を歩み始める……
史実での秀秋は、西軍に属したものの、肝心な関ヶ原の戦いでは、東軍に寝返った。そのおかげで宇喜多秀家の旧領、岡山55万石を得たものの、2年後に大谷吉継に呪い殺されるという末路だった。
これは、いくらなんでも嫌だ。三成からは、関白への就任を打診されていたようだし、西軍についたほうがお得なのかもしれない。それと……家康はなんか嫌いだ。
でも今はそんなことより、伏見へ向かうことの方が重要だ。俺の育ての親なのだから、秀吉は。