エピローグ 後世のインターネット百科辞典による小早川秀俊の隠居生活と人物・逸話
隠居生活
元和2年(1616年)、嫡男悠太郎の元服をきっかけに、突如として隠居。立花山城へ移った。
立花山城での生活は午前中は子供達と遊んだり、散歩をしたりし、午後は源氏物語や三国志などの古典に親しむといったものであった。別府へも温泉を目的にしばしば向かっていた。
子供達が全員元服して、独り立ちすると妻の古満姫と僅かな身の回りの世話をする家来たちとの生活となった。古典に親しむだけでは暇潰しにはならなかったようで、九州各地や京都奈良を家族や家来たちと一緒に旅していたという記録が残されている。
寛文元年(1662年)、前年に先立った妻を追うようにして、80歳で死去した。死因は老衰だと考えられている。
人物・逸話
・秀吉や秀頼、豊臣家への忠誠心は非常に厚かったのに対し、家康を嫌っていた。秀俊の隠居後に家臣がその理由を尋ねると、「家康は太閤殿下や豊臣家のことなど全く考えず、天下盗りを狙っていた狡猾な人間だった。放っておけば、秀頼様は家康の手によって大坂城で炎と共に消えていただろう」と答えたとされる。
・当時としては珍しく側室を一切置かなかった。側近の平岡頼勝が置くことを勧めると、今から三百年後の世では側室を置かないのが普通になるという理由で断ったとされる。現代から考えれば、秀俊の言葉は当たっていたことになる。
・領内に設置した学校に「小学校」という奇特な名前を付けたが、その理由は単に「小さい」学校だからという物から、未来を見通して「小学校」と名付けたと秀俊が語っていたという突飛な説まであるが、定かではない。
・カステラやボーロ、ビードロといった南蛮渡来の物が大好きだったとされ、隠居後買って楽しんでいたとされる。