第二十九話 論功行賞
一週間後、ようやく江戸城に秀頼たちが到着した。俺を含めた西軍諸将が丁重に出迎え、挨拶をし、大広間へと案内する。論功行賞をするためだ。
家康が座っていたであろう大広間の最も奥へ秀頼が着席、少し離れて一段下に今回の戦いの形式上の総大将、毛利輝元、さらに真正面に副将、実質は大将であった秀家、その隣には秀次……といったように、戦いにおける功績と官位を考慮して、座る位置が決められた。俺は輝元のところから数えて前から三番目である。
「みなの者。こたびの戦、まことにごくろうであった」
諸将があらかた着席し終わった後、秀頼がそう言葉を掛けてきた。俺たちは手を地につけて礼をする。秀頼とは年賀の挨拶で何回か顔を合わせたことがあったが、まだ小さな子供である。今年でたしか七歳になるんだっけか。あどけなくてかわいい顔をしている。ただ、秀吉にはあまり似ていない気はするのだが。
「上様は、こたびの戦における加増、減封、転封などの一切の処置をそれがしたちにお任せくださるとのお考えじゃ。ではさっそく、始めましょうぞ」
上様のご意向とはいえ、それは実質、秀頼の生母である淀の方の意向である。現代では一般に、淀殿とか淀君とか呼ばれているようではあるが、この戦国時代はそうではない。さっき言ったように淀の方とか淀様と呼ばれている。他にもたくさん尊称はあった気がするが。
淀殿といえば、信長を裏切った浅井長政と信長の妹で絶世の美女であった言われるお市の方との間に生まれた子である。父である長政は信長に攻められて炎の中で自刃、その際に兄の万福丸は、戦国の世でしょうがなかったこととはいえ、秀吉の手のものによって串刺しの刑に処された。その後、母であるお市の方が再婚した柴田勝家も、秀吉の手によって攻め滅ぼされ、揃って自害。ここまでされたら普通は秀吉のことを怨むと思うのだが、なんとその秀吉の側室になったというのだから、わからない。愛憎は表裏一体、ということなのだろうか。
それはともかく、輝元が始めた話し合いの方はスムーズに進んでいた。とりあえず家康とその家臣たちの領土はすべて没収、秀康を除く徳川の一族郎党は全員、八丈島送りとなった。ただし、三男の秀忠は妻が淀殿の妹であることが考慮され、八丈島よりは本土に近い、大島へと島流しになった。家康は処刑した方がよいという意見もあったものの、今更、再起は不可能であることに加え、城を素直に明け渡したということで、武士の情けで結局、八丈島行きとなった。
ちなみに、結城秀康の下総十一万石は江戸城に攻撃に参加したということと、秀吉の養子であったことを考慮し、安堵ということなった。
次に家康の家臣ではないものの、三成憎しの心や打算的に家康方に着いたものたちの処分が議論となった。とはいえ、今回の戦いは形式上は豊臣家同士の内戦であり、豊臣恩顧の武将たちを軽々と改易にするわけにもいかない。とりあえず、福島、加藤といった武将たちには、上様直々の厳重注意が申し渡されることとなった。
ただ、もう一方の打算的に東軍に属した者たちには容赦ない処分が下されることとなった。まず東北から見ていくと、伊達政宗は四国の宇和島十万石に減封、西軍についた小野寺義道を攻め立てた秋田実季も改易、同じく東軍に属した戸沢政盛も改易となった。そしてこれまた同じく、東軍に属していた津軽為信も改易……と言いたいところではあったが、三成と親しい間柄であったうえ、周りを全て東軍方の大名に囲まれてやむなく味方したのだろうということを考慮し、本領は安堵ということになった。
続いて関東、北越、中部の方に目を向けると、村上義明が減封、成田泰親が改易、溝口秀勝が減封、森忠政が改易……と東軍に属したも大名はあらかた改易となった。ただ、江戸城攻めに参加した元東軍の大名たちは本領安堵となった。前田利長も東軍には属していたため、所領は没収となったが、弟の利政は出陣を拒否するなどした功績を考慮し、本領安堵となった。
さらに続いて西国の方はどうかというと、親父が九州で怪しい動きをしたうえに、自らは東軍に属したというもはや弁明のしようのない黒田長政がまず改易、寺沢広高が改易、有馬豊氏が改易、悪名高い藤堂高虎が改易、生駒一正は父の親正が西軍に属していたことから本領安堵、蜂須賀至鎮も改易と言うところであったが、父である家政が秀吉恩顧の将であることを考慮して、本領安堵となった。
最後に近畿方面はというと、分部光嘉は改易、富田信高は改易、古田重勝は改易、九鬼守隆は父親の嘉隆が西軍に属したため本領安堵、桑山一晴は西軍に属したものの、一族の多くが東軍に属したため、本人の二万石は安堵されたものの、ほかの兄弟や叔父たちの領土は没収となった。
だいたいこの程度で東軍に加担した大名たちの処分は終わったので、続いて西軍諸将の加増についてが議論となった。一応の総大将であった輝元の毛利家は黒田長政の旧領、豊前十二万五千石、家康をたきつけて挙兵させた上杉家には先祖代々の土地である越後、そして今回最も活躍したと思われる秀家の宇喜多家には家康の旧領の約四分の一に当たる関東の五十万石が与えられた。秀家からしたら元々の領地である岡山五十七万石に加えて領地が倍増したようなものだが、勝利の立役者といっても過言ではない活躍があったわけなので、まあ妥当ではある。
俺は関東に転封のうえ、百万石を与えようと輝元から提案されたものの、固辞した。住み慣れた名島や秀吉から最初にもらった丹波亀山を捨てたくはなかったからだ。ただ、俺に褒美は不要でも家臣たちはそうではない。必死に働いてくれた分の褒美はやらないと。そう思った俺は、伊豆国を褒美としてもらい受けることにした。これを家臣のみんなに後で分配しよう。
俺に配当されるはずだったであろう領土は同じく西軍主力の一員だった小西行長が秀家と同じく関東で六十万石を拝領することになった。そしてまだ残った百数十万石は豊臣家の直轄領ということになった。これから何かあったときのための褒美用である。
ちなみに島津家は有馬家の旧領、長宗我部家には藤堂高虎の旧領、織田秀信には東軍に属して改易された金森長近の飛騨一国が与えられた。本来であれば、秀次にも三河一国が与えられるはずであったのだが、秀次がそれを固辞したため、取り消しとなった。
あとは立花宗茂には寺沢広高の旧領である上松浦八万石を与えるといったように、ほかの諸将にも近隣の東軍に着いたものたちの所領などを分配することに決定し、論功行賞は終了した。
やることもなくなったので、俺たちは各々の領国へと帰還することとなった。とはいえ、ここは江戸。現代でいえば東京、帰るところは現代の福岡県である。相当、時間がかかるがそれは今更、しょうがない。
序盤のエピソードが物足らないといったご意見を以前、いただいておりましたので、いったん一区切りとなったこれからはその点も加筆していきたいと思います。
完結までお付き合いいただければ幸いです。