第二十七話 軍議と弔い
いつもの軍議の開催場所となっている秀家の陣に着いたころには、すっかり時刻は夜となっていた。陣幕をくぐって中に入ると、一番最初に目に付いたのは、首だった。文字通り、単体の首である。思わず、目を背けてしまう。その様子を見ていたのか、秀家が話しかけてきた。
「いかがいたした、小早川殿?」
「いや、実は生首を見るのは初めてでしてな……少し……」
「ああ、左様でござったか。それがしも初めて見たときは吐き気がしたものです。ですが、これは慣れるしかございませんな。戦の常でござるゆえ」
「そ、そうですな」
秀家に話しかけられて、少し楽になった。改めて首に目を向ける。それぞれ表情も様々であるが、苦悶の表情を浮かべているものが多かった。ただ、誰も知っている顔はいない。
下手をすれば、自分もこうなっていたかもしれない……そう考えると、背筋が氷水を掛けられたようにゾーッとしてきた。
そんなことを考えていて、しばらく待っていると。諸将が続々と集まりだし、ようやく全員が揃うと秀家が話を始めた。
「皆様お集まりいただいたところで、このたびの戦の戦果を紹介いたす……まずはこの首」
いったんそこで言葉を切ると、ためてから秀家は続けた。
「井伊修理大夫の首でござる!」
秀家がそう言うなり、陣内が沸き上がり始めた。
「討ち取ったのは長宗我部殿の配下でござる。まことに素晴らしいご活躍じゃ!」
相変わらず陣のなかが沸き上がり続ける中、盛親の方に目を向けると、まんざらでもないといった顔をしている。
「続いてはこの首……松平三郎四郎の首でござる! これは小早川殿の配下が自ら討ち取ったものでござる!」
さらに陣内が沸き上がる。相当な大物だったらしい。
「内府の弟を討ち取るとは、大きなお手柄でござったな。小早川殿」
三成が俺のそばに寄ってきてそう言う。
「いえいえ、それはそれがしの手柄ではなく、家臣の者の手柄でござる」
三成の話に答えながら、俺は思っていた。なんと、家康の弟だったとは……ホントに大手柄じゃないか。
それからもしばらく、戦果の紹介が続く。各部隊でだいたい一人づつぐらいは大物の首を取ったらしい。秀元と広家の部隊も山内対馬守なる者を討ち取ったとの話だった。一隊の長だったとのことなので、おそらくその対馬守は山内一豊なのだろう。
山内一豊……記憶がハッキリとしないが、史実では長宗我部盛親の後釜として土佐の領主になった者のはず。手柄ではある。
戦果紹介が一段落すると、秀家が再び話し出した。
「さて皆様……本題の軍議に入らせていただきまする。このたびの戦は勝利に終わりましたが、今後はいかがいたしましょう?」
そう問いかける秀家に真っ先に答えたのは、島津義弘だった。
「西三河の領主、水野日向守は内府方より離脱したものの、もとは敵であり信用できるものではござりませぬ。一気に攻め滅ぼすか、降伏を迫りましょうぞ」
「なるほど。それは確かにそうでござるな。他には?」
秀家が再度問うと、今度は小西行長が答えた。
「大坂城の毛利殿に上様と一緒の出陣をお頼み申しましょう。これで中立を決め込んだ者たちもこちらに着き、勝利は決定的なものになりましょうぞ」
「それもしかりでござるな。では、水野日向守には降伏勧告の書状、大坂には上様の出陣を要請する書状を送るということで。ご異議はございませぬか?」
秀家があたりを見回しながら、そう言うが、誰一人として「異議あり!」と答えるものはいない。
「今後のことはひとまず決まりましたので、では、こたびの軍議を終了いたしまする」
秀家がそう言うと、諸将が床几から立ち上がり、陣幕をくぐって立ち去っていく。これも毎度おなじみの光景だ。そして俺もその波に従って、自陣へと戻った。
帰ってからは、待っていた頼勝たちに今回の軍議の決定事項を簡単にまとめて伝えると、俺は寝た。
翌日、俺たちは六人の早馬を見送った。何か万が一のことがあったときに備えて三人一組で行動するため、そんなことになっているのである。
大坂に行って帰ってくるのは、さすがに一週間以上かかるものの、水野日向守のいる刈屋城は目と鼻の先。一泊二日程度で帰って来るはずである。
降伏勧告の返事が来る前に城攻めを行うわけにもいかず、その日は刈屋の地に留まることとなった。とはいえ、やることがないわけではない。負傷者の手当ても続けないといけないし、死者の弔いもしないといけないのだ。
今回の戦では、両軍合わせて二万ほどの死者が出た。戦場となった草原は死屍累々といった状況である。そのまま放っておくわけにはいかない。理想を言えば、故郷まで連れ帰り、そこで葬式を挙げて弔ってあげたいところなのだが、現実はそうは行かないのだ。
穴を掘ってそこに戦死者を埋める。その日は俺も含めてその作業を行った。やっている最中、俺は涙が止まらなくなった。敵である彼らも彼らなりの正義で参戦していたか、命令でイヤイヤ従軍していたのだろう。仕方がなかったとはいえ申し訳なかった。故郷にはきっと家族を残してきたのだろう。それを思うと、また涙がこぼれてきた。
その日は結局一日中、穴を掘り続けたものの、当たり前だが弔いが終わることはなかった。穴の数も深さも全くと言っていい程足りないのだ。
夕暮れのなか、俺は誓った。必ずや、平和な世の中を作り上げてみせると。
翌日の昼頃、刈屋城に向かわせていた降伏勧告の使者が帰ってきた。返事は「太閤殿下の親戚である秀次が西軍に付いた以上、どちらが正義かはもはやハッキリとした。自らも軍に加わる」とのことだった。兵たちをまとめ次第、こちらと合流するらしい。
使者が帰ってきたときに開かれた臨時軍議で、今後の方針も決定した。大坂に派遣した使者が帰ってくるまで、とりあえず明日から江戸に向かって進軍を続けるらしい。
ちなみにさらにこちらにとって嬉しい報告も入ってきた。東北を抑えた上杉家と佐竹家が家康の本拠である江戸城を攻撃してくれるらしい。これはもはや、負けるシナリオが見えてこない。
その日もギリギリまで穴を掘り続けたものの、結局終わらなかった。
翌日、俺たちは江戸へ向かって進発した。心残りであった兵士たちの弔いは、近隣の農民に金子を与えてしっかりやってもらうことにした。ちなみに、農民たちには兵士たちの遺体を放っておくと疫病になるぞということもついでに教えておいた。これでさらに頑張ってくれるだろう。
次の目標は東三河の領主である田中筑後守吉政である。彼も一時、東軍に属したものの、秀次の西軍参加に動揺して離脱した者たちの一人である。とはいえ、この期に及んで抗戦してくるとは思えない。城まで接近してから降伏勧告の使者を送るつもりなのだ。