第十九話 秀次の思い
清洲城の自室で、一人の男が頭を抱えて悩んでいた。その男の名は……豊臣秀次。
百姓の子として生まれ、平平凡凡とした人生を送るはずだったが、叔父の秀吉の大出世によって、それが変わった。そしてついには、関白にまで。
思えば今までも波瀾万丈な人生だった。宮部継潤、三好康長と二人のもとに養子に出された。とはいってもどちらも形式的なもので、十分に厚遇してもらったものの、親との触れ合いというものはないに等しかった。
三好家から去り、天下人の甥となってからもすべて順調とは行かなかった。秀吉と同じく信長の後継者になろうとしていた家康との戦い、小牧・長久手の戦いでも秀吉の期待に応えることができなかった。
今でも思い出すあの時。血気に逸って、家康の本拠地である三河の強襲を提案。意気揚々と出陣したものの、家康側に見破られており、奇襲を受けて大敗。秀吉から派遣された木下助左衛門と木下勘解由の兄弟が身代わりとなって助けてくれなかったら、今頃生きてはいなかっただろう。本当に申し訳のないことだった。
その後も一筋縄とは行かなかったが、秀吉の戦に同行してそれなりの戦果を挙げた。そしてついには……関白になった。
だが自分には、この清洲の故郷で農業に勤しみ、ささやかな楽しみを享受する人生のほうが、よっぽど向いていたようだ。そう、こんなことになるのであれば。彼は思っていた。
秀吉の養子であり、関白であるという地位。誰がどう見ても、秀吉の後継者は自分、秀次であると思われていた。だが、秀吉の実子である秀頼が生まれると、秀吉との関係は次第に悪化。謀反の疑いを掛けられた挙句、どうにか疑いは晴らしたものの、謹慎処分となった。
それを機に関白の地位も返上、これからは我が清洲の統治にのみ専念しよう。そう、考えていた。だが、父である秀吉が死去。悲嘆に暮れる間もなく天下の情勢は再び怪しくなった。
前田利家の仲裁によって、一時は戦は止めることができたものの、その利家も死去すると、ついにそれが爆発してしまった。
家康が謀反の疑いあり、とした上杉景勝が釈明を拒否、その家臣、直江兼続が書いた挑発的な文を釈明代わりに送り付けたことに激怒して、討伐に出陣したすきに、秀吉の忠臣であった石田三成が、五大老筆頭であり義理に厚いという評判、そして……秀吉の元は敵であった徳川家康を「天下の簒奪を狙う狸親爺」と弾劾して、挙兵したのである。
それに対する家康も、三成のことを奸臣と非難、三成嫌いである秀吉子飼いの武将たちを仲間に引き入れて、上杉討伐を急遽中断。大急ぎで引き返してきたのだった。
そして、今の状況に至る。自分は引退したも同然、内輪揉めであるこたびの戦には関与せず、中立の立場を守る……そう決めていた。
だが、三成と家康の二人はそんな思いも露知らず、加勢を求める書状を次々と送ってきた。
三成からは「秀頼公を害さんとする家康の討伐に力を貸していただきたい。勝利の暁には、秀頼公の後見人として当分、関白の地位に復していただきたいと思っている」という趣旨の内容の書状。
家康からは「上様を食い物にして、天下を操らんとしている奸臣の石田三成の討ち果たすことに協力いただければ幸いです。上様を支えていくためにも、どうか加勢をお願いいたします」と幾分、三成よりも慇懃な文が送られてきた。
だがこれは、言葉の丁寧さ云々で決める問題ではない。豊臣家のために、どちらかに加勢したほうがいいのではないか、という思いも少しはある。だが、あまり天下の経営に首を突っ込むのは、こりごりなのだ。
家臣たちも家臣たちで、三成派と家康派、中立派の三つに分かれて激論を繰り広げている。三成派には大場土佐、大山伯耆、舞兵庫、森九兵衛ら。家康派には藤堂玄蕃頭良政、安井喜内、富田高定ら。そして中立派には高野越中、牧野伊予守成里ら。
数の面からすれば、三成派が論戦の上では優勢なようだ。だが家臣同士で、いつまでもやりあっていても埒が明かないと感じたのか、それぞれの考え方の家臣が押し掛けてきた。
大場土佐が「太閤殿下のご眷属として、三成派に加勢すべき」と主張してくれば、藤堂良政が「治部少輔は、太閤殿下にありもしない噂を吹き込み、殿を陥れんとした男との話。内府に加勢すべき」と反論。その話の間を縫うようにして「殿の望まれる平穏のためには、ここは中立を保って傍観するのが最善の策」と高野越中が主張し、またもや論戦となった。
だが彼は、その三人に退出を命じた。「一人で考えさせてくれ」と。彼らがおとなしく部屋から揃って退出していくと、物思いに耽り始めた。
事件こそあったものの、秀吉は自分に愛情を注いでくれた。その恩に報じる必要はあるのかもしれない。だがだとしても、どちらに加勢すればいいというのだろう。
「太閤の親族として、豊臣家に忠誠を尽くす三成に加勢すべき」これはたしかにもっともな意見である。それに謀反の疑いを掛けられたときに、庇ってくれたという小早川秀秋も三成に加勢しているようである。一方で「奸臣である三成より、誠実な家康に加勢したほうが豊臣家のためになる」という意見も一理ある。「三成が讒言によって、自分に謀反の疑いをかけさせた」こんな噂は幾度も耳にした。冷徹な彼ならないととは断言できない話である。
どちらが正義かわからないのであれば中立を保つ……やはりこれがいいのである。戦いが終わった後、三成と家康のどちらかが佞臣であったと分かったとしても、その時はこの自分がいる。攻め滅ぼされるかもしれないが、きっと後世に名を遺すぐらいはできるであろう。いくら首を突っ込みたくはないとはいえ、天下の安寧を乱す奴を放ってはおけない。
彼はその日はそんなことを考えながら眠りに就いたのだった。
翌朝もろもろのことを済ませて、政務の命令を下そうと評定の間で、家臣たちが集まるの待っていた時のこと、大場土佐が慌てて駆け込んできた。
「土佐、いったい何事であるか?」と秀次が尋ねる。
息を切らしながら、土佐はこれに答えた。
「殿。治部少輔殿と小早川金吾中納言殿が直々にいらっしゃいました!」
大変長い間の更新停止、まことに申し訳ありませんでした。これから少しずつ、更新していきたいと思います。