マルタにて
マルタにて
1
「……ときに、キンドルさん」
マルタ島ヴァレッタの瀟洒なホテルのスイート。
その広い衣装部屋で、エマは、リルのナイトケープにブラシを掛けながら、背後のリック・キンドルへと声を掛ける。
「このところ、とみに『熊』の機嫌が悪いと思いません?」
「確かに。君の言うとおりだね、エマ」
テディ・バートラムのホワイトタイに、おそるべき手際でアイロンをかける手は止めぬまま、リックが応じた。
「あのむくれ顔ときたらね。リリアン様の方をご覧の時だけは、なんとか笑顔を取り繕っていらっしゃるが」
「あれで、不機嫌を隠しているつもりなのかしら、あの『髭熊』は」
「奥方に対しては、そうなのだろうさ? エマ」
タイのアイロンがけを終え、リックはテディのヴェストコートに手を伸ばした。
そして、「おや、シミが……」と呟く。
ドーセット卿の次男で社交界のゴシップメーカーとして名をはせていた、テディ・バートラム。
その夫人であり、ダチェット伯爵令嬢でもあるレディ・ユージニア・リリアン・スタンレー=バートラムの下でメイドをしていたエマは、ひょんなきっかけからダチェット伯爵の家令リック・キンドルと親しい交わりを持つ仲となっていた。
だが、それは、世間に恥じるような、いわゆるふしだらな関係ではなかった。
頬と手へのキス以外、エマは、リックにくちびるすらも許したことはない。
ただ、時折のダンス。
それだけの関係だった。
リック・キンドルは、やや大きすぎる目と窪みすぎた眼窩を持っている男だったが、顔立ちは知的で端正で、体格もなかなかに立派であった。
なにより、その若さながら、家令として、あのダチェット伯オーガスト・ユースタス・スタンレー卿の信も厚い男である。
どう考えても、「お買い得」な品であり、メイド風情の「相手」としては願ってもない相手。
エマと同様の立場にあるようなほとんどの女は、あわよくばリック・キンドルの妻として、いや、なんとしてでもその座に収まりたいと思うに違いない。
いうなれば、リック・キンドルは、喉から手が出るような類の男だった。
そのリックが、どうやら自分に首ったけであるよううだということを……。
エマとて気づかぬわけではなかった。
だが心のどこかで、もしかしてそれも、この賢い男の手管であって、「許した」後は、じきに飽きられ、捨てられるのではと。
エマは、そんな怯えにも似た何かを感じずにはいられなかったのだ。
わたしは、リックを愛している。
そして、そう認めざるを得ないからこそ、わたしは臆病風に吹かれるの。
エマは、そんな風に、しばしば心の奥でかみしめていた。
さて、リックは、テディ・バートラムの白いヴェストコートに、ほんの針先ほどのシミを見つけて、手早くそれを取り始める。
おそらく、昨日のディナーのソースが、わずかに跳ね飛んでできたのだろう。
シミはまだ新しく、簡単に抜くことができた。
ホールボーイとして奉公を始め、大屋敷の執事付フットマン、子爵の従僕と、若くして様々な経験を積んできたリックだった。
ホワイトタイのアイロンやヴェストのシミ抜きなど、お手の物というわけだ。
とはいえ、リック・キンドルは、アイロンがけやシミ抜きをするために、ダチェット伯の右腕としての、家令の仕事を放置して、こんなところにいるわけではなかった。
これには、ひとことでは説明できないような理由があった。
2
エマたちに見抜かれているとおり、テディ・バートラムは、不機嫌だった。
ダチェット伯オーガスト・スタンレー卿が溺愛する妹リルを、ついに妻としたテディではあったが、諸般の事情により、一年近くの間、新婚旅行には出かけずじまいだった。
だが、やっと決意し、テディは数か月にわたる旅行を計画して、それを実行に移した。
結婚してロンドンに移り住むまで、伯爵の領地にある館アンテソープから一歩も出たことのなかったリルは、生まれて初めての旅行を、とてつもなく楽しみにしていて、まさに狂喜乱舞といった様子だったから、テディも、旅に踏み切った甲斐があったというものだった。
そして、旅は順調に滑り出した。
そもそもがテディ・バートラムは、その仕事柄ひどく旅慣れた男だったし、今回は、とある成り行きで、ダチェット伯の優秀な家令リック・キンドルをも伴っていたのだから、旅が順調であるのも当然と言えば当然。
なんの問題もなく、フランスの各地を通り、イタリアを巡り、つい数日前、ここマルタ島のヴァレッタへと到着したところだった。
アフリカへもインドへもつながる地中海交通の要所であるマルタは、イタリア半島からほど近いというのに、英領であるせいか、あちこちにひどく英国的な匂いが充満していた。
その点が鼻につき、やや退屈であるというのが、テディのマルタに対する第一印象だった。
けれども、別にそのせいで、機嫌を損ねているわけではない。
滞在ホテルに英国人が多いのは仕方がないことだし、ヴァレッタの城塞都市や港の絶景は、一見の価値はある。
カラヴァッジョの絵画も楽しみだ。
それに、エジプトに渡るにせよ、東に向かうにしても、リルにあまり長い移動はさせたくない。
そんな妻に一息入れさせるにも、都合がいい場所だった。
なのに、なぜ。
テディ・バートラムは、熊のような髭面を不機嫌にしかめ続けているというのか。
3
「テディったら、やっぱり先にお部屋に戻っていたのですね?」
ドアを開けて、リルが部屋へと入ってくる。
ふわふわと漂うように、金の巻毛とスカートのすそを揺らしながらテディに歩み寄ると、その大きな胸へと飛び込んだ。
リルのちいさな身体を受け止めて、テディはゆっくりと長椅子に身をゆだねる。
テディとともに長椅子に横たわりながら、リルが夢中で話し始めた。
「あのね、わたし、さっき、下でお茶を頂いているときに、シカゴからいらしていたご婦人とお話したの」
「そのようだったね」と、テディが、曖昧に相槌を入れる。
ホテルのサロンの午後の茶会に招待され、リルとともに降りて行ったテディではあったが、そのあまりの退屈さに耐え切れず、ひとり、さっさと部屋へ引き上げてしまったところだった。
無論、リルを連れて戻りたかった。
だがリルは、アメリカ訛りの中年婦人とすっかり話し込んでおり、その邪魔をするのもためらわれたのだ。
「テディ、聞いてください、となりのゴゾ島には、とってもきれいな景色がたくさんで素敵だって教えてくださったわ、大昔の大きな石の遺跡とか。それに、マーケットでは、変わった蜂蜜やガラス細工があるって」
テディの胸に子猫のようにじゃれついて、息もつかずにリルはまくし立てる。
「ああ、ゴゾも見所は多いからね……オデュッセウスが妖精に閉じ込められたという洞窟もあるし」
テディは、どこか上の空にこう応じた。
さすがのリルも、夫の様子がいつもと少々違うことに気が付く。
「テディ、どうかしましたか?」
そして、熊めいた頬髯へ指を伸ばして、そっとくすぐりながら大きなサファイアの瞳を瞬かせた。
「……わたし、お喋りがすぎますか?」
テディは、ちいさく微笑むと、ゆっくり首を横に振る。
そして、髭をくすぐっているリルの桜貝の指先を掴んで、そっと口づけた。
さらに、テディは、何度も何度も、可憐な妻の爪を、そして指をついばみ、舌先でくすぐり、口に含んで甘噛みする。
リルが戸惑うように溜息を洩らした。
妻のベリーのようなみずみずしいくちびるへと、テディの親指が伸びる。
テディは、その親指をリルの口内へ、ゆっくりと侵入させる。
リルの身体から、くたりと力が抜けた。
しどけなく長椅子に横たわるリルの上に、テディは覆いかぶさる。
と、その刹那、奥の続き部屋のドアが開いた。
「バートラム様、今晩のディナーは、八時からで宜しいですか?」
言いながら、リック・キンドルが足早に入ってくる。
数歩歩いたところで、リックは、テディが長椅子の上で、その巨体を屈めるようにしてうずくまっている姿を目にした。
……その下に、可憐な妖精妻が横たわっているのも。
自らの登場の間の悪さに、心中では激しく戸惑ったものの、それを顔に出さない程度の厚かましさを、リックとて、有していないわけではない。
無表情を崩さぬまま、リックはテディの指示を待って直立する。
テディ・バートラムその人もまた、その程度のことで、どうのこうのと狼狽する男ではなかった。
不機嫌に顔をしかめながらも、悠々とリックを振り返る。
「ああ、八時で構わないとも、キンドル君、よろしく頼むよ」
そして、そっとリルの身体を抱き起し、テディは、深々と溜息を洩らした。
4
『熊』の不機嫌。
その理由はというと。
リック・キンドルが、テディ・バートラム夫妻の新婚旅行に同行しているいきさつとくらべれば、もう、これは至極簡単な話だった。
ロンドンを出発した日から、リルはとにかく、旅行に夢中だった。
友達もおらず、日々、ダチェットの館の読書室の本たちを相手に無聊を慰めるしかなかった。
そんな少女時代を過ごしていたリルだ。
ただ読むことしかできなかった海の外の国々を、この目で見られるとあっては、興奮しない方がおかしい。
リルにとっては、もう、何もかもが素晴らしかった。
ドーバーに向かう列車に乗り込むことですら、リルの鼓動をウィンナーワルツのリズムで躍らせほどだ。
同じく初めて、外国へと出かけるメイドのエマとのはしゃぎようは尋常ではなく、カレー行きのフェリーの吹きさらしのデッキで、手すりに身を乗り出し、小鳥のようにさえずり続けているふたりを船内に連れ戻すのに、テディは、ほとほと手を焼いた。
身体も弱く旅慣れない妻の身体が気遣わしく、寝台車の長旅など、決してさせたくはなかったから、テディは、各地の見物がてら、移動の最中も頻繁に宿を取っていた。
無論、その判断は、基本的には間違ってはいなかった。
新たな刺激の数々に、毎日、リルはすっかり興奮しきってしまい、こまめな休息が必須となったからだ。
ともかく、そんな様子だったから、毎晩、宿に着くなり、リルは糸の切れた操り人形のように、ことりと寝入ってしまう。
そして、数日の滞在で、リルの気持ちと体調がすこし落ち着きをみせる頃には、もう、次の場所への移動に掛からねばならないといった具合で、これまで旅は進んできた。
と、そんなこんなで。
「新婚旅行」であるというのに、テディが妻と「ロマンティックな時を過ごす」ことができた夜というのは、出発してから今までで、ほんの数えるほどしかなかった。
比較的ゆったりと滞在できたパリで数回。
ただし、この街にも刺激があまりに多すぎて、リルは日中にエネルギーを使い果たしてしまうことがほとんどだったのだが……。
イタリアへと移っても、幸運の女神は、テディに微笑まなかった。
リルは、ちょうどシーズンであったオペラに、すっかりのめり込んでしまい、夜は歌劇場へと足しげく通う羽目になってしまったからだ。
あとは。
ゴンドラでのくちづけで、やっと妻の身体に火をともすことができたベネチアでの一夜。
これまでのところ、本当に、そんなものだったのだ。
テディとしては、物見遊山などよりは、愛する可憐な妖精妻を、思う存分に可愛がることの方を楽しみにしていた旅であった。
ここマルタ島で、この不憫な熊の不機嫌が頂点に達してしまったとて、それは無理からぬことというわけなのだ。
この後、旅程では、アルジェやエジプトを回ることになっていた。
そうなれば、そのあまりのエキゾティックさに、リルがますます夢中になってしまうに違いない。
状況は好転するどころか、むしろ……。
などと。
こんなことを考えるだに、熊の憂鬱は、一層、募るばかりだった。
5
「いいや、リル。俺は今日は一日、ゆっくりしていたいね」
無精にも、部屋に運ばせた遅い朝食をしたためながら、テディは、きっぱりとこう言った。
その恰好はといえば、ガウンの下に、シャツとスラックスしか身に着けておらず、もう昼近いというのに、タイもせず、髪もなでつけてはいなかった。
つまりは「午後も、このままずっと、部屋から出る気はない」と。
まあ、そういうことなのだろう……。
傍で空気のように控えていたリック・キンドルは、テディの意図するところを、敏感にもそう解釈した。
「まだまだ、旅は先が長いよ、リル。君もここらで、すこし休息するべきだ。ラムラベイもイムディも、青の洞窟も逃げていきはしないからね」
「テディ、わたしはとても元気です」
ねだるようにすねるように、リルが言う。
だがテディは、手にした新聞に目を落としたまま、ゆっくりと首を横に振った。
「元気でなくなってから休んでも遅いんだ、リル。それに……」
テディが、意味ありげに間を置く。
リルが不思議がって、ちいさく首を傾げた。
テディ・バートラムは、新聞から視線を上げてリルを見つめると、その黒目がちな焦茶の目を茶目っ気たっぷりにきらめかせて、こう続けた。
「これまでずっと、俺たちの面倒を見てくれている健気なエマとキンドル君に、休息を与えてもいい頃だと思わないかい? 彼らだって自由な時間に羽を伸ばしたいだろうさ」
「旦那様、別に、わたしは……」
思わず、こう言い返したエマのスカートを、リックが軽く引っ張った。
そして「要は、『熊』は僕たちが邪魔だって言いたいのさ」と、エマに耳打ちする。
すると、テディが、常の陽気な歌うような調子で、「ときに、キンドル君」呼び掛けた。
「何でございましょう、バートラム様」
「君は、自動車の運転はできたかい?」
「ええ、まあ」
「湾沿いの道は、なかなかに運転しやすい良い道だよ。ちょうど車を手配していたところだし、今日は好きに使うがいい」
「でも、旦那様」
エマが遠慮がちに口を挟む。
と、リルがふわりと立ち上がり、エマへ歩み寄った。
そして、その華奢な指先でエマの手を取る。
「そうだわ、エマ、あなたにはずっとお休みがなかったんだわ。ごめんなさい。わたしったら、旅行に夢中でちっとも気づかなかったの」
「とんでもないことでございます、奥様。どうぞ、そんなことはお気になさらないでくださいませ……」
この旅行中、エマには、リルの身の回りの世話をする以外の仕事はまったくなかった。
メイフェアの邸にいるときにしていたような家周りの仕事は、ホテルのメイドたちがやってくれる。
その上、奥様のお供で、毎日、色々なところに連れて行ってもらえるなんて……。
そんな毎日には、仕事をしているなどという感覚はまるでなく、エマは本当に、休みが欲しいなどとは考えたこともなかった。
だがリルは、「だめよ、そんなの」と、エマに首を振ってみせる。
そして、リックへと向き直ると、綿菓子のようにはかなく甘い笑顔を向ける。
「ああ、キンドルさんも、ごめんなさい。今日は、どうぞゆっくりしていらしてね?」
「リリアン様、お心遣いに感謝いたします」
リックは胸に手を当て、慇懃に目礼をする。
そして、エマに視線を向けると、こう続けた。
「では、お言葉に甘えて、出かけてこよう? エマ」
それ以上、エマにも断る理由はなかった。
差し出されたリックの手に、エマは、ためらいながらも右手を載せる。
そうやって、エマとリックが部屋を出て行くや否や、テディは手にした新聞を投げ捨て、すかさずリルを抱き上げた。
「テディ……?!」
リルは驚いて夫の背中にしがみつく。
そんな可憐な妖精妻を、テディは軽々と片腕で持ち上げ、寝室へと運んで行く。
寝室のドアを後手で閉めると、テディは、リルをベッドの上へとそっと横たえた。
そして、ガウンを脱ぎ捨てながら、ひどく切なげな震える溜息を吐き出した。