異形殺しと変異のテラー
怪物が踊る。炎の中で踊る。瓦礫の中から這い出した大輔の目に映ったのは、奇妙な風景だった。蝿の頭をしたサラリーマンが踊る。身体中から花を咲かせた女が踊る。鉄串でハリネズミになった幼児が踊る。倒壊したビルの中、閉じ込められたフロアで、怪物が踊る、踊る。
腹を押し潰され、自身の血溜りに浸かりながら、大輔はぼんやりとそれを見ていた。身体中から奇妙なトゲを生やした男が近づいてきて、「なあお前も来いよ」と楽しげに言う。
無理いうな。もう、しぬ。
答えたはずの言葉は音にならずにひゅうひゅうと喉を鳴らす。「そうかよ、残念だな」と男がまた楽しげに笑い、顔を近づけた。怪物達は死に掛けの大輔を一斉に見た。無数の眼球が、かろうじて人間の形を保った皮の下から飢えた目で、見た。
死ぬ。もう、死ぬ。はっきりわかる。自分の死が、手に取るように近い。死にたくないという思い、後悔も恐怖も焦りも、何故か、ない。このまま、死ぬ。大輔は、はっきりと眼前の死の気配を嗅いでいた。それが、手を伸ばしてくるようだ。
大量出血で体温の下がり続ける身体が、寒いと言う。朦朧となった意識の中で、どうして、こうなったのかと思う。
死が、その冷たい腕で大輔を抱く前に、あの怪物達に喰われてしまうかもしれない。大輔はゆっくりと近づいてくる怪物達を見上げ、ごぼりと一回血を吐いた。一度吐いてしまえば何度でも、血は喉の奥から逆流してきた。大輔は咳き込み、何度も吐いた。
血溜りが広がってゆく。怪物達が大輔を囲む。見えなくなっていく目で、必死にそれらを見あげた。死にたくない、とまた頭が言う。ひゅうひゅうとまた喉が鳴って、ぐぼりと一度血を吐き、もがく大輔の頭に、腕に、体に、怪物達の腕が伸びた。園児の小さな腕が、大輔の肉にぐじゅりと喰いこんだ。次々に人の腕が、異形の手が、大輔を、むしり始めた。
高村大輔は、そうやって死んだ。彼以外にもその日、大勢が死んだ。
繁華街の一角でビルが二軒並んで倒壊した。
週末、映画館の入った大型ビルで、上フロアの飲食店街と映画館のあったそこが埋まり、多くの犠牲者が出た。収容された死体は46人、行方不明者は75人に上る。
ミステリーはそこから始まった。行方不明者の多くはその後救出活動の末に、瓦礫に押しつぶされ、悲惨な遺体として出てきた。だが、未だ見つからないはずの行方不明者の遺体が5日後、他のビルの屋上で二体見つかった。7日後に数キロ離れた河川敷で一体。二週間後に、数百キロ以上離れた他県で三体。
いずれもひどく損壊しており、どのように遺体が運ばれたのかは不明だった。ただ、遺体に共通して奇妙な現象が起きていた。その遺体はいずれも、当たり前だが死んでから日数がたっていた。だが、腐敗は進行しておらず、たった今死んだかのように瑞々しい血を撒き散らしていたのだった。
ニュースでもネットでも、今一番ホットな話題だ。多分、一週間か二週間ぐらいは話題が続くかもしれない。その間に新しい殺人鬼がデビューでもするか、もっと悲惨な事故が起こらない限りは。
吉村浩二はくわえていたタバコを道路に投げ捨てると、靴底で踏みにじった。繁華街、路地裏。倒壊したビルの周りには未だ立ち入り禁止のテープが張り巡らされ、ブルーシートで覆い隠されている。重機は見られるが作業員は今いないようだ。その代わりに、警官が二人周囲を警戒して立っているのが見える。
吉村は細い路地からじっとそこを見た。テープの前に多くの花束が置いてあった。やや遠慮がちにちかづくと、それらを手持ちのカメラで撮った。吉村の方を伺っていた警官達の前に行き、財布から一枚の名刺を出しす。
名刺には『週刊フラッシャー 記者 吉村浩二』と入っており、下には社名と連絡先がのっている。
「どうも、『週刊フラッシャー』なんですが」
「広報を通しなさい」
年かさの警官が、差し出された名刺を見て、眉をひそめた。受け取ってもらえない名刺を引っ込めると、吉村は頭をかいた。
「いやね? 今巷を探してる死体出現の謎ですよ。実は行方不明の人達は攫われて生きていたのでは、という声が最近大きくなってきましてね? 何が起こっているか知りたい方は大勢」
「馬鹿言いなさい、おたくんとこも、この当落事故にUFOだのなんだと言い出すのかね」
吉村の声をぴしゃりと警官が遮る。
「ははぁ、『現場』に忍び込もうとする人が多いってのは本当みたいですね。当日、一体そこで何が起きたのか」
「あまりうろつくならね、ブンヤさんでも引っ張れるんだよ」
剣呑な目つきになった彼に吉村はわかりましたと素直に下がった。元より、情報が得られるとも思えない。年かさの警官の後ろで、若い警官が吉村を見た。吉村は若い方の顔をちらりと見て、その場を足早に立ち去った。
吉村はフリーライターである。いくつかの雑誌に属していて、今はこの事件を追っている。現場から消えた被害者の遺体が、遠く離れたところに遺棄され続けるこの事件。被害者達の死因は事故だ。建物倒壊による圧死や生き埋めによるショック死等、なんら不審点はなく、現場に残された痕とも一致する。それだけに、何故死体を動かし、遺棄するのかがわからない。血をばらまくという猟奇的なデコレーションをするのも。何よりばらまかれた血液は、確かに本人の血なのだ。
表に出てくる情報、出てこない情報をかき集めても、わかるのはそんなところだ。被害者が亡くなった後、遺体を奪取し、注射器で血液を吸出し、保存する。離れたところに遺棄し、破損箇所や傷口に改めて血液を塗布する。もしも本当にそんな事をやる犯人がいるのだとしたら、相当の猟奇犯罪者だ。
そもそも、現場は倒壊したために救助隊が現場突入までに時間がかかっている。4時間以上はたっている筈だ。その間、瓦礫で封鎖されていた。そこからどうやって多数の遺体を? 75人。相当な数だ。トラック一台で足りるだろうか?
トラックの積載量を計算し始め、吉村はいささかグロテスクな考えを振り払った。冷凍便のトラックに、75体の遺体をびっしりと詰め込むのは可能だろう。だが、状況がそれを許さない。倒壊したビルはずっとマスコミに囲まれていたし、とても近づけるものではなく、そこから逃れて大量の物資を運び出せるような穴はなかったはずだ。吉村自身、現場近くに詰めていたのだからそれは断言できる。
巷で流布するのはUFOによる誘拐、カルト教団のテロ、おぞましい魔術による使者蘇生と言ったおとぎ話ばかりだ。現実味の有る説はまだ、ない。
ビルの中に忍び込もうとする者が多いのも事実だろう。悪魔崇拝教団の儀式の痕があるとか、死者がまだ中でさまよっているのではないかとか、そういった与太に踊らされた阿呆が何人も警察に摘み出され、ついでに檻の中にブチこまれた。
『現場』の中には何もなかった。数日前、吉村自身、人には言えぬ手段で中に入った。無論、無断進入であり、見つかったら逮捕されていたことだろう。幸い、見つからなかった。
被害者の遺体もできるだけ回収され、瓦礫も多くは撤去され、あとは解体を待つだけだ。怪しげな儀式も、ゾンビも何もなかった。ただ、血の這いずった痕が、妙に多く感じられた。
被害者はほぼ皆倒壊時に生き埋めとなり、這いずり回って助けを呼べる状態の者はなかったはずだ。何かがあることだけは確かだった。
手帳を開き、いくつかメモする。確信はなくとも、予兆はあった。まだ、この事件は続いている、と。
夜半、夜明も遠くない刻限。光の大半が消えた街の片隅で、道路工事による迂回路指示の為、立ち続けていた警備員は、道の向こうから歩いてくる人影を見た。
道路の真ん中を歩いてくるのは、女性と子供だった。秋も過ぎ、冷え込んでくるこの深夜に、二人は夏の薄着でふらつきながら近寄ってきた。子供は手を引かれるままに下を見ながら、女性は酒にでも酔っているのかふらついた足で。親子連れだろうか。
警備員は、尋常ではない様子の二人に声をかけた。
「どうしましたか、気分でも悪いですか? ここを歩いていては危ないです、ひとまず歩道へ」
歩道へ誘導しようとした警備員を見て、女は小さな声でたすけて、と言った。
「え?」
「たすけて」
「大丈夫ですか、お酒を飲んでるんですか?」
「たすけて」
顔を上げた女が、警備員に手を伸ばす。その両眼から、みるみるうちに血が流れ出した。声が不明瞭になり、鼻から、耳から、血が溢れ出す。子供と繋いでいない方の手を伸ばし、もう一度「たすけて」と囁いた。警備員が女の身体を抱きとめる。その身体は驚くほど冷たかった。
「たすけて、この子が……」
痙攣でもしているようにカクンカクンと奇妙に身体を揺らし、女はそう繰り返した。警備員は腕の中で踊る女の身体を抱えながら、女と手を繋いだままの子供を見た。小学生になるかならないかぐらいの小さな少年だった。表情なく下を向いていた少年の首が90度横に捩れた。ごきっと骨の音がした。
瞼の中で、見開いた眼球がぎゅるぎゅると高速で動き出した。四方八方をぎょろぎょろと目が見ている。目は異常な動きを繰り返したのちに、警備員を見た。警備員は、何か声を出そうとした。腕の中の女はもう動かない。それどころか、どんどんと軽くなっていく。繋いでいる二人の手を見る。それは、繋がっていた。女の手と、少年の手。握り合っているはずの手は溶け合い、肉の瘤のように奇妙に盛り上がっていた。
「ひィ……っ」
肉の瘤がぴくぴくぴくと蠢く。女の身体、皮の下で何かが蠢きながら、繋がった手を通して少年の身体に移っていく。皮の下から肉が、内臓が、骨が、少年の中に流れ込んでいくようだった。女はどんどんと軽く、薄くなっていく。身体の厚みが失われ、くにゃりとした何かになっていく。その代わりに、少年の身体が膨れ上がってきた。小さな頭がぼこりと膨れ上がり、顔はぱんぱんに膨らんで、少年の顔立ちは肉に埋もれていく。腕が奇妙に膨らみ、腹が飛び出し、背中から肉塊がいくつも飛び出す。皮を突き破って育っていく肉の腫瘍。その先端がいくつか枝分かれし、五本の指が生え、皮膚から飛び出した骨が、筋肉が、形を露にする。腕が生えた。足が、腹から生える。子供の膨れ上がった水死体のような顔の上、こめかみに、もう一つ顔が浮かぶ。それは、今なお警備員が抱える女の残骸よりも、女によく似ていた。顔がつぶやいた。「たすけて」
警備員は叫ぼうとした。おぞましい何かから逃れようと。彼が息を吸い込んだ瞬間。膨れ上がった子供の顔が裂け、箱の蓋が開くように、顔の上半分が分離するほどに大きく口が開き、閉じた。
一瞬で顔面の皮膚を食いちぎられた警備員は「あ」と言った。むき出しになった顔面の筋肉からぶつぶつと赤い玉が浮かび、次の瞬間血が吹き上がる。もう一度子供が口を開く。警備員の顔が、引き千切られた。紺の制服を着た身体が奇妙に痙攣した。まるで、先ほどの女のように。
ぺらぺらの女の皮を抱えたまま、身体が何度も痙攣する。咀嚼音が響く。その度に、アスファルトに染みが飛び、周囲を汚した。
数秒だったのか、それとも数十秒だったのか。『食事』はあっという間に終わり、少年だった何かはしゃがみこみ、染みの広がったアスファルトの表面を熱心に嘗め回し始める。びちゃべちゃべちゃりと浅ましい音を響かせて、怪物はアスファルトを舐め続け、ほどなくしてから立ち上がった。道路工事を行っている、作業員達のほうにゆっくり歩き出す。その片手からは、女であった薄い皮の塊が、くちゃりとまるまりながら引きずられていった。
「警備員と作業員行方不明、なんらかの事件に巻き込まれた疑い……物騒な世の中になってるもんだね」
手元の新聞見出しを読み上げ、吉村は傍らの男に笑いかけた。男は、ぼさぼさの髭を手のひらで擦り、「俺らんとこに近いだろ? 気になってよう」と言った。ホームレスである。
駅はずれの一角にあるテント村、そこに住み着いたホームレスの一人だ。吉村とは旧知の仲であり、彼の情報源のひとつでもあった。
「気になるだけじゃ俺に連絡くれないだろう。なんかあったんだろ、田中さん」
「俺らんところの若いのがよお。変なの見たって。朝方に化けもんが歩いてたっていうんだよ。白くぶくぶくに膨れた気持ちの悪い奴だったって」
「それ、この事件のあった日か」
「そうな。歩いてたのはこっちの裏通りで、手に何か引きずってたって。ゴミ袋みたいなもん。朝だったって」
「その人って、話聞ける?」
「それも話の一つなんだ。ほら、あんたが調べてるビル倒壊事件の日。そいつらな、あの日に転がり込んできたんだが。頭がコレだ。完璧にイカれてる。だから、聞いても無駄かもだけどな」
田中は、頭の横でぐるぐると指を回した。
「そいつら?」
「二人いんよ」
「ありがとう。その人達のテントどこかな」
田中の手に折りたたんだ札を一枚握らせると、吉村はテント村を見渡した。田中が汚れた顔に笑いを浮かべて奥を指差す。ダンボールが折り重なったゴミ山にも似たそこに吉村は近づく。中で咳込む音がした。
「こんにちは」
「……」
声をかけると、息を呑む音がした。
「怪しいもんじゃありません。ちょっとね、お話を聞きたくてね。いいですか」
「……誰だ」
「週刊誌のライターです。変なもの見かけた人ですか? それのね? 詳しいお話とか聞けないかなあって」
しばし間があり、それから手がダンボールの中からひらりと招いた。来い、ということか。吉村がダンボールの入口をくぐると、中は意外にも広く、隙間から光がさしこんでいた。
男が座っていた。据えた臭いがする。汗や体臭やタバコや……獣臭い匂い。男は薄暗いダンボールハウスの中で、妙にぎらぎらと光る目を吉村に向けた。
「あんた、記者だって」
「そうです。吉村と申します。朝方に何か見られたとか」
「……」
「化け物、だったとか」
「……」
「その前の日に、道路工事してたところで、人が何人も行方不明になっちゃったらしいんですよね。それと関係有るとかないとか」
「死人だ」
「え?」
「死人が歩いていた」
男は、熱に浮かされたように早口で言った。
「ぶくぶくの、あれは水死体だ、水吸うとああなるんだ、子供の頃、友達が川に流されて、ダムのとこで見つかったよ、俺さがしにいったんだ。ああやって、白く、ぶくぶくに膨れるんだ。顔なんか、膨れてわからない。ゴミ袋みたいなのをぶらさげて、それをずるずる引きずって、歩いていた。あれ、死人だよ、なあ、わかるかな、わからないだろうなあー」
「は、はあ。あの、貴方は、○○県○○市で起きた、ビルの当落事故があった日にこちらにこられたんですよね。前はどちらに」
「地獄」
「……」
「俺ね、地獄見てね。もう逃げて来てね。ああ、怖いよなあ、同じなんだよなあ、朝歩いてたのと。皆死んだのにね、何故か動いててね、一緒に行こうとか言って、俺恐くてね。すごく怖い。あれ、ああいうの、追いかけてくるのかなあ、ああ怖い怖いこわいこわいこわいこわい」
常軌を逸脱した男の言動に、吉村は顔を顰めた。これでは電波だ。後ろで、小さな咳が聞こえた。振り向くと、ダンボールの中に埋もれるように、誰かが寝ていた。
「どうした、苦しいのか、どうした」
男が吉村の身体を押しのけて、布団に近づく。上にかぶせてあるダンボールをめくると、血臭がした。生臭い匂いの一つは、間違いなくこれが発生源だろう。また咳。男は布団を撫で、大丈夫だと繰り返した。
「あの、その人大丈夫ですか。何か怪我でも」
「心配ない、こいつはもう心配ない。だいじょうぶ、大丈夫なんだ。だってこいつはもう死んでるから」
また咳。生きてるじゃねえかよ。そんな言葉を吉村は飲み込んだ。
「こいつがいるからだいじょうぶ、大丈夫大丈夫だいじょうぶ俺はだいじょうぶ」
そのうちに壊れたテープのようにそれしかしゃべらなくなった男は、吉村の声に全く反応しなくなった。ダンボールを布団の上にかけなおして、だいじょうぶ、だいじょうぶと呟くだけだ。閉口して、吉村はダンボールハウスから出た。離れたところでタバコを吸っていた田中に、「無理だありゃ」と肩をすくめると、田中がゲラゲラと笑った。
「もう一人いて、怪我してるみたいだけど」
「ああ、ずーっと寝てて、病人みたいだな。顔見たことないけど、あいつが世話しててな、最初こっちに来たとき、おせっかいな奴らが心配して様子見に行ったんだけどよ。おかしい調子で怒鳴って追い返されて、それから誰も近づかないよ」
「こいつはもう死んでるっていってたわ。生きてたけど」
「俺はもう死んでる、とかもよく言うぜ。その割には飯食ったりしてるけどな」
「たしかにアレだなあ」
「アレだろ。朝歩いてた化け物、ってのも何見たんだかなあ」
「最近、行方不明者の数が大幅に上がってるんだわ」
「あん?」
「こういうところに来てる人も多いし、違う場所に逃げ出した人もいるだろうし、樹海に行っちゃった人とか崖の上から飛び降りちゃった人もいるだろうな。それ以外の人はどこに行ったんだろうねえ?」
「わかんねえよそんなもん」
「だよなあ、わかんねえよなあ」
吉村は自分もポケットからタバコを取り出すと、一本咥えた。ライターを擦ると火が小さく揺らめいて、タバコの先端を焼いていく。テント村の奥に目を向ける。また小さな咳が聞こえた気がした。
子供が歩いている。駅前を歩いている。ふらふらと、一人で歩いている。手にはくしゃりと丸まった、ゴミ袋かなにか、ビニールの塊。
子供はふらりふらりと歩いていたが、やがてテント村の入口までやってきた。夢見るような足取りで、ゆるゆると奥へ歩いていく。ずるずるとビニール袋が引きずられる。
突き当たりに積み上げられたダンボールハウスの中に、子供は顔を突っ込んだ。その身体が、中から飛び出してきた足に蹴り飛ばされた。子供の小さな身体は、簡単に吹っ飛んで、地面にバウンドした。男が、ダンボールハウスから飛び出す。背には、荷物のように縛られた、布団。
男は子供を見ずに走り出した。テント村の男達が、何だ何だと顔を覗かせたときにはもう後姿しか見えない。子供は顔に土をつけたまま、何事もなかったようにふわふわとした足取りで追いかけ始めた。ゴミ袋がかしゃかしゃと地面に擦れる。
男はただひたすらに走っていた。背中の荷物が重い。だけど、置いていけない。これは彼の生命線だった。少なくとも、彼はそう信じていた。
走る。心臓が破れそうだ。だが走る。後ろからは子供。白い子供。手にもったビニール袋が鳴る。あれは本当にビニール袋だろうか。あれはこわい。あれは死人。あれは水死体。あれは地獄。
男の脳裏に、早朝歩いていた死人の姿が浮かぶ。周りの男達に話したが、誰も取り合わなかった。いや、一人だけ彼の話を聞いた。田中という男だ。そのあとにもう一人聞きに来た。誰だったか。ああ、地獄だ。あそこから逃げたのに。背中が重い。でもこれを捨てたら駄目だ。これが地獄で唯一大丈夫なものだ。小さな咳が聞こえる。流れ続ける血の音が聞こえる。ゆるやかな鼓動が聞こえる。
男は必死に逃げるあまり、暗がりへ、暗がりへと進んでいた。街頭の明かりが途絶えた路地裏。男の頭上から、何かが振ってきて男の頭をアスファルトに叩きつけた。
「ふぁ」
男は呻き、折れた歯で口中を真っ赤に染めながら、声を上げた。男の上から降ってきたのは、子供だった。子供は男を見た。眼球が、ぎょろぎょろと動いていた。
「タスケテ」
女の声だった。子供の唇から聞こえたのは、女の声。子供の小さな手が、男の手を掴む。
「嫌だっいやだいやだいやだああ!!!!」
喚く男は、手を振り回し、子供の手を離そうとした。子供は微動だにせず、また「タスケテ」と言った。
「コノ子ガわたしかラはなれない助けテ」
奇妙な抑揚で子供は女の声色を真似する。小さな顔がみるみるうちに膨れ上がっていく。身体の中からボコボコと何かが湧き上がってくる。「こノ子私をタベてるの助けテ、痛い、痛いいたいたい! 熱い! 助けテお母さン!!」
途中から声には感情が入り始める。膨れ上がった醜い顔の上に女の顔が浮かび上がる。顔は苦痛で歪み、叫んでいた。
「いやっ! 怪物が! 怪物が! こんなとこで死ぬのは嫌ァア!!」
「助けテコノ子助ケテ」
「うう、うわ、あああ……っ!!」
女の顔が死にたくないと叫び、子供の顔がタスケテと言い、手をつかまれている男はただそれを振り払おうと馬鹿みたいに腕を振り回したが、子供の手はぴったりと男の手に張り付き、どうしても取れない。振りほどけない。背からずり落ちた布団がアスファルトに落ち、そこから人が転がり落ちていた。人だった。全身が裂け、筋肉が、骨が、肉の断面が、組織が、癒えぬ傷を晒していた。引き千切られたような無残な断面から、真っ赤な血がゆるやかに流れ続けていた。それは小さく咳き込んだが、白い顔は生きているものの顔色ではなかった。
「ひっひぃいいいい!!」
男が絶叫する。手を振り上げ、そのまま子供から逃れようと、暴れ、膨れ上がった白い身体を押しやろうとした。ビシャリと体液が弾けた。男の手に張り付いていた子供の手が、手首から切り離された。男の身体が勢いあまって転がり、布団からはみ出して転がっている人にぶつかった。
子供は、膨れ上がった醜い顔に、不思議そうな表情を浮かべ、己の断ち切られた手首を見た。そこからは赤黒い液体が流れ出していた。
「いなくなった人は、どこにいったんだろうな」
後ろから声がする。子供は振り返った。奇妙な人影がいた。闇に溶け込みそうな真っ黒な人影。形は明瞭ではなく、輪郭がわずかに見えるのみ。人だった。だが、異形だった。身体の表面は硬い殻に覆われているようだった。それは例えば、SFに出てくるスペーススーツやパイロットスーツに似ていた。宇宙船の中で人を襲うクリーチャーに似ていた。子供番組に出てくる、特撮ヒーローに似ていた。その敵の怪人に似ていた。人に似ていた。そして、そのどれにも似ていなかった。黒い殻には赤い光が走り、それはゆるやかに明滅していた。目にも同じ光。奇妙な突起が身体を飾る。右腕は肥大し、熊の腕のように凶悪な鉤爪がついていた。その爪の先は赤黒い液体で濡れていた。
「タスけテ」
「助けてやりたいんだけどなあ」
子供はなおも不思議そうな顔をしたまま、のろのろと鈍重な動きでそいつに向き直った。跳ね上がった。巨体がではない。その口が一瞬にして裂け、箱の蓋が開くように開いた。そこから、人が跳ね上がった。膨れ上がった子供だったものが、ぺしゃりと潰れる。白い人影の手刀が、黒い人影に真っ直ぐ叩き込まれる。とっさに手を交差させた黒い人影はそのまま吹っ飛ばされた。けたたましい音を立てて、道にあったゴミ箱ごと転がる。
白い人影もまた、異形だった。ぬめる表面には無数の眼球があった。半透明の身体からは骨格が見えた。背中から一対、羽根のように手が生えていた。顔に目はなく、大きな口だけがあった。びっしりと人の歯が何重にも生えていて、ときおりカチカチと歯を鳴らす。
「タスケテコノ子ガ」
「おいおいおい、何人食ったんだ、それ」
黒い影は「卑怯だろう」と呑気な声で言いながら起き上がり、横を向いてうんざりした声を出した。
「なんだよ、あんたもか。後ろのそいつもか? 誰か呼んでよけばよかったなこりゃ。全ては手遅れ、いつものこととはいえ、なんと、まあ」
転がっていた男が立ち上がり、震えながら彼等を見ていた。その顔は、巨大な蝿に似ていた。彼は痙攣し、ぶるぶると羽音を立てながら、手を閉じたり開いたりした。その足元に転がる人影は動かない。血だけはまだ、流れ続けている。異形が三体。白い怪物、黒い異形、蝿の頭をした男。そして、ただ転がる、死体のような何か。
動いたのは黒い影だった。白い怪物の懐に、一呼吸で飛び込む。羽根のように開いた背中の腕を、肥大化した鍵爪が薙いだ。つるりとした弾力を断ち切り、ブチブチと筋肉を断裂させ、骨を叩き割る。力任せに与えられた斬撃が、白から一本、腕を奪った。残りの腕が手を開いて黒を掴もうとする。手のひらには、無数のトゲが飛び出し、それは一瞬で伸び、獣の顎のようにガチリと上下から合わさった。だがそれより速く、黒は白の腹を蹴り、飛び退る。後ろを見ずに、飛び掛ってきた蝿男の胸を蹴り飛ばし、路地の壁を蹴って頭上に飛び上がった。
「今から十年ほど前にな、そいつは現れたんだと。ぐっちゃぐちゃに人を混ぜ込んだ、ひどい形してたらしいぜ」
白の脳天に振り下ろされた蹴りはかわされ、踵がアスファルトに深い穴を穿つ。同時に横合いから飛んできた白の蹴りを、黒は手で弾いた。爪に抉られた足から体液がほとばり、黒の甲殻にも白の粘膜にも跳ね上がる。
「次のは人型だったけど、頭からいっぱいいろんなもの生やしててな。包丁持って家族と近所を刺し殺しまくって撃ち殺されたんだと。どんどんどんどん、あとからあとから色々湧いてきて、んで、そのうちに安定したのが出てきて」
蝿が奇妙な音を立てて跳ねる。服が破れ、胸から、腹から、小さな足がわさわさと生え、胸から肋骨がせり出して羽音を何度も立てた。びぃいいいいんと鳴り響く音に、ゴミ箱から転がったペットボトルがいくつか弾けた。黒は蝿の延髄に蹴りを入れ、地面に引き倒した上から脊髄を踏み抜いた。骨の砕ける音がした。
「花粉症とかアレルギーってな、アレルギー物質が蓄積されて、一定容量を超えたらなっちまうもんなんだと。理由は未だにわからないが、俺は、それが世界に蔓延していて、ある日、何かちょっと後押しがあったら、越えちまう。そういうもんなんじゃないか、って思うんだ」
白の腕が黒を捉えた。掴まれた両肩口に、手のひらから飛び出した顎がしっかりと噛み付き、肉を抉った。黒の背がブロック塀に押し付けられ、そのまますりおろされるように横に引きずられた。苦痛の声は、出ない。黒は、赤い目で、白を見た。目のない顔。口が大きく開かれ、まるで口付けでもするように、黒の顔に近づく。口の中で歯が鳴る。大きく開かれ、真っ赤なその中に何重もの歯歯歯歯歯歯歯歯歯。
黒は肩を抉られたまま、首を勢いよく起こした。近づいてくる大口の中に、自分の額を叩き付ける。冠のように生えた黒の角が、白の咥内を抉った。
「ひーーぃ!! ヒギィいいいいいあああああああ!!!」
「46人死んで、75人いなくなって、24人殺した。3人ここにいる。まともな奴も、まともじゃない奴も、皆等しく同じ変異体なのに、何で殺し合いしてんだか」
肉を抉られたまま、黒は白の首目掛けて両腕を振るった。肥大した巨大な腕が、鉤爪が交差し、その頭を粉砕した。肉がバラバラに切り裂かれて、弾ける。歯が、無数の歯が、無数の歯が、ばら撒かれた。びくりと痙攣する身体にさらに爪がねじ込まれる。変形した内臓を貫き、肉を押しつぶし、爪が引かれる。切り裂かれた腹から臓物を緩やかに零し、白は空気が抜けるように崩れ落ちた。さらにその背に執拗に爪を下ろす。
小さな、咳が聞こえた。振り向く。蝿男が、布団の近くにいた。脊髄を踏み抜かれたのに、這いずり、そこまでたどり着いて、何かをしていた。蝿男が振り向く。手と口は、血に濡れていた。手には肉。何の肉?
黒は視線を降ろした。肉を抉られ、身体中から血を流し続ける、死体のような、何か。この場にいる、3人目。肉を咀嚼されながら、また、小さく咳をした。
「餌かお前は」
思わず黒はつっこむ。食べられていたのか。ずっと。ビル倒壊から、ずっと。怪物にならず、人にも戻らず、ただただ食べられていたのか。
蝿男は小さく「だいじょうぶだ、だいじょうぶだ」と小さく呟き続け、そいつの血だらけの身体を布団で包んだ。口にはまだ、肉の塊。黒は黙ってそれを見た。蝿男は小さく震えた。自分の命の終わりが、近いことを知っているかのように。
人が変態し、怪物化し、異形化する。変異体。そう呼ばれるようになったのはつい最近のこと。何故なるのか。原因はわからない。戻し方も、わからない。バラバラになった元素が再構築されるように、理不尽に、不条理に、残酷に、人はある日変異する。その数は少ないはずだった。だが、緩やかな上昇線は上へ上へと上り続ける。
変異した後も、意識を残す者が出た。そいつはもう死んだが、あとに続く者が出た。何人も倒れた。だが、何人も続いた。意識も人格も全て手放して怪物化した人を、彼等はひっそりと狩り、闇に沈めた。彼等にはそれが出来た。彼等は倒れたが、今なおも続く者がいる。怪物同士の同士討ち、共食いだ。
彼等を敵対視する組織も現れた。変異体を追う者もいる。変異体を集め、武力と成そうとする者たちも。それでもなお、彼等は歩みを止めない。狩人達は、今なお、闇の中で不条理を狩り続ける。今ここにいる、黒のように。正義の味方ではない。子供のヒーローでもない。ただの、怪物だ。怪物を狩る、怪物だ。
それでいい。黒はゆっくりと近づいた。蝿男が震える。喰らってきた肉を大事なもののようにかき抱き、黒を見上げた。逃げない。逃げ切れないと、知っているのだろうか。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだいじょうぶ、だいじょうぶ」
「大丈夫じゃねえけどな」
「だって生きてない、生きてない、これは死んでる、だいj」
呪文のように唱えていた言葉が、ふいに止んだ。ずるりと、蝿男は崩れ落ちた。首から、真っ赤な血が噴出した。白とは違う人の血。血まみれの顔が、蝿男の首筋に食らい付いていた。強靭な顎が、首の半分を食いちぎった。ブチンと音がして、かくんと蝿男の頭が横に垂れた。首筋に食らい付く男の血にまみれた顔はもう人のものではなく、黒に似た硬い殻に覆われた異形だった。赤黒い殻はなおも蝿の首筋に食らいつき、ついには首をねじ切った。黒の足元まで、人の血が跳ねる。赤黒が、黒を見た。やはり赤い目だった。表情のない、赤い目。
「よう」
「…………」
「言葉はわかるか。なんで餌になっていた。何故、抵抗しなかった。何で今、このタイミングで、『起きた』?」
「…………」
「お前が言葉の通じない奴なら、俺はもう一仕事しなきゃならん」
赤黒は、尚も動かなかった。蝿の頭を見て、それから黒に目線を戻した。
「おれ、は」
かすれた声が、喉からこぼれた。
「しんだんだ」
「何故、そいつと一緒に居た。大人しく、餌になっていた」
「死んでるから。おれは、しんでるから。しんでるなら、怪物にはならない、んだ……。しんでるのに、生きてるのは、おれが、かいぶつじゃなくて、食料だから、だから、おれは、かいぶつにならないはずで……かいぶつじゃないおれを食えば、自分もかいぶつにはならないって、……」
「蝿男とお前の妄想だよ。もうお前等はなってたんだよ。ビルから逃げ出した時に。いや、ビルが崩落した時に、か」
「…………」
「何故、そいつを殺した?」
「怪物になったから」
「殺してくれって、言われてたのか」
「…………でも、おれも、もう怪物だ……」
「死にたいか?」
「……わからない」
「来るか?」
「……?」
「言葉が残っているなら、連れて行ってやる。怪物にも、仕事はあるんだよ。それをやってりゃ、人らしさが残るって、信じてる奴もいる。信じていない奴もいる。俺にゃわからん。だけど、やることがあるってのは、いいもんだ。きっと、お前が思っているよりも、俺達は随分と生き残っている。来るか」
黒い手が、伸ばされた。赤黒は呆けたようにその手を見た。
「仲間の中には、正義の味方気取って何とかライダーとか名乗ってるバカもいる。勝手にヒーロー名名乗ってな。そうしたきゃ、そうすりゃいい。したくなきゃ、しなければいい。怪物になった人を、殺すんだ。正義の味方でもなんでもない、汚れ仕事だ」
「…………」
「それでも死にたきゃ、その時に殺してやる。それに、どうせ、殺されなくてもそんなに寿命は長くない」
黒い手を、赤黒の硬い手が掴んだ。怪我をしているとは思えぬ力強さで、赤黒い甲殻の青年は簡単に引っ張り上げられる。陽光が、暗い夜を越えて、すぐそこまできていた。遠くから、朝の気配がした。
黒い手は、硬さを失い、肥大化した巨大さを失い、爪を失い、皮膚と骨と肉でできた人の手となっていく。くたびれたジャケットを着た、男の手だ。
「俺は吉村。吉村、浩二だ。名前は覚えてるか?」
「おれの名前は……」
高橋大輔だった青年は、かすれた声で、自分の名を呟いた。射してきた朝日の中で、キラキラと埃が舞い散る。二体の変容体は、そうして、光の中に消えた。