プロローグ 5
火炎に照らされた男は相変わらず、
人を食ったように長い八重歯を剥きだして笑う。
まるで、やってみせてみろ、
お前の力を試してみろといわんばかりに、楽しげに笑う。
サイクスは額に生えた角を怒りに震わせて、
最高潮に熱された拳を彼の心臓に目掛けて突きを放った。
白狼の左胸に拳が、ジューシーな音をと共に飲み込まれていく。
肉が焼ける香ばしい匂いを鼻腔を満たす。
通常の精神なら見るのも、聞くにも堪えない惨劇を妄想し、
彼は狂気し裂けた唇を引きつける。
ずぶりと、肋骨の浮き出る皮膚をパリパリに焼いたあとは、
肉をトロトロに溶かして、胸の中を鍋のようにかき混ぜてやれば、
メインディッシュは心臓はウェルダンを通り越した石炭のような小石が出来上がる。
眉なしに、恐怖と苦痛を与えてやろう。
柔らかで温かく鼓動する心筋が一瞬にして硬化し、その動きを掌の上で止めてしまう。
ぞくぞくと背筋を這う性欲に似た殺人快楽がサイクスの唇を
チェシャ猫のように耳まで裂けさせる。
隙間のない鮫の歯をギチギチと打ち鳴らす。
早く見せてくれ。
怯えろ、ほら、怯えろ、ほらほらほら、怯えろ、怯えろ。
沼のように深くよどんだ黒い瞳に渦巻く歓喜の時。
命の終わりを、それが掌から伝わる刹那を、心待ちにしていた。
しかし、狂ったように漏れる喘ぎと一緒に漏れる笑い声は、次第に小さくなっていく。
静かに、湖面に広がる波紋に似た違和感。
目の前の男は、つまらなそうに、サイクスを見下ろしている。
欠伸をこらえているのか、もごもごと、頬の中を動かし、
切れ長の目の端ににじんだ涙を、指ではらっていた。
サイクスは、口を広げて唖然とする。
怪人の表情の変化に気がついた処刑人は、
彼と目があうと、やはり軽薄な調子で馴れなれしく語りかけるのだ。
「 ん? 自己満足は終わったかい?
まぁ、いいや、もうすぐ終わるから、もうちょっち、遊んでろよ。 」
サイクスは、見えない何かに追われてきた恐怖よりも。
白狼と名乗った痩躯の男が処刑人だと気付いた恐怖よりも。
そして、彼が人生の中で経験してきた全ての恐怖よりも。
今、自分自身が体感している現実が恐ろしかった。
目の前の男は、何故、何も感じない。
痛みは?苦痛は?恐怖は?怯えは?
処刑人の左胸を貫いている拳に視線を落とせば、
怪人は愕然とした表情が絶望に染まるのを感じた。
彼の左胸を貫いているはずのサイクスの右腕は、
彼の左胸に入り込むどころか、
灼熱を超えた火炎をものともせずに、己の掌で受け止めていたのだ。
最初に感じた肉が焼ける感覚は、白狼の消し炭になりつつある掌だったのだ。
まさか、なんだ、この男、痛覚というものがないのか。
この状態でへらへらと笑い、
そしてなおかつ、俺の行為を付き合ってやったというのか。
そう、今の白狼の軽すぎる表情から読み取れる感情は、一つ。
退屈。
はしゃいでるガキに、しょうがなく付き合っているだけ。
サイクスは、理解しがたい不気味な状況から、逃れようとする。
白狼から距離をとるために、正面を向いたまま地につけた焼け焦げた靴底を滑らしていく。
白狼は、それを見逃さず、受け止めていた広い掌で、彼の拳を握りしめる。
熱線と光線に近い光がX線のように彼の骨格の形を浮きぼりにさせる。
「 は、離せ、離せよっ、離せぇえええええ! 」
「 はいはいはい、逃げないでねぇ。あと、もうちょっとだからねぇ~。 」
白狼は、医者に行くのを拒む、ぐずる子供をあやすように、
しかし、しっかりと握りしめた拳を離そうとしない。
自分の化け物の姿よりも、目の前の長髪の男の底知れない恐怖がサイクスを支配していく。
先ほどまで勝ち誇っていた炎の怪人の姿はそこになく、
情けなく足を震わせ、こぼれんばかりに見開いた黒い瞳で白狼から逃げようと必死になっていた。
口からこぼれる声は、悲鳴に近かった。
何よりも彼を焦らせたのは、白狼が何かを待っている様子だったこと。
そのために、敢えて自分の攻撃を受け、彼をこの場に引きとめていること。
サイクスの予測を遥かに上回る白狼の行動全てが彼を恐怖に突き落とした。
― ここで、終わる?馬鹿な。まさか。どうしてだ。俺は力を手に入れたじゃないか。
サイクスの沸騰した脳内で、めまぐるしく点滅するゲームオーバーの文字。
くそくそくそくそくそ、どうしてだ、どうしてだ。
逃げろ。逃げろ。逃げろ逃げろ逃げろ・・・ループする警告音は、これまで以上に鳴り響く。
「 あ? 」
何が起こったのか、サイクスには最初は理解ができなかった。
後方から左肩に、何かを撃ち込まれた。
余りに小さな痛みだったので、サイクスはそれを完全に理解することができなかった。
銃弾?
まさか。
自分のとりまく熱で銃弾が溶けたのは、すでに保安警備隊を巻いたときに実験済みだった。
だが、左肩から侵入した何かが、自分の体内で一瞬のうちに変化を起こしている。
小さな違和感が次第に大きくなる。
自分をとりまく灼熱が次第に弱まっていた。
血管に薬剤を流し込まれている。
点滴に似た感覚。
「 冷却液、冷たいじゃろ? 」
背後から、子供の声が聞こえた。
急速に体が冷え切り、炎どころか、吐く息は白くなっている。
冷たさで体の自由がうまくきかない。
ねじ巻き人形のように、ぎこちない動きで後ろを振り返る。
凍りついていく瞳のない視線を声の方向へと向ける。
白狼達が暴れまわっていた袋小路の少し離れた場所から、
眉なし男と同じ素材の黒皮のジャケットに、
ハーフパンツを着用した小柄な少年が小型自動拳銃を片手に現れた。
果実よりも鮮やかなオレンジに染められた髪の上にゴーグルをかけた少年は、
悪戯が成功したように無邪気に笑いかけた。
その無邪気さが、サイクスの心までも恐怖に凍りつかせていく。