プロローグ 3
自分の倍あるかと思うほどの長身、健康的に見えない痩躯。
光を吸収する黒皮のロングコートを素肌の上から羽織り、
重量感のあるシルバーで出来たチェーンが胸元で揺れている。
癖の強い亜麻色の髪は腰まで無造作に伸び、
何よりも異様な雰囲気を放つのはロングコートの隙間から見える男の左胸。
幾何学模様の民族調のタトゥーが男の肌にびっしりと埋められていた。
「 ま、いいや。俺も、ただ走るだけじゃつまらんし。 」
軽薄を顔に貼りつかせた男は、長い八重歯を剥き出しに笑う。
広い額には、眉毛がない。
どこか動物じみた顔した追跡者は一歩、また一歩と距離を縮めていく。
じりじりと、後ろに下がるものの、背が壁に当たる感触が彼の動きを止めた。
彼は、唾を地面に吐き出して、眉なしに低い唸り声を上げ威嚇し始める。
「 おー、おー、もう、人間さまの言葉も忘れたかい? 」
喉を鳴らして威嚇をあげる男に、
眉なしは、薄笑いを崩さずに男に問いかける。
「 さて、お仕事ってね。兄ちゃん、確認してやるから名乗りな。
まだ自分の名前を覚えているんだったらな。 」
眉なしは、男の神経を逆なでる挑発を軽い口調で言い放つ。
「 …俺に、名前なんかねぇ…。 」
ようやく、言葉を吐き出した男は、眉なし男の問いかけを拒絶する。
ぎりぎりと歯を噛み締める男は、長身の黒皮のコートの男に吐き捨てた。
そう、名前など、意味はない。
以前の自分にも、これからの自分にも。
確かに、親からつけられた名前もあった。
が、この地下都市で管理されるには全く意味のないものなのだ。
便宜上につけられた個体名など。
自分を特定するための認識番号が、ここで生きるには必要なものなのだ。
そんなものに、意味があるというのだろうか。
生まれたときから管理される。
耳に認識票をつけた食肉として飼われる家畜と一緒なのだ。
「 そうかい、じゃぁ、俺が当ててやんよ。
サイクス・アルビン。
性別男。年齢は二八。
…、お、見た目より若いな。
登録識別コードはEF―K80759。
発症してから、三日。
発症直後に同室の八人を素手で殺害。
収容区域からの逃亡。
えぇっとぉ、今日に至るまでに感染者、感染者予備群、保安警備小隊を十五人殺害。
そして、現在、物乞い男娼少年一人殺害未遂ってとこかぁ? 」
用意した科白を間違えないよう指おり数えて、
逃亡者の正体から、彼が三日間で体験した経緯を簡潔に淡々と語る眉なし男。
あまり知的に思えない目の前の男をにらみ続けるが、
最後の言葉にふとした疑問が沸き起こる。
眉なし男は、今、何て言った?
少年の殺害未遂?
馬鹿な、生きているはずがない。
動かなくなるまでリンチし、
最後には首の骨を折るという残虐な行為で
少年を痛めつけた記憶が右の足裏に生々しく残っている。
まさか、ありえない。
薄汚い男娼の少年が生きていたという事実が、
薄ら寒い不気味さを感じさせていく。
が、それは一瞬の迷いであった。
そんなことはありえないのだ。
この目の前でせせら笑う眉なし男が、動揺した隙に自分に飛びかかるに違いない。
サイクスは、腰を低く落としながら、無言で惑わされないと眉なし男に構えた。
眉なしに追い込まれている現状は、変わらない。
にやにやと、人を苛立たせる軽薄な笑みを浮かべる男をここで殺し、
またどこかへと走り出せばいいのだ。
先ほどまでの震えはもうない。
あるのは、体中の血が、細胞が、脳髄が求めている。
目の前の男を殺したい衝動が男の体内を駆け巡る。
靴底が擦り減ったスニーカーをアスファルトにこすりつける。
サイクスは長身の男へ、殴りかかろうと隙を窺っていた。
よく観察してみれば、
目の前の男は、身長は自分の頭二つ分ほどの高いものの、腕や足の細さが目立つ。
まるで、落ちぶれたメタルミュージシャンがチンピラに成り果てた雰囲気。
目に見える部分には、武器は手にしていない。
しかし、足元まであるロングコートの中に隠されているかもしれない自動拳銃の類を恐れ、
サイクスは飛びかかれずにいた。
睨みあいが数秒が続けば、痺れをきらしたかのように、
眉なしはサイクスに向かって、もう一度彼にとって意味のない名前を馬鹿にしたように呼ぶ。
「 俺の言ってること、間違ってないよなぁ。サイクス・アルビン? 」
「 …、その名前で呼ぶな。 」
サイクスの荒い呼吸音だけが響く、気味の悪い緑色の電灯が明滅する空間。
眉なしに、意味を持たない名前でよばれるたびに脳漿がチリチリと熱を帯びていく。
焦げ付いた匂いが鼻先を掠めた気がした。
体中の血管が沸騰していく感覚を覚える。
ふいに血流の沸点が急激に上がる。
体が熱い。
傷つけた指から、蒸気とともに熱された血が湧き上がる感覚。
怒り。
妬み。
恨み。
さまざまな陰の意識に囚われる。
へらへらと人を馬鹿にしたように笑いながら近づく男。
奴は自分が二八年間どんな思いで、
どんな人生を歩んできたかわかるはずもないのだ。
外の世界から、
傍観し、
汚いものを見るように、
ゴム手袋をつけて接し、
鎖を手にしていた人間には、
狩られる恐怖はわかるはずがない。
映画のような残酷な人生の結末と自分の未来を同じに考える奴などいるはずがないのだから。
「 いやぁ、名前があるって素敵じゃんかよ、
親からもらった名前大切にしなきゃ。
あぁ、俺?
白狼っていうのね。
健全なお付き合いっつーのはさ、名前で呼び合うことから始まるわけ。
なぁなぁ、聞いてる?
…、サイクス・アルビンさんよっ!! 」
聞かれてもいないのに、
自らを白狼と名乗った頭の中身が軽そうな男は、
わざと勘に触るように、更に男の名を呼ぶ。
湧き上る怒りの温度が、
サイクスの脳髄を焦がしていく。
じりじりと焼かれた血液が、鼻孔から溢れ出る。
どろり、とした血液は重力に逆らい、彼の頬をつたい、真っ赤にそまった額へと流れていく。
瞬間、彼の周囲に異変が起こった。
油とドロ水で汚れた壁が、朱を帯び始めたのだ。
急激に周囲の温度が上昇する。
白狼は、サイクスの変化に、子供が玩具を見つけたように顔を輝かせる。
が、焦げ付いた匂いが、白狼の鼻先を掠めると、
その表情を一変して細い目をいっそう細めた。
眉のない眉根を寄せる。
筋の通った高い鼻を親指で塞ぐと、臭ぇ、とだけ呟いた。
サイクスの周囲に、突如、炎が巻き起こった。
サイクス自身は体が炎に包まれたことへの驚きもなく、熱さに苦しむこともなかった。
鼻、目、口元からとめどなく湧き出る黒に近い体液を塞き止めようと熱された手で押えている。
溢れだした黒い液体はぷっくりと膨れあがり、
重力を無視して無数の小さな黒色の玉が宙へと浮き始めた。
朱色に染められた炎に触れると、血液の玉は、蒸発音を立てて一瞬にして消えていく。
そして、炎はより威力を増していくのだ。
その様を観察していた白狼は、黒い体液の正体に気がつく。
― 体液が、石油…、
燃料代わりってかい…?
…エコしてるねぇ。
短く刈り上げた額の両端の血管が異常に盛り上がり、皮膚を突き上げていく。
血管の中にカテーテルを通したような細い骨が、音を立てて皮膚を突き破る。
細い骨達は、絡み合い、突き上げ、天井へと向かい直角に折れ曲がる。
二本の角が彼の額に生えていた。
ガクガクと震える体を支える腕が長く伸び、
傷ついた爪が剥がれて新たな爪が再生していく。
しかし、人間の爪とは思えない鋭利な爪は、血の赤で染められていた。
白目が黒く染まると底なし沼のような暗い闇が広がっている。
サイクスの異常な変化を白狼は、その様子を怯むことなくただ見ているだけだった。
追い詰めた男の異変を、最後まで見届けるかのように。
急激に熱された周囲の温度は、
非常に高く、サイクスから沸き起こる熱波が、彼の長髪を静かに揺らす。
サイクスは、体の急激な変化が終わりに近づくと、
激痛で歪んだ顔も次第に落ち着きを取り戻していった。
既に白狼の目の前に立っている男は人の姿をしていなかった。
そこには、人間の姿を失くした怪人がスラムの袋小路を焼き尽くしながら佇んでいた。
「 名前を呼ぶなぁ…、俺は、もう、人じゃねぇ… 」
三日月のように裂けた口元から溢れる重厚な響きは、
怒りに震え、吐き出した息すら青い炎に変える。
白狼は、ようやく親指を鼻から話すと、
軽薄な口調はそのままに、目の前の男に向かい宣戦布告を開始した。
それが、規則だからだ。
「 見ればわかるよ。
おりこうさんだ、
ちゃんと意思もあるし、俺の言葉も理解できるな。
オーケー、あんたは、たった今、俺様と戦って死ぬ権利を得た。喜べよ。」
コートの胸ポケットから、小さな正方形の物体を取り出す。
白い箱のような物体は、彼の掌から宙に浮き、
自動的に二層に割れると、次は三層、四層と、
一瞬のうちにブロックから姿を変えて、透明な球体が出現した。
次の瞬間、まばゆいレーザーの光が、サイクスの足元から頭までを一瞬にして捕らえる。
球体は、無機質な機械の人口声帯で白狼、そしてサイクスに発言する。
『 対象物ヲ サクリファー 二 認定。
特殊情報処理法 二 基ズキ 対象物ノ 殲滅ヲ 許可スル。
執行者ノ 能力制限付解除。
特殊情報処理 第十三班、 速ヤカニ 合流ヲ 命ズ 』