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プロローグ 2

 

立ちはだかる油で汚れた何もない壁が、


彼のゴールだった。


胸を突き破るほど、打ち鳴らされた心臓の鼓動が耳に響く。


上下する肩で呼吸を整え、

一瞬の決断の過ちにぶつけようがない怒りが彼を震わせる。


少年への暴力は、彼に短い愉悦を与えたが、

代償は袋小路に追い詰められた現実。


横たわる少年の屍骸を踏み越えてでも、そのまま直進するべきであったのだ。


苛立ちを隠せず、目の前の固いコンクリートに力まかせに拳を叩きつける。


骨と硬い壁のぶつかり合う鈍い音が、袋小路に反響する。


男は、ぎらついた目で周囲を見回す。


残された逃げ道は、今まで疾走した路地をとんぼ返りに戻ることになってしまう。

十字路に戻る前に追跡者に出くわしてしまう可能性は高い。


その状況だけは避けなければならない。


人生のゲームオーバーが決まってしまうのだ。


 ― どうする、また戻るか? いや、それは出来ない。


おそらく、もうすぐあいつらは俺に辿り着く。


食われるだけだ、どうする。


逃げるしかない。逃げるしかない。逃げろ、逃 げろ逃げろ逃げろ逃げ逃げ…


機械的な警告が男の脳に壊れたテープレコーダーのようにリピートされていく。


どうしようもない現実に追い込まれた彼は、力任せに頭を掻き毟る。

指に絡む、脱色した痛んだ髪が抜けおちるのも気にせず、

彼は同じ問いを何度も繰り返していくのだ。


しかし、薄々は気が付いている。


もう、逃げる場所なんてどこにもないのだ。

ただ、獲物として狩られるだけの末路。

残念すぎる未来予想図。


彼は、もう一度、同じ問いをループする。

そして、ようやく一つしかない答えを受け止めるのだ。


 ― 逃げる?どこへ?逃げ道なんてもうどこにもないじゃないか!


男は、声にならない嗚咽をあげ、その場にへたり込んだ。


彼を追い詰めるように、現実が音を立てて姿を現した。


彼の尖った耳に入り込む、人の気配。


彼が、死に物狂いで走り抜けた道を、

小気味よく革靴がアスファルトに軽やかに跳ねる音。


獲物が掛かった罠の中身を確かめるように、

楽しみに胸を躍らせてタップを踏む足音。


暗闇から忍びよる気配に、擦り減った彼の神経は少しずつ引き千切られていく。


声にならない叫びをあげて、壁に体を擦りつけ、逃げ場所を探すように壁に手を這わせる。

  

壁に爪を立てると、嫌な音を立てて爪と肉の隙間に砂が入り込んでいった。

がりがりと、壁を削る短い爪に血が滲み、先が剥がれていく。


指先の鈍い痛みが、男の張りつめられた意識を一気に覚醒する。


まるで、ドラッグでキめた後の爽快感に似たクリアな脳内。


男の中で何かが断ち切れた。


耐えきれない恐怖が次第に薄れていくのを感じる。


次第に大きくなる革靴の音に向かって、男は絶叫し、音へと体を反転させた。


瞳孔が開き、痙攣する土気色の唇をわななかせ、男は理解した。


今、どうするべきか。


食べられるまえに、何をするべきか。


簡単なことだった。あまりに簡単な答えだった。


今までの恐怖に怯えていた自分は、何だったのか。

男は、血にまみれた指を舐める。

咥内に、砂と鉄の味が広がる。


逃げる場所がないのなら、道を作ればいいのだ。


余裕綽々で近づく革靴を振り切って逃げる必要など、ない。


ここで、奴らに、殺されるなど、簡単に、殺されてなるものか。


殺されるために、生まれてきたのか。


そんな馬鹿な話があってたまるか。


思い出せ、俺は手に入れたじゃないか。


新しい人生を。

新しい力を。


鮮血に塗れた見慣れた部屋に、転がった肉片。


後悔と懺悔の気持ちなんか最初からなかったじゃないか。


何を恐れて奴らから逃げる?


いや、奴らから逃げたのではない。


突然の力の目覚めに恐れたんだ。


廃棄予定物から、廃棄物への昇格。


自分の体の変化よりも、意識を失い、

気がついたときには仲間を血の海に沈めていたことよりも、

《処刑人》の存在に怯えていたのだ。


抵抗むなしく殺される現実[リヤル]に。


運命に怯える情けない愚かな自分は、あの部屋に肉片と共に捨ててきたじゃないか。


極限に近い恐怖の中で、追い詰められた鼠が牙をむく。


腹の奥から吐き出した息は、興奮に染められ、仄かに生ぬるさを感じる。


「 兄ちゃん、怖い顔しちゃって。もう鬼ごっこは終わりかい? 」


革靴の主が、飄々と声をかけてきた。


薄暗い路地から鼻歌まじりに長身痩躯の男が躍り出る。


追い詰められていた男は、革靴の男を無言で睨む。


革靴の声は、遊びの終わりを告げられた子供のように、薄い唇を尖らせた。

しかし、退屈だという表情とは裏腹に彼の切れ長の瞳はギラギラと輝いている。


飢えた山犬のような男だ。


革靴の男に対して獲物に今にも牙を突き立てる動物的なイメージが浮かぶ。


点滅する電燈の下に、獲物をゆっくりと吟味しようと革靴を履いた男はゆっくりと立ち止った。



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