第一章 10
さらに同刻。
白い通路で対峙していた白狼は、
女のざわついた気配に、にやりと唇の端で笑う。
紅茶色の髪が、風もないのに静かに揺れていた。
白狼は、皮手袋を嵌めた手を準備運動とばかりに鳴らしている。
「 あなた、処刑人でしょう? 」
戦闘態勢に入った長身の男に怯える様子もなく、
未だ妖艶な笑みを貼りつかせたまま彼女は逆に男に問い返した。
これまでの甘えた猫のような口調ではなく、
落ち着いた芯の通った声だった。
長すぎる八重歯を覗かして声も立てずに笑う男は、
軽薄さが滲み出ている態度を変えずに美女に答えようとしたが、
その言葉は喉元で止まった。
「 あたしを殺しにきたんでしょう? 」
先ほどと全く同じことが起きた。
瞬きもしなかった。
彼女から目を逸らしたわけでもなかった。
だが、いつのまにか、白狼の広い胸元にやはり彼女が滑り込んでいたのだ。
顔を寄せられて甘い吐息が頬に掛る。
豊満な胸元に、うっかり視線が止まってしまう。
女は、微かに動揺をしている白狼の様子を、
鈴を転がすようにころころと笑う。
「 坊や、遊んであげましょうか。 」
「 っ、女をナかすのはベッドの上だけにしたいんだけどねぇっ 」
白狼が、女を引き剥がそうと右手で彼女の体を押し返そうとした。
が、彼女の体はすでに消えていた。
まただ。
また、今度は意識して彼女から目を離さなかった。
が、霞となって消えた女の声だけが、白狼の耳元で嘲笑う。
『 白、目で追うなっ! そいつ、もう形態変化しとるでっ 』
店の奥に通されてから、通信が途絶えていたアキの声がインカムに響く。
が、彼のアドバイスは一瞬遅く、白狼の首筋に鮮血が走った。
彼の亜麻色の髪の毛が数本足元に緩やかに落ちていく。
飛び散った血痕が白いタイルを濡らした。
白狼は、傷ついた喉元を手で押え、薄い唇を噛む。
生ぬるい血液が白い壁を汚していく光景を、
女は楽しいショーを見るかのように無邪気に歓喜の笑いを上げた。
白狼は、切れ長の眼を細めて周囲を見回すが、やはり女の姿は見つからない。
不気味な程静かな白い世界に彼女の笑い声だけが響いていく。
「 遅いぜ、アキちゃん、一発食らっちった。
…てか、目で追うなとか無理言うなよなぁ。
お前の指示で動くんだからもっと早く場所言えよっ 」
通信を途絶えていた相棒に文句を言うものの、
アキの声にいくらか落ち着きを取り戻していく。
だが、処刑人達に手を出させる隙を与えないように、
さらに白狼の右腕、左足、両肩と立て続けに裂傷が走る。
空気を切る音共に発生した鎌鼬が彼の体を無残に引き裂いていく。
『 ああぁああ、またお前、JJに怒られるで。制服ボロボロやん! 』
「 バカバカ、お前、この状態の俺を見て他に言うことあるだろが! 」
見えない攻撃に、気配を察してぎりぎりのところでかわしていくが、
すでに血だらけの白狼。
アキの軽口には突っ込める元気はあるようだった。
いくら白狼の尋常ではない再生能力でも、流れでる血の量には焦りを隠せない。
アキも、端末で必死に彼女の姿を追おうとするが、
彼女を捕えたときにはもう遅い。
彼女の攻撃パターンを完全に予測し、白狼に指示を出すのでは遅すぎるのだ。
『 目で追うなって言うてるやろっ、俺の指示からじゃ遅い!
自分でなんとかしいや。目で見えないなら、 』
少年の言葉に白狼は呆けた顔の後、八重歯を剥きだして不敵に笑う。
そう、視界に映らないなら、
自分の目を頼らなければいい話だった。
「 ふふ、もう、あきらめたの?
まぁ、いいわ、暴れないほうがあなたもすぐにイかせてあげる。 」
アラクネのいやらしく耳たぶを嬲る声を感じる。
そして、処刑人の首を目掛けて、腕を一閃させる。
彼女の予想では、最初の一撃で彼の首が体から離れる瞬間が見えていた。
彼女は白狼の背後から止どめの一撃を放とうと細腕に神経を集中させた。
血で染まった亜麻色の髪がゆっくりと風になびいて、
振り返る男の切れ長の瞳を捕える。
アラクネは、葡萄色の瞳を見開く。
彼女は、戸惑った。ありえないことが起きたのだ。
― なぜ、なぜ?私は、この男と視線が合う?
完全に私の攻撃は避けられないはずだったのに。
切れ長の目が、眩しいものを見るかのように細められる。
首を切り落とすために振り下ろした腕を完全に掴まれていた。
ようやく、姿を現した彼女の腕は、
女性の細腕とは程遠い形に変形していた。
まるで、甲殻類を思わせる硬い殻。
針金を思わせる黒い毛がびっしりと生えそろう。
手首から先は歪みながら伸び、まるで鎌のように鋭く光る。
美しい女性の右腕とは思えない、異形の姿がそこにあった。
彼女の姿をさして驚くこともなく、
白狼は、深く息を吐き出して彼女の右腕を掴む手に力を込める。
「 ど、どうして? 」
女は、美しい顔を引きつらせていた。
白狼は、血が流れすぎてふらつく頭を振りながら、長い八重歯を覗かせた。
既に、頸動脈を掻き切った彼の傷は皮膚が埋まりつつある。
じゅくじゅくと皮膚が泡立ち、
傷跡すら残さずに完全に再生しいていく様を彼女は紫水晶の瞳を見開いて見つめていた。
「 俺はよ、鼻はいいんだよ。
安物の香水、煙草の残り香、
あんたの熟した果物みてぇに甘い匂いは簡単に追える。
目で追おうとしたのが、俺の失敗だったけどな。 」