第一章 7
扉の先は、白狼の予想を完全に裏切った。
通された扉の先の眩しさに目を細める。
ついさっきまで、彼がいた店内とは思えない景色が眼前に現れたのだ。
白い通路がどこまでも続いていた。床も、壁も、天井も白い。
眩しさの正体は、通路の天井に等間隔で設置された蛍光灯の光だった。
アラクネは、すでに歩き始めていた。
白狼も慌てることなく、その後に続いた。
狭まる廊下と、境界線もなく続く白い世界に次第に、
距離感覚を失くしていく。
先ほどまで、白狼を不快にしていたドラッグと油、酒のアルコール臭さは、
一切感じられない。
しかし、先ほどとは全く別の異臭が体に静かにまとわりついていく。
― 酒の匂いじゃねーな。消毒液?いや、防腐剤か…?
眉のない眉間に皺を寄せ、手の甲で鼻を押さえる。
匂いの元を探ろうと、視線だけを動かし、辺りを注意深く観察してみる。
が、視界にそれらしきものはなく、
ただ白い通路だけが目の前に伸びている。
建物の構造も気にかかる。
地下収容区域内の建設は、
上の分割階層の繁華街、住宅街には不法建築が多い。
それにしても、だ。
寂れた倉庫に挟まれた小さな酒場の奥に
こんな研究施設に似た清潔な通路があること自体、予想していなかった。
アキが事前に用意していた建物内の地図を頭で思い浮かべても、
この通路の長さは無理がある。
どちらにしても、この地下繁華街での任務には、
地図などあってないようなものなので、白狼は深く考えないことにした。
背が大きく開いた深紅のドレスの女についていけば、
答えはすぐに彼の眼の前に現れるはずだからだ。
*
白狼が『蜘蛛の巣』に入ったと同時に、
彼の相棒もまた行動を始めていた。
片耳に嵌めこんだインカムから流れてきた任務開始の声に、
短く返事を返すと、漆黒のコートを翻して駆けだした。
白狼とアキ達が現在任務についている分割階層の、つまり繁華街の真下。
薄い金属プレートをミルフィーユのように挟んだ先には、
高さ十メートル越えるドーム状の空間が広がっている。
その中を縦横無尽にトンネルが配置されており、
蟻の巣のような道が至るところに繋がっていた。
地下水路の役割を持つ生活排水などの下水処理管や、配電管などが多数存在する。
この空間は、本来ならば、繁華街層、住宅層、工業層などの下に必ず建造された避難経路でもある。
大戦と疫病から民を守るために、
作られたはずの場所は忘れられてしまった過去の遺跡となってしまっている。
オレンジ髪の少年に聞かされた都市伝説のような昔話は、
ここは以前、大勢の人々を乗せた電動式の巨大客車が無数に走り回っていたそうだ。
それを証明するように、赤錆に崩れた線路のようなものの亡骸が足元に点在している。
電力は必要最低限しか通っておらず、
闇に近いその中をハライは黒眼鏡に似た暗視ゴーグルの視界を頼りに目的地へ突き進む。
コンバットブーツの靴の砂利を踏む音が、トンネル内に響く。
ネズミの群れが移動するのを見つけ、速度を緩める。
どうやら、目的地が近いようだった。
「 …、ハライさん、聞こえますか? 」
彼のインカムに、本部で待機しているはずの咲の声が鮮明に入りこんだ。
普段の彼は、事後処理や、捜査中心のサポートの為、
戦闘が絡む任務中に彼の声を聞くことは珍しい。
「 あぁ、もうすぐ店の真下だ。アキは? 」
「 三十秒前に定時連絡を受けました。
白狼さんは、容疑者と思われる女性と接触に成功、
現在、客のフリをしてもらいながら同行しています。
ただ、店の中の通信状況が悪く、白狼さんのバックアップを専念してもらいました。
今回のハライさんのサポートは僕にまかせてください! 」
滅多に参加できない前線の任務に昂揚を抑えきれないようだった。
青年の生真面目な返事が聞こえると、ハライは口元に僅かな笑みを浮かべる。
「 まかせるよ、咲。 」
「 は、ハイっ。全力でいかせてもらいます。 」
本部で鼻息荒く返事をしている咲を思うと、
ハライは少しだけ緊張がほぐれる気がした。
しかし、すぐにその笑みは消える。
足を止めたハライが自分の頭上を見上げると、人が一人入れる程の排気口が見えた。
ハライが見ている景色は、ゴーグルを通して本部の咲にも同じ映像が映し出されているはずだ。
更に、先を彼はすでに検索をかけていた。
「 ハライさん、そこの排気口の先に、倉庫のような空間があります。
…温度感知成功。僅かですが、生存者はいるようですね。 」
「 白狼は? 」
「 まだ、容疑者と接触中です。どうしますか? 」
「 …。いや。まずは、この上に向かう。 」
ほんの一瞬の迷いだった。
おそらく、音声通話のみの咲にはわからない程の小さな迷い。
「 了解しました。
…。この倉庫の先に白狼さん達が待機している通路が通じているようです。
排気口からの侵入が最短ルートですね。 」
咲の答えと同時にハライは壁を駆け上る。
まるで、重力を感じさずに、空を舞う一羽の烏のように闇の中で黒皮のコートを翻した。