第一章 5
アキは、ジップアップパーカーから、彼の掌に納まる白い立方体を取り出した。
青白い発光がCUBEを包むのを確認し、
その光を手で伸ばすと小さなケーブルに変化する。
鼻歌まじりに携帯ゲーム機に似た小型端末にケーブルに手際よく繋げていく。
片耳につけた補聴器に似たインカムから流れる雑音の調律が完了すれば、
もう一人の潜入者の名前を呼んだ。
まるで、仮想空間遊戯[バーチャルゲーム]を楽しむような調子で
パーティメンバーにゲームの始まりを告げる。
小さな声で、はっきりと。
「 さ、ハライ、任務開始や。いっちょ、始めるでぇ! 」
薄暗い酒場は、
白狼が思っていたよりも静かな空間だった。
気だるいジャズと煙草の紫煙、
阿片の香りが混ざり合い、店内を侵食している。
白狼にとっては、
アキと二人で歩いていた薄汚い路地の匂いよりはずいぶんマシになったが、
やはりきつい。
アルコールランプを模した人工のオレンジの光が店内を仄かに照らす。
カウンターにバーテンが一人。
天蓋から吊るされた黄ばんだ薄布で仕切られた個室。
客は自分しかいないようだった。
天井を見上げれば、路地裏のような無数のコードと、配管がむき出しに覆いつくす。
人よりも鼻が利く、この男は鼻を擦ると、
コートの胸ポケットから赤い丸印のついた煙草の箱を取り出す。
廃盤となってしまった珍しい煙草だが、
重いタールと、濃い煙が鼻に残った匂いを少しでも、取り除いてくれることに期待した。
いつも、彼は、仕事始めには一本だけ火をつける。
軽いジンクス。
たまに、自分でも女みたいで嫌になるが、
仕事初めの一服はお決まりの儀式。
堅気ではない仕事をいくつもしてきた、
遠い昔に本能的に覚えたことだった。
いくら腕っぷしが強くても、
運がなければあっさりと死ぬ。
運というものは、呼び寄せるものではない。
自らが引き起こすものだ。
「 珍しい煙草ね。 」
突如、自分の胸元で鈴のような声がした。
目線だけを声の元へ向けると、柔らかな紅茶色の髪が揺れている。
洋酒のアマレットに似た、甘やかな香水が白狼の鼻をくすぐる。
白狼には、胸元で佇む彼女の気配を感じ取ることが出来なかった。
自分の鼻がとうとう馬鹿になったのかと、存在しない眉をひそめる。
突然目の前に現れた女の薄気味悪さは残ったが、
白狼はあえてそこに触れずに、女の誘いに乗ってみることにする。
軽い金属を擦り合わせる音がし、
白狼の目の前に炎のゆらめき。
「 珍しい煙草。どこで手に入れてるの?お兄さん? 」
ゆらゆらと揺れる炎の向こうで、
ベビーフェイスに似合わない妖艶な瞳が微笑む。
未だ火をつけずにいた煙草を唇の端で咥え、転がす。
彼女の小さな掌で炎を噴出するジッポに煙草を近づけた。
吸い込んだ紫煙を、彼女の顔にかけないように吐き出していく。
「 お姉ちゃん、この煙草知ってるの? 通だねぇ。
アンタ、珍しいな。 」
軽薄そうな笑みを貼りつかせて背筋を丸めると、
女の視界に合わせて、彼女の顔を覗き込む。
照明の暗さと、大人びた化粧のせいで正確な年齢がわからない。
ただ、黒いアイライナーで囲まれた大きな瞳は、
紫の輝きをもち、小さな花弁のような唇の口角を上げれば、まだ少女のようにも見えた。
大きくスリットの入ったロングドレスの下には豊満な体を薄布一枚で覆い隠している。
ベビーフェイスとの体のギャップが逆に妖しい魅力を引き立てていた。
彼女が猫のように甘えた声をだせば、男達は彼女のために膝をつくのだろう。
自分の魅力が最大の武器になる自信を纏っていた。
― 小悪魔系。いいねぇ、俺、そういう子大好きよ。…D、いやEかな。
アキの端末から見た写真データと、
今、自分の胸にしなだれかかっている女の顔は全く同じだった。
押しつけられた柔らかな胸の感触を存分に楽しんだ白狼は、
彼女の耳元に唇を寄せて小さく囁く。
吐息をかけてやれば、女は潤んだ瞳を瞬き、
小さく身震いしたようだった。
「 じゃあ、物知りなお姉さんに質問しちゃおっかなぁ。
…俺、『卵』っての知りたいんだけど。 」
『卵』というキーワードに女の細い肩が微かに反応するのを白狼は見逃さなかった。