第一章 4
この地下の世界に正式な呼称の名前はない。
地下都市に住む人々は、「ハイアンダーグラウンド」と揶揄して呼ぶ。
そうしなければ、一生をこの地下都市に収容される人々にとっての故郷がなくなるからだ。
しかし、この世界から出られなければ故郷と呼ばれるものに意味がないこともわかっている。
矛盾した希望しかそこにはなかった。
第三管制地区繁華街。
昨日、走り回った路地からはまた別の分割階層になっている。
地下収容区域内は、階層に分かれており、
数字の小さな分割階層は、人の往来が割と自由になっている。
地下都市の開発の本来の目的は、
世界大戦以降に起こった人口兵器ウィルスのバイオハザード、
『パンドラの災厄』による感染者、および感染者予備群の収容区域であった。
ウィルスの感染ルートに遺伝的な要因が見られる可能性があるため、
感染者の近しい親族は、ウィルス感染レベルの区分けに基づき、
《CDSA》により徹底管理された。
人道的配慮を考査し、感染者予備群の収容者に対しては、
地上での生活は特例を除いて許されないものの、
こうした地下繁華街や、移住区などが存在している。
そこで生きる人々の目には輝きはない。
既に、世界人口のほぼ半数以上が感染し、
各地にこうした地下施設が点在している。
特に日本の地下都市は巨大なものだった。
世界規模の大戦による混乱。多種の難民の入国。
年月によって、地下施設内では感染者の第二、第三世代が生まれ、育つ。
生まれてきてから、一度も太陽の光を見たことがない「アンダーチャイルド」出現。
ここで、生まれてきたものは、ここで死ぬしかなく。
ここに連れてこられたものは、ここで死ぬしかない。
希望など、最初からこの地下都市にはないのだ。
白狼が昨日、サイクスを追いかけた路地に似た雰囲気ではあるが、
毒々しい色を放つネオンにあふれたストリートがいくつも交差していく。
雑多な大通りには人は多いものの、やはりどの顔には活気は見られない。
政府が管理しているものの、無法地帯に近かった。
押し込めて蓋をしただけという簡易な場所なのだ。
ここは。
収容者よる暴動が起きた時代もあった。
しかし、武器もなく統率者もいない彼らに何が出来たというのだろうか。
国家権力と軍相手に一度大きな恐怖を味わえば、
犬のように腹を見せて服従するしかない。
ストリートの脇に敷き詰められる出店たち。
何が入っているかもわからない濁った色の鍋を掻き雑ぜる初老の男。
日払いの労働に疲れた男たちが当たり前のように、
その鍋から取り出されたものを無言で啜る。
女性の艶めかしい絵が描かれた電光看板の下には、
階段にしなだれかかり、気だるげに、客引きをする娼婦。
暗がりが広がる細い路地の入口で、小声でドラッグの取引を行う少年。
それを、買い込む痩せぎすな大人達。
薄汚れた地下空間には、油と、排水の臭気が漂う。
感染者たちはいつ排除されるかわからない、見えない何かに怯える。
発症後の恐怖を忘れるために、快楽や、薬による忘却に走る人々もいる。
年間数人単位でしか得ることができない地上行きのチケットを手に入れるため、
たくましく生きるものもいる。
そんな無秩序な空間が、地下収容区域の入口なのだ。
人々の囁きと、怒鳴り声、ノイズまじりの洋楽や、
民族曲が流れる雑踏の中、異様な二人組が足早に歩いていた。
兄弟、いや親子程の身長差があるものの、顔はまったく似ていない。
都市伝説のように語られる人物達が、
まさか目の前で揚々と歩いているとは彼らは露にも思わないだろう。
昨日の戦闘でボロボロにしたコートをそのまま羽織る白狼は、
苦虫を噛み潰したような顔のままだった。
筋の通った鼻梁を抑え、鼻声で呟く。
「いつ来ても、ここの匂いはきついぜ」
「 おまえは鼻が利きすぎやねん。ちとガマンせぇや。 」
「昨日、おまえちゃんとJJとこに、報告、行ったの?」
アキの軽口を返そうとした白狼だったが、
本部でアキの姿を見ることができなかった白狼はふと疑問に思った。
「 先にCUBEで報告しとったし、お前らの後にちゃんとお小言聞きに行ったで。
俺がちゃ~んとお前の活躍を報告しといたからJJから褒められたやろ~。
おかげで俺、そんなにガミガミ言われんかったわ~。 」
悪戯が成功し、にやにやと白狼を見上げるアキ。
白狼はがっくり肩を落とすと、
やっぱり、余計なこと言ったうえに、自分のミスは棚にあげたんだな。
と、わざと聞こえるように独り言を呟く。
「 アホ。ちゃんと仕事はしたで、俺。
しかも、帰ってからも、無料奉仕でお仕事しちゃったしぃ。 」
アキは、指を立て、得意気に答えるが、
まともに相手をするのもむかついてくる。
青筋を額に浮き立たせている相棒に睨まれても、
どこ吹く風の少年は、猫科を思わせる大きな翡翠色の瞳を、四方に目配らせていた。
「 しかも、また、俺、先発隊かよ。
正直、こういう駆け引きとかさー、頭、使うの苦手なんだよねぇ。 」
情けなく頭を振りながら文句を垂れ流している白狼。
アキは、ジャケットから黒い端末機を出すと、白狼に見せる。
「 はいはい、お仕事なんやから、文句は言わんの。
頭、使えんのは、みんな知っとるわ…、
ってもこの仕事は白しかできんよ。 」
小型の遊技機の液晶に映し出される画像。
ちょうど白狼達が歩いている路地とまったく同じ風景が広がる。
白狼は、切れ長の目を細めると、画像に合わせ視線を動かせば、
倉庫に挟まれた路地に嵌めこまれた寂れた酒場がひっそりと現れる。
明滅するショッキングピンクの看板には、
黒いインクをぶちまけたような蜘蛛の巣が描かれていた。
「 あそこの店ね。美人のお姉ちゃんのいるのは。 」
だらしなく鼻の下を伸ばす白狼。
子供の玩具を取り上げた大男は骨ばった指をアキの端末機のタッチパネルに滑らせる。
周囲の写真データから人物データへと切り替え、
拡大ツールをいじれば、そこに男の夢が広がる。
「 そや。おま、仕事忘れんなよ。 」
「 だいじょーぶ。だいじょーぶ。
アキちゃん、ひがまないでねぇ。
一緒に行けないの。
お前も大人になれば、味わえる甘い甘い蜜の味なのだよ。 」
小さな液晶に映し出された女性の胸元を拡大させていく。
胸のサイズ当て予想を独り楽しむ情けない大人の姿に、
アキは溜息をつきながら彼の手元から黒い端末機を取り上げる。
白狼のからかいに、少年は別に興味のないと、木枯らしよりも冷たい視線で切り返す。
「 ハライは、こういうの奥手やから、バックアップ頼んだんじゃけど。
正直、白一人で行かせるほうが、不安じゃ。 」
「 はっ、昨日の汚名挽回といきますか。
ま、簡単に終わらせてやるよ。 」
店の扉の鉄のドアノブへと手をかければ、
そこは甘美な誘惑が匂い立つ入口が手招きしている。
鼻歌交じりに亜麻色の髪を揺らして、
黒皮のロングコートの背中が揚々と暗闇へと誘われていく。
残されたアキは、後ろ頭を掻きながら、
もう姿の見えない当人に向かって呟く。
「 汚名、挽回してどうするん。返上やろ。 」
深緑に輝く瞳は、雑に置かれた毒々しいピンクが点滅する電光看板の名を読む。
「 『 蜘蛛の巣 』 、…そのまんまやないか。もっとひねれよな。 」