プロローグ 1
初めまして、mortsです。
数年前に、書き留めて完結した作品を実家からサルベージしまして、
眠らせておくのはしのびないなぁと思い、
当時のつたない文章を編集しつつ投稿しようと思いました。
長い戦いのお話ですが、みなさんに読んでもらえたらうれしいですし、
もしかしたらこの次のお話の原動力になるかもしれません。。。
ではでは、よろしくお願いします。
男は、走り続けた。
もつれる足をただ前に、前にと、踏み出していく。
こめかみに響く心拍数を告げる音が脳内を掻きまわす。
まるで、走るのをやめれば息の根が止まってしまうような、
被害妄想に縛り付けられた警告。
短い呼吸音を荒く吐き出す。
痛み続ける体を労わる余裕など、男にはあるはずがなかった。
男の揺れる視界に移るのは、
人の体内に似た、うねうねと曲がりくねった細く、暗い穴蔵のような道。
油と錆びた鉄の匂い、排泄物の臭気が粘り気を帯びて男の体にまとわりつく。
ゴミ箱の中身をぶちまけたような通路は大人一人が通り抜けるのがやっとの幅だった。
見上げれば錆びた金属板でつぎはぎに蓋をされた低い天井。
天井にはパイプや、千切れたコードが這いずり回る。
彼の行く手を阻むように置き捨てられた朽ちた鉄屑やら、
排水が溜められたドラム缶が転がっていた。
彼は器用にそれらを飛び越え、あるいは、ぶつかっても彼の疾走は阻まれることなく、
その衝撃を吸収し、さらに加速していく。
人体の動脈に似たいくつもの分かれ道を、
一瞬の決断で選択し、彼は先の見えないゴールを目指し、走り続けていた。
軋む筋肉が体力の限界を訴える。
鉄パイプで後頭部を殴られたような人生最悪の頭痛が、
視界を揺らし、胃液が喉元に込みあげてくる。
― クソっ、どこにいけばいい? どうすればいい?
― どこに行けばいい? どうすれば、助かる?
自問自答を繰り返す。
答えのない問いが浮かんでは、消えた。
似たような景色が繰り返されては続く世界で
狩られる側の存在となった彼は逃げることしかできなかった。
垂直に伸びた暗闇の先に小さな灯りが見えた。
目を凝らすと、どうやら非常灯に照らされた十字路にさしかかったようだ。
彼は、速度を落とさずにこのまま真っ直ぐに突き進む。
しかし、十字路にたどり着いた瞬間に、
彼の意志とは関係なく、疾走は妨害される。
何かが、彼を無理矢理引きとめたのだ。
走るために後ろに振りぬかれた腕が、得体の知れない何かに捕まれる。
生温かな皮膚の感触。
心音が、一際高く跳ね、眼圧が上がる。
見開かれた瞼から目玉がこぼれおちるような感覚。
「 ヒッ! 」
小さな悲鳴を上げた彼は、
か細すぎる腕を振りほどくが、体の体勢を崩し、オイルが染み付いた壁へよろめく。
震える足で踏み留まってしまう。
立ち止まった失敗に目の前が暗くなっていく。
意識では先に進もうとするが、恐怖に弛緩してしまった足が動かない。
口の中がカラカラに乾き、生唾すら飲み込めなかった。
緊迫した一瞬がへばりつくように彼の体にまとわりつく。
逃げろ、逃げろ、逃げろと自分の中で声がする。
だが、男は動けずにいた。
頭に響く警告とは真逆の好奇心も同時に沸き起こる。
魔物の正体を見極めてからでも遅くはないのではと、
恐ろしさに押しつぶされた小さな理性が必死に抵抗する。
明かりが届かない小道の脇から、彼を引き止めた人物が、そろそろと歩み寄る気配。
肌にべったりと張り付く、汗に濡れたシャツの不快感。
男の震えた拳は、血の気がなくなるほど握りしめられていた。
食べられるか。それとも。
しかし、その杞憂は、一瞬にして跡形もなく消え失せた。
現れたのは、彼の想像していた恐怖の対象ではなく、
随分と小柄な男、いや、少年だった。
泥にまみれ、錆色に汚れた大きなボロ布で頭を覆い隠すように羽織っている。
コート代わりに薄汚れた大きな布切れを体に巻きつけた少年。
何日もろくなものを食べていないのか、枯れ枝のようにやせ細った腕を男におそるおそる伸ばす。
煤で汚れた顔を男に近づけて、蚊の鳴く声で弱弱しく呟いた。
「 お、お兄さん、僕を買わない? 」
男は、一瞬、少年が何を言っているのかを理解できずにいた。
少年が何を思って自分を引き止めたのかを知ると、
彼を覆いつくしていた恐怖は次第に、嫌悪感へ、抑えきれない怒りへと変貌する。
彼は、顔を歪めて舌打ちをすると、怒りをそのまま行動に移した。
男の体に擦り寄る少年の腹を思いきり蹴り上げた。
鈍い音と共に、少年は、その場に崩れ落ちた。
痛みに耐えて咳き込む少年へ更に何度か力任せに蹴りつける。
地面に這いつくばる少年はか細い声で、謝罪の言葉と、男の暴力を止めるように懇願したが、
男は少年が動けなくなるまで蹴り続けるのをやめなかった。
荒々しく呼吸を吐き出して、男は、こんなことの為に時間を浪費したことに苛立ちを募らせる。
彼は、乾いた唇を引きつらせる。
少年の頭を覆うボロ布の上から、最後にもう一度、懇親の力で彼の小さな頭を踏み潰した。
柔らかい果物が地面で割れる音が、路地に響く。
男は、声を上げることもなく動かなくなった少年の頬に唾を吐き捨てた。
彼らを照らす非常灯の緑の光には羽虫がたかり、明滅する緑の中、男は顔を歪める。
苛立ちでも、怒りでも、恐怖でもない感情が顔面に浮き出ていた。
自分以外の虐げられる対象がいることへの幸福感。
醜く引きつった頬の皮膚が笑みとして彩られる。
非常灯の点滅が、少年の体から滲み出す黒に近い赤の色を変え、カチカチと照らし続けていた。
彼は、ぴくりとも動かない少年を一瞥し、交差する道へと改めて向き直った。
十字路を真っ直ぐに進むつもりであったが、
力なく横たわる少年が自分の行く末を暗示しているかのように見え、左の角を曲がることにした。
そうしなければならない気がした。
つまらないことで、時間を使ってしまったことに悔やむが、今は悔やむ時さえ惜しい。
そう、今は時間がないのだ。
こうしている間にも、追跡者は確実に男に近づいてきている。
男は、少年のことなど頭からかき消して、また走りだす。
背中に迫る刃物に似た緊張感をふりほどくために。
男の足音が、次第に少年から遠ざかっていく。
暗い路地の先へ飲み込まれていく男の背を、少年は光を灯さない瞳で見つめていた。
出口のない暗闇に飲み込まれる男の末路を知っていたのかもしれない。
男は、それから数分後、絶望を知ることになる。