想いの後先に(1)
「あれ? 今何か聞こえなかった?」
イセン国城下の市場。
長い黒髪の少女は、同行している長身の青年を振り返り小首を傾げる。
「? いや。特には。というか、騒がしい場所だからな。疲れたか、リルディ?」
「ううん。全然! 楽しくて疲れている暇なんてないわ」
行き交う人々と立ち並ぶ露店に、リルディと呼ばれた少女は澄んだ空の色をした瞳を輝かせる。
「それならよかった」
黒髪の青年は、闇夜色の瞳を愛おしそうに少女へ向ける。
「あ、カイル。あそこでは何をしているのかしら? 人がたくさん集まっているわよ」
「あまり離れるな。迷子になって泣くのはお前だぞ?」
今にも駆け出しそうなリルディの手をとり引き留める。
「泣かないわよ。子供じゃないんだから」
「……あぁ。お前がいなくなったら、泣くのはむしろ俺だな」
頬を膨らませるその姿に、小さく笑いあらためてしっかりと手を繋ぎ直す。
「ん? なんて言ったの?」
喧噪に紛れ聞き逃した言葉を促すが、カイルは何でもないと笑いを含ませながら答え、話を切り替える。
「それよりここは大方見て回ったな。あとは工業区でも見るか?」
そのままリルディの手を引き上機嫌で歩みを進める。
「ちょっと待って。……今更だけど、こんなに長い時間、城を離れて大丈夫なの?」
カイルワーン・イセン。
それがカイルの正式名であり、このイセン国の王の名だ。
本来であれば、気軽に城下を歩き周れる身分ではないし、その仕事が激務であることをリルディはよく知っている。
「問題ない。今日は一日、カイル・アウグストというただの貴族だと言っただろう? そして、お前はリルディというただのメイド兼恋人だ。メイドとして、主には忠実に従うものだろ?」
口の端を上げ、からかう様に言い放つ。
「それは聞いたけど、突然過ぎて驚いたわよ」
それは本当に唐突だった。
数日ぶりに部屋にやって来たカイルは、説明もそこそこに、リルディの髪色を魔力で金から黒に変えた。
侍女であるネリーとラウラは、当たり前のようにメイド服を着付け、リルディたちを笑顔で送り出した。
(カイルと一緒にいられるのは嬉しいけど、何だか私ばっかり楽しんでるような気がするし)
ずっと城下町に降りてみたいと思っていたリルディには、この上ない楽しい時間ではあるが、毎日激務をこなすカイルにとっては負担なのではないかと、急に不安になってくる。
「そんな難しい顔をしなくても、一日くらい休んでも国は滅びないから安心しろ。それに、こういう日のために仕事を詰めてきたんだ。問題ない」
「でも、それならお城でゆっくり休んだ方がいいんじゃない? いつも夜遅くまで政務をしているのだし」
リルディが寝る時分になっても、カイルは自室に戻っていないことが多い。
休みであるのなら尚更、休養をとるべきだと思う。
「心配せずとも良い。俺はすこぶる元気だ」
「本当に? 私ってば、つい楽しくて色々なところを引っ張りまわしてしまって」
夢中になってはしゃいだ子供のように、休みなく歩き周ってしまったことを今更ながら後悔する。
「俺も楽しかった。場所はどこでも構わない。ただ、お前が側にいることが何よりの癒しだ」
そう言いながら、繋いだ手にそっと口づけを落とす。
「カ、カイル」
想いは通じ合っているものの、まだまだこういう甘やかな雰囲気には慣れていない。
赤くなり後ずさるリルディに、カイルは真顔で更に言葉を続ける。
「離れるな。もう少し触れさせてくれ。嫌か?」
「そ、そんなことないけど……」
ここは道の往来。
先ほどから通り過ぎる人の視線が痛い……気がする。
「このまま、ずっと側にいてほしい」
甘く囁くカイルに、リルディは真っ赤な顔で無言のまま頷く。
「なら結婚してくれるか?」
「う……はっ! だ、だから、それはまだダメ」
畳みかけるように続けられたプロポーズの言葉に頷きかけ、寸でのところで我に返る。
「……チッ」
その返答に、カイルは小さく舌打ちする。
あの婚姻の儀が終わった後から、カイルは会話の中に時々求婚の言葉を忍ばせてくる。
すでにこういうやり取りも何度目かのことなのだが、カイルは一向に諦める気配がない。
「なかなか手ごわいな。贈り物でも懐柔出来ぬしどうしたものか」
「懐柔って……。大体、毎日あんな高価な物をもらっても困っちゃうよ。おかげで“贈り物部屋”なんてものが出来ちゃったんだから」
ほとんど政務にかかりきりなカイルは、会えない日は決まって、ドレスや宝石、靴や髪飾り。
部屋にあふれかえる程の花束など、何かしらの贈り物を届けて来たのだ。
それらは瞬く間に数を増し、贈り物が溢れかえる部屋がいくつも出来上がってしまった。
ネリーからその報告を受け、慌てて今後の贈り物は辞退すると伝えたのは、つい最近のことだ。
(嬉しいけど、このままいったら部屋がいくつ在っても足りなくなっちゃうわよ)
居候の身としては、そんな優遇を甘んじて受け続けるわけにはいかない。
「心配せずとも部屋は腐るほどあるし、あの贈り物は国財ではなく、俺の個人的な資産から買い求めたものだ。気にすることじゃない」
「そういう問題じゃないの。大体、お祝い事でもないのに贈り物を貰う理由がないわ」
サプライズは嬉しいものだが、さすがに限度を超えている。
「理由ならある。政務を優先して、全然お前の相手が出来ていなかった。イセン国に引き留めたのは、俺だというのに……」
一度はエルン国へ帰るというリルディを説き伏せて、“妃候補の育成”との名目でイセン国城へ留め置いたのだ。
「それを承諾したのは私だわ。それに、ネリーもラウラも居てくれるし、アランもいてアルも時々遊びに来てくれる。けっこう賑やかで楽しい毎日なんだよ」
安心させるために放ったはずの言葉だったのだが、カイルは息を吐きあからさまに顔をしかめる。
ここ最近では珍しく、眉間のしわも深くなっていた。