帰る場所(2)
ずっと焦れていたその存在を前に、目を離すことが出来ない。
息をすることさえ、忘れてしまうほどの衝撃。
「魔術だ。幻影であの女の姿と声を記録したものだろう」
「幻影……」
テオの簡潔な説明に合点がいく。
確かにリルディの姿は微かに透けており、その視線は自分と交わってはいない。
(それでも構わない)
夢幻であっても、愛しいその姿を今一度見られたことは何よりも幸いだ。
『元気にしている? 驚いたよ。急にいなくなってしまうんだもの。あー、何だか一方的に話すのって難しい。……ちゃんと聞こえてるかな?』
「あぁ。聞こえてるさ」
届かないと分かっていながらも、口元を緩めレイは返答する。
『レイに聞いてほしいことがあるの。……思い出したんだ。小さい頃、リンゲン国城の裏庭で会ったんだよね。迷子のレイと』
「あぁ。そうだよ。ははっ。なんだ。あの頃の情けない僕を思い出してしまったんだね」
『私、あの時すごく落ち込んでいて……でもね、レイと出会って、私が元気づけて笑ってくれてすごく勇気づけられたの』
続けて放たれたリルディの言葉に、レイは大きく目を見開く。
迷子になり、心細くて泣いていた自分を勇気づけてくれたリルディ。
今でもはっきりと思い出すことが出来る。
終始笑顔を絶やさず、まるで輝く太陽のようだった。
彼女に陰りなど微塵もなかった……少なくともレイにはそう見えた。
『ずっと思い出せなくてごめんなさい。私はきっと、レイをたくさん傷つけてしまったんだよね』
「違うだろ。傷つけたのは僕の方だ」
自分の気持ちばかりを押し付けて、相手の気持ちなど知ろうともしなかった。
昔も……そして今も。
『……私は今、イセン国城にいるんだよ』
躊躇いがちに放たれたその言葉はつまり、イセン国王と想いが通じ合ったということ。
それはもっとも恐れていたはずのことだというのに、疼くような胸の痛みを伴いながらも、どこか受け入れている自分がいた。
絶望するには心が疲弊しすぎているせいかもしれない。
そんなことを思い、乾いた笑いが漏れる。
『レイには謝りたいけど、でも少し怒ってもいるんだから。レイは強引で自分勝手だわ』
「あぁ。僕は君の害にしかならなかった」
気持ちを押し付けて危険な目に合わせて、ひどく怖い思いをさせただろう。
それらはすべて、自分のことしか考えていなかった、浅はかな自分の行いが招いたこと。
嫌われて当然だ。
『私はレイのことが好きだよ』
「なっ」
『きっとレイと私の“好き”は異なるものだけど……。でもやっぱり嫌いになんかなれない。分かり合いたいと思う』
降り注がれた言葉はあまりにも意外な告白で。
『だから、テオさんと一緒に帰ってきてほしい。カイルと待っているわ。もうメイドではないけれど、美味しいお茶を入れてあげるから』
見上げたその笑顔は太陽のように明るく屈託のない、ずっと昔に見惚れたその笑顔と同じものだった。
「……」
やがてその姿が幻のように掻き消えてからも、レイはその場から動けずにいた。
「こんなの反則だろ。あんなことしたのに、何で待ってるとか言うわけ?」
その場にへたり込んだまま、そこにはいないリルディへ悪態を吐く。
ずっと待つ人も帰る場所もないのだと思っていた。
(帰ってこいってなんだよ。それじゃあまるで、僕に居場所があるみたいじゃないか)
夢を見てしまう。
こんな自分を受け入れてくれる場所があるのだと。
打算も策略もなく、何の価値もないただの自分を待っていてくれる人がいるのだと。
「レイ、お前はエルン国に戻るべきだ」
静観していたテオが静かに口を開く。
「はは。戻れるわけないだろ? リルディアーナがたとえそれを望んだとしても、カイル兄上は僕を受け入れない。僕だって、あいつを受け入れるわけにはいかない」
「いいかげん、逃げるのは止めたらどうなんだ?」
「なっ! 誰が逃げて……」
反論しかけたレイだったが、テオの強い眼差しを受け、言葉は掻き消える。
「もう分かっているはずだ。結局お前は、いつも大事なことに向き合うことが出来ず、ただそこから逃げ続けているだけだ。そして、それが今のお前に結びついている」
「煩いっ。今更、僕に何が出来るっていうんだ!」
「……まずはイセン国へ戻れ。王の代理だった時、お前は立派にその責務をこなしていた。その能力が高いことは、カイルとて気が付いているはずだ。お前にもやるべき仕事はあるだろう」
「なんだよそれ。僕にあいつの仕事を手伝えっていうのか?」
「あぁ。だが、その前にカイルと向き合え。もしここでそうしなければ、いつか後悔する時が来る。たとえ分かり合えず道を別つことになっても、背を向けるべきではない」
「そんなこと……」
「恐れるな。未来とは、いつも選択し突き進むべきものだ」
それはまるで、自分自身に言い聞かせるかのようにも聞こえた。
手を差し伸べるテオの瞳は、どこか憂いを含んでいる。
「テオのくせに偉そうに。僕はお前の主だぞ」
忌々しそうに吐き捨てながらも、レイはその手を取り立ち上がる。
「今この場を持って、私はレイの従者を降りる」
あまりにもすんなりと放たれた言葉に、レイは呆気にとられ言葉を無くす。
今まで、どんな無理難題を言い放っても、テオは従者であることを辞めるとは、一度たりとも口にしたことはない。
だからこそその言葉は重く、冗談ではないのだと理解出来た。
「ふざけるな。僕がすんなりと受け入れると思っているのか!? あぁ。そうか。お前はやっぱり、カイル兄上の側にいたいんだろ? だからイセン国に戻れなんて……」
「イセン国に行くのはお前だけだ。レイ」
まくし立てるレイをしり目に、いつもと変わらない落ち着き払った声でそう告げる。
「は? どういうことだ?」
「この現状は、よくないことだと分かっていた。だが、お前を独りには出来ないから、甘んじてこの状態を受け入れていた。しかし、お前がイセン国に戻ることが出来る今、私が従者を降りればそれですべてうまくいく」
得心顔で放たれた言葉は、レイにはまったく理解出来ず、額を抑え込む。
「あのな、何がどうなってそういう話になったんだ? 僕が分かるように順序立てて説明しろ。話が見えない」
「……」
暫く思案したのち、テオは再度口を開く。
「……イセン国を出て暫くしてから、イサーク・セサルが現れた」
「なっ! あの男が何の用だっていうんだ!?」
それはレイにとって初耳。
少なくとも、レイがいる時にあの男が現れたことはない。
「それなりの地位を約束するから、自分の配下になれと勧誘された」
「ふざけるな! お前は僕の……」
「あぁ。レイの従者だからと断ったのだが、どうやらその理由が気に食わなかったらしい」
「まさか……」
そこまで聞いて、やっとテオの話と今の現状が繋がった。
「あぁ。それからだ。暗殺者がお前を標的にし出したのは」
毒の所為ではない眩暈を覚える。
なぜ自分がこうも命を狙われているのか、ようやくその理由が分かった。
「どうして、そんな重要なことを黙っていた?」
「言ったところで、状況は変わらない。私が一時離れたところで、あの男の性格だとお前を狙うのを止めたりしないだろう。それなら、標的にされているお前の側に居て護る方が効率的だ」
毒の痺れがなかったら、シレッと悪びれもなく言い放つ従者に、レイは思い切り蹴りを入れていたことだろう。
「お前は何一人で自己完結してるんだ! 意味も分からず狙われている僕の身にもなれっ。従者として主に報告するのは義務だろう!」
テオは大概のことを口にしない。
それは従順だからではなく、ただ単に面倒くさいと思っているからだということを、レイは知っている。
散々人に説教をしておきながら、自分も十分問題があるだろうと、声を大にしていってやりたいと心底思う。
だが今は、他に言うべきことがある。
「僕はお前が降りることを認めない。もし勝手にいなくなれば、僕はイセン国にいかない」
レイの宣言にテオは大きく息を吐く。
「あの金の髪の姫はイサーク・セサルに狙われているのだろう? お前をイセン国に送り届けた後、私はイサーク・セサルを探しだし討ち取る。そして、お前の下に戻る。それでは問題があるのか?」
「大ありだ。お前だってリルディアーナの言葉を聞いただろ? あの子は、お前にも帰ってきてほしいんだ。それを僕一人でノコノコ帰れるか。それこそ、会わせる顔がない」
「……」
「それにイサーク・セサルに一太刀浴びせたいのは、僕だって同じだ。リルディアーナにあんなことをして、お前にまでちょっかいをかけて。こんなに舐められて、黙っていられるはずがないだろ?」
ふらつきながらも、何とか立ち上がり、服に付いた砂を払い落とす。
「レイには無理だ。いいから大人しく……」
「黙れ。テオは僕の下僕だろ? 下僕は下僕らしく、主の言うことを聞くものだ」
「……」
胸を張り不遜に笑むレイの姿にテオは閉口し、小さく肩を竦める。
こうなってしまったら、レイは何を言っても聞かないことを、テオは知っている。
「だからさ、待っている人がいるイセン国に、二人で一緒に帰ろう」
「……承知した」
我がままで自分勝手な愛すべき主の言葉に、テオは微かに口元を緩め、いつものように返答した。