拾った娘の「本当のお父さん」が、生きて帰ってきました。
第1章 湯気の向こうの食卓
朝の台所に立つと、いつも二つの音が重なって聞こえる気がした。
一つは、今ここで豆のスープがことこと煮える音。もう一つは、もう二度と帰れない場所で、誰かが朝のニュース番組をつけっぱなしにしていた、遠いテレビの音だ。
雨の夜、交差点でトラックのヘッドライトに包まれて、俺の前の人生は終わった。
真っ白な空間のカウンターで、星柄のマントを着た青年が書類をめくっていた。大きすぎるとんがり帽子を押さえたその神様は、転生担当のツクヨと名乗った。
「あなたは凡人枠です。特別な能力の付与はありません」
この異世界で俺を食わせてくれたのは、前の世界で家族のために毎日作っていた料理の手際だった。今は『麦穂亭』という大衆食堂に住み込み、厨房に立っている。
「お父さん、焦げくさい」
「うわ、嘘だろ」
慌てて火口から鍋をずらすと、後ろでくすくすと笑う声がした。振り向けば、寝癖で栗色の髪を片方だけ跳ねさせたメルルが、背伸びをして鍋の中を覗き込んでいる。
「焦げてないよ。豆のスープの匂いがしたから、もうすぐかなって思っただけ」
「人聞きの悪いことを言うんじゃない。食堂の料理人が朝のスープを焦がしたら、親方に怒鳴られるどころじゃ済まないぞ」
「じゃあ、味見係をやってあげる。お父さんが怒られないようにね」
もうすぐ十歳になるメルルは、そう言って木の匙を器用に自分の手へ引き寄せた。四歳でこの家にやってきた頃は、テーブルの縁から目線が出るか出ないかだったのに、今では俺の肘のあたりまで背が伸びている。 ふう、と小さく息を吹きかけてスープをすする横顔を見て、俺――ソウマは、胸の奥がわずかにきしむのを感じていた。
豆と塩漬け肉を煮込んだ、この世界のありふれた朝食だ。それなのに、湯気の向こうの小さな姿を見ると、別の食卓を思い出す。白い炊飯器。「帰りに牛乳買ってきてね」と笑う妻。靴箱の上で足をぶらぶらさせる幼い息子。あそこへは、もう帰れない。
五年前、北の国境近くで起きた戦乱の避難民がこの宿場町へ流れ込んできたとき、泥だらけで道の端にうずくまっていたのがメルルだった。 言葉をろくに話せず、高熱を出して震えていた四歳の子どもを放っておけなくて、店の上の空き部屋へ連れ帰った。熱が下がったあとも、役場や衛兵詰所、避難民の寄り合い所を何ヶ月も回って親を捜した。けれど、メルルがいた村は焼き払われ、父親は徴用されたまま行方知れずだと聞かされただけだった。
『あの人たちを忘れるのか』
夜、眠るメルルの小さな布団を直してやるたび、自分自身の声が耳の裏で囁く。 前の世界で、俺はさよならも言わずにいなくなった。残された妻と息子がどれほど泣いたか、どんなふうに俺のいない食卓を囲んでいるのか、考えるだけで息が詰まる。それなのに、俺だけがこの世界で新しい子どもと笑い合い、「お父さん」と呼ばれて温かいスープを飲んでいる。 それでも、メルルを置いていくことはできなかった。同時に、この子を、置いてきた息子の「代わり」にしてはいけないと、それだけは毎日自分に言い聞かせてきた。メルルはメルルだ。俺の寂しさを埋めるための道具じゃない。
「ん、おいしい。でも、昨日のほうがにんじんが甘かった」
「生意気言うな。今日は市場の掘り出し物じゃなくて、普通の畑のにんじんなんだ」
「来週の誕生日は、甘いほうのにんじんにしてね」
そのあと、焼いた黒パンと一緒に朝食を平らげたメルルは、空いた器を流しへ置くと、椅子に座って自分の革靴を履き始めた。つま先の革が白く擦り切れて、親指のあたりが少し窮屈そうに膨らんでいる。
「その靴、もうだいぶきついんじゃないか?」
「まだ大丈夫。かかとをトントンってすれば入るよ」
「無理するな。来週は十歳の誕生日だろ。休みの日に、靴屋の露店を見に行こうか」
メルルの目がぱっと丸くなり、それから少しだけ遠慮がちに細められた。
「……ほんとに? あのね、広場の角の店に、留め具が真鍮になってる茶色い靴があったの。走っても脱げないやつ」
「よし、じゃあ誕生日の前に見に行こう。ほら、遅れるぞ、学校へ行ってこい」
「うん! いってきます、お父さん!」
元気よく扉を開けて階段を駆け下りていく足音を聞きながら、俺は残りのスープを自分の器へよそった。
この当たり前の朝が、ずっと続いていくものだと、どこかで思い込んでいたのだ。
その日の夕方、昼の喧騒が引いて夜の仕込みにかかっていた『麦穂亭』の暖簾を、一人の男がくぐった。
まだ客を入れる時間ではない。俺が「すみません、夜の営業はもう少しあとで」と厨房から顔を出したとき、男は店の土間で立ち尽くしていた。
背が高く、肩幅の広い男だった。着ている外套は旅の埃で白っぽく汚れているが、破れた箇所は丁寧に糸でかがられている。何より目を引いたのは、外套の袖口から覗く節くれだった大きな手と、腰に下げた古い革の道具袋だった。手斧と鑿の柄が、使い込まれて飴色に光っている。大工の道具だ。
「……ここが、ソウマのいる『麦穂亭』で間違いないでしょうか」
低く、ひどく掠れた声だった。幾日もろくに水を飲まずに歩き続けてきたような、乾いた響きがある。
「俺がソウマですが。どちら様で?」
男は深く息を吸い込み、震える手で自分の胸元から、一枚の小さな木札を取り出した。焦げ跡のある、白木の端材を削って作った不格好な鳥の彫り物。
それを見た瞬間、俺の手から布巾が滑り落ちた。
同じ彫り方の鳥が、二階の俺たちの部屋の引き出しにある。五年前、メルルが握りしめて離さなかった、片翼の欠けた木の鳥だ。
「俺は、ダグといいます。北の白樺谷で大工をしておりました」
男――ダグは、そこで言葉を切った。浅黒い頬の肉が落ち、目尻には深い皺が刻まれている。まだ三十代半ばだろうに、その顔には何年もの過酷な歳月が張りついていた。
「戦のときに徴用され、東の砦で捕虜になっておりました。先月、ようやく解放されて……村へ戻ったら、何もかもなくなっていた。けれど、避難民の名簿を辿って、あんたがうちの娘を……メルルを、引き取って育ててくれていると聞きまして」
ちょうどそのとき、店の裏口が開く音がした。
「ただいまー! お父さん、今日ね、広場の猫が――」
学校から帰ってきたメルルが、かばんを揺らしながら厨房の脇からひょっこりと顔を出した。
土間に立つ大柄な男を見て、メルルの足が止まる。
ダグの目が見開かれた。その手から、木の鳥が乾いた音を立てて床に落ちた。
「……メルル、か」
メルルは怪訝そうに眉を寄せ、俺の袖を掴んで半分隠れるようにした。メルルにとって、四歳の頃の記憶は靄の向こうにあるはずだ。 けれど、ダグが床に膝をつき、目線を合わせるようにして震える声で言ったとき、空気が変わった。
「メルル。大きくなったな……父さんだ。帰ってきたぞ」
ダグが差し出した大きな手のひらには、昔、鉋で深く切ったという古い三日月の傷跡があった。
メルルの呼吸がひゅっと止まった。俺の袖を掴んでいた小さな指から、すうっと力が抜けていく。
「……おとう、さん?」
「ああ。遅くなって悪かった。ずっと、ずっと会いたかったんだ」
ダグはそのまま、土間の冷たい石畳に額をこすりつけるようにして、俺に向かって頭を下げた。
「ソウマさん、ありがとうございます! うちの娘を……メルルを生かしてくださって、本当に、どうお礼を言っていいか……!」
何度も、何度も頭を下げるダグの背中は、大柄なのにひどく小さく見えた。 俺は「顔を上げてください」と言いながら、自分の声がまるで他人のもののように遠くで響いているのを感じていた。 よかったじゃないか。生きていたんだ。五年間、ずっと役場に届けを出して捜し続けてきた、メルルの本当の父親が帰ってきたんだ。 そう思うのに、さっきまでメルルが掴んでいた俺の袖口だけが、急に冷たい風にさらされたみたいに頼りなかった。
第2章 知らない歌と、二階の部屋
その日の夜は、店の親方の計らいで、二階の俺たちの部屋にダグを招いて食事をすることになった。
ちゃぶ台代わりの丸い木机を三人で囲む。俺が作った鶏肉と根菜の煮込みを前に、ダグは最初は遠慮していたものの、一口食べると目を見張って「うまい……こんな温かいものを食うのは、何年ぶりかわかりません」と涙ぐんだ。
悪い人間ではないどころか、驚くほど実直で不器用な男だった。 捕虜収容所で城壁の修繕ばかりさせられていたこと。解放されたあと、わずかな手間賃を稼ぎながら、避難民が流れたという町を一つずつ歩いて回ったこと。十分な蓄えがあるわけでも、偉い身分があるわけでもない。ただ、自分の腕一本と、娘にもう一度会いたいという一念だけでここまで辿り着いた父親だった。
「メルル、お前、にんじんを残さず食えるようになったのか」
ダグが目を細めて言うと、俺の隣に座っていたメルルは、少し照れたように肩をすくめた。最初のうちは緊張してぎこちなかったメルルも、ダグの声や手つきを見るうちに、少しずつ昔の記憶がほどけてきているようだった。
「お父さんがね、お肉と一緒に甘く煮てくれるから、もう平気なの」
「そうか……ソウマさんには、本当に頭が上がりません。昔は、にんじんを細かく刻んで混ぜても、器用にそれだけ皿の縁に並べてたもんですから」
「細かく刻んだにんじんまで、ですか?」
「ええ。亡くなった母親に似て、変なところだけ手先が器用で」
ダグが懐かしそうに笑う。メルルの母親は、戦乱の少し前に流行り病で亡くなったのだという。だからダグにとって、メルルは文字どおりこの世にたった一人の家族だった。
食後、俺が茶を淹れようと小鍋を火にかけていると、机のほうから小さな鼻歌が聞こえてきた。 ダグが、テーブルの端に置かれていたメルルの木彫りの鳥――二つ合わせると一つの番になるというその古い玩具を撫でながら、低い声で何かを口ずさんでいた。
「『かぜのふくおか、しろいとり。かんなのくずは、ゆきのよう……』」
素朴で、少し単調な節回しの歌だった。この宿場町では聞いたことがない、北の谷の仕事歌か子守唄なのだろう。 すると、ダグの向かいに座っていたメルルの唇が、自然と動いた。
「『……おうちに帰ろ、日が暮れる。おかあさんの灯が、揺れている』」
二人の声が、ぴたりと重なった。 ダグが息を呑み、それから破顔した。「覚えてたのか、メルル!」と声を弾ませる。メルルも「うん、なんだか急に、お父さんが木を削ってるときに歌ってたなって思い出した」と、頬を赤くして笑った。
俺は、茶葉を入れた急須を持ったまま、台所の隅で立ち尽くしていた。 その歌を、俺は知らない。 メルルが四歳になるまでの四年間。どんな家で眠り、どんな匂いのする木屑の中で遊び、どんな声で寝かしつけられていたのか。俺がどれだけメルルの今の靴のサイズを知っていようと、好きなスープの味を知っていようと、その四年間には指先一つ触れられない。
喜んでやるべきだ、と思った。戦火で引き裂かれた親子が再会し、失われたと思った記憶が繋がったのだ。こんなにめでたいことはない。 なのに、胸の真ん中に冷たい鉛を流し込まれたみたいに、息が苦しかった。二人が歌う短い節回しが、この狭い六畳ほどの部屋から、俺の立つ場所だけをじわじわと削り取っていくような気がした。
「……お茶、入ったぞ」
なるべく普段どおりの声を作って湯呑みを並べると、ダグはハッとしたように姿勢を正し、また深々と頭を下げた。
「すみません、すっかり長居をしてしまって。俺は、その、町外れの木賃宿に部屋を取っておりますので、今夜はこれで」
「それで、ダグさん。これからはどうされるんですか」
俺が尋ねると、ダグは膝の上で、大きな手をぎゅっと握りしめた。
「隣町の大きな商会が、戦後の建て直しで大工を募集しているんです。ツテを頼れば、そこそこ安定した手間賃と、家族で住める長屋を借りられるはずでして……。身勝手なのは承知の上です。ただ、暮らしの目処が立ち次第、メルルを引き取って、もう一度二人で暮らしたいと思っています」
ダグの目は真っ直ぐだった。五年間、地獄のような捕虜生活を耐え抜いた男の、たった一つの希望がそこにはあった。 隣に座るメルルが、ぴくりと肩を揺らして俺の顔を見上げた。 俺は、メルルの視線から逃げるように目を伏せ、自分の膝を見つめたまま頷いた。
「……そうですか。それが、一番いいですね」
「ソウマさん、本当に、なんとお礼を言えば……」
「いえ。俺はただ、親御さんが見つかるまで預かっていただけですから」
自分の口から出た言葉が、驚くほど滑らかで、そしてひどく嘘くさかった。
メルルが何か言いたそうに口を開きかけたが、俺は「もう遅いから、歯を磨いて寝なさい」と遮るように背中を押した。
第3章 箱に入る暮らし
翌日から、俺は『正しい引き継ぎ』の準備を始めた。 ダグは隣町の親方と話をつけるため、数日のあいだ町を離れることになっていた。そして来週の七の日は、メルルの十歳の誕生日だ。 俺はダグが出発する朝、彼にこう切り出した。
「来週の誕生日を三人で祝ったら、その翌日にメルルを連れていってください。それまでに、こっちの荷物は全部まとめておきますから」
ダグは何度も感謝の言葉を述べ、「誕生日には必ず戻ります」と約束して隣町へ向かった。 そう決めてしまえば、あとは手を動かすだけだった。感傷に浸る暇を自分に与えないように、俺は仕事の合間を縫って部屋の中を片づけ始めた。
まず、古い帳面の空いた頁に、メルルの今の暮らしを細かく書き出した。 『朝は少し寝起きが悪い。豆のスープが好きだが、玉ねぎは薄く切ってよく炒めないと残す。風邪は喉の痛みから始まることが多く、熱も出やすいので、乾いた生姜を蜂蜜に漬けたものを湯で割って飲ませること。寝るときは、窓を少しだけ開けておかないと息苦しがる』 文字を並べるたび、五年間、俺がこの子の何を見てきたのかが紙の上に吸い出されていくようだった。この帳面を渡せば、ダグだってすぐに今の父親になれる。俺がいなくても、メルルは困らない。
夜なべをして、メルルの服も全部点検した。裾がほつれかけていた普段着のスカートに針を通し、肘の薄くなったシャツには当て布をする。 そして、店の裏手から古い木箱を二つもらってきて、部屋の隅に置いた。
最初の二日ほど、メルルは学校から帰ってくると「本当のお父さん、大きな手をしてたね」「昔ね、白樺の皮で舟を作ってくれたんだって」と、少し興奮した様子で話していた。 俺は「そうか、よかったな」「優しいお父さんじゃないか」と笑顔で相槌を打ちながら、洗い上がったメルルの冬物の服を畳んで、木箱の底へ詰めていった。
三日目の夜、メルルが自分の机の上に置いていた色鉛筆と、学校で描いた絵の束が、俺の手によって木箱へ収められた。 その頃から、メルルの口数が目に見えて減り始めた。
「メルル、この赤いリボン、もう使わないか? 箱の隙間に入れちゃうぞ」
「……うん」
ベッドの端に座り、膝を抱えるようにして木箱を見つめるメルルの声は、聞き取れないほど小さかった。
「隣町はここから馬車で半日くらいだ。大きな川があって、製材所もたくさんあるらしいぞ。新しい学校に行っても、メルルならすぐに友達ができるさ」
「……お父さんは、来ないの?」
「俺は『麦穂亭』の仕事があるからな。それに、これからはダグお父さんと二人で暮らすんだ。俺がちょろちょろ顔を出したら、おかしなことになるだろ」
メルルは何も言い返さず、ただ自分の足の爪先をじっと見つめていた。 棚からメルルの物が一つ消え、木箱の中身が増えていくたび、部屋の中が少しずつ広くなっていく。五年前、俺が一人で寝起きしていた頃の、殺風景な部屋の輪郭が戻ってくる。
これでいいんだ、と俺は針を動かしながら自分に言い聞かせた。 俺には、前の世界に置いてきた妻と息子がいる。あの二人を忘れずに愛し続けるなら、俺は誰かの「本当の家族」になりきってはいけないはずだ。メルルには血の繋がった善良な父親がいて、俺はただの繋ぎの保護者だった。元の場所へ返すのが、大人として一番まっとうで、誠実なやり方じゃないか。
木箱の蓋を仮に閉めたとき、ゴトン、と重い音が部屋に響いた。
布団の中に潜り込んでいたメルルが、背中を向けたまま小さく丸まっているのが見えたが、俺は声をかけずにランプの火を消した。
第4章 人形と靴
誕生日の二日前、隣町での手続きを終えたダグが宿場町へ戻ってきた。
ちょうど俺も昼の休憩を長めにもらい、メルルが学校から帰ってくる時間に合わせて、三人で市場の通りを歩くことになった。
「親方のところで、前借りを少し認めてもらえましてね。長屋の鍵も受け取ってきました」
ダグは少し誇らしげに言い、俺の隣を歩くメルルの顔を覗き込んだ。けれどメルルは、俺とダグの真ん中で、どちらの手も握らずにうつむきがちに歩いていた。
ダグはそんな娘の機嫌を取ろうと、市場の入り口にある玩具屋の露店の前で足を止めた。
「メルル、誕生日の祝いに、これを買ってきたんだ。ほら、見てみろ」
ダグが懐の包みから取り出したのは、赤い毛糸の髪をした、綿詰めの抱き人形だった。丸いボタンの目がついた、素朴な人形だ。
「お前が四つの頃、村の祭りで、こういう人形を欲しがって露店の前から動かなかっただろう。あのときは手持ちがなくて買ってやれなかったが……ずっと、いつか買ってやろうと覚えてたんだ」
ダグの声には、五年間止まっていた時間を今こそ動かそうとする、切実な愛情がこもっていた。 メルルは差し出された人形を受け取り、ダグの期待に満ちた目を見ると、きゅっと口角を上げて笑ってみせた。
「……ありがとう。かわいいね」
四歳の頃に欲しがっていたものを、ダグは五年間、ずっと覚えていたのだ。 けれど今のメルルは、市場へ来るたび、真鍮の留め具のついた靴の前で足を止めていた。俺は、それを知っている。 そのことに、ほんの少しだけ勝ったような気がしてしまった。俺はほとんど無意識のうちに、メルルの肩を軽く叩いて言っていた。
「メルル、こっちにも寄るぞ。前に言ってた靴屋だ」
数軒先の革靴の露店へメルルを連れていき、俺は店主にあらかじめ取り置きを頼んでおいた一足の靴を受け取った。 留め具が真鍮でできた、丈夫で少し大人びた茶色の革靴。今の九歳のメルルの足にぴったりのサイズで、メルルがずっと欲しがっていたものだ。
「ほら、誕生日プレゼントだ。隣町へ行くときも、これならどれだけ歩いても足が痛くならないぞ」
俺が靴を差し出すと、ダグがハッとしたようにメルルの足元を見た。ダグの視線が、新しい靴から、メルルの抱く人形へと移る。その顔から、すうっと血の気が引いていくのがわかった。
メルルは右手に赤い毛糸の人形を抱え、左手で茶色い革靴の箱を受け取った。 俺の顔を見上げ、それからダグの顔を見る。 ダグに「ありがとう」と言い、俺にも「ありがとう、お父さん」と言おうとして――メルルの唇が、わなわなと震え出した。
「どうした、メルル。履いてみないのか」
俺がしゃがみ込んで靴箱を開けようとしたとき、メルルの手から人形と靴箱が同時に落ちた。
乾いた土の上に、赤い毛糸の人形と茶色い革靴が転がる。
「……いらない」
「メルル?」
「こんなの、どっちもいらない!」
通りの人々が驚いて振り返るほどの、甲高い叫び声だった。
ダグが慌てて人形を拾い上げ、「メルル、すまん、人形はもう子どもっぽかったか。別のものを――」と手を伸ばした瞬間、メルルはその手を振り払うように一歩後ろへ下がり、ダグを睨みつけて叫んだ。
「帰ってこなければよかったのに!」
市場のざわめきが、そこだけ凍りついたように消えた。 ダグは人形を持ったまま、殴られたように目を見開いて立ち尽くしている。 俺は咄嗟にメルルの肩を掴み、近くの路地裏へと引っ張っていった。ダグには「すみません、少し話してきます」とだけ言い残し、人気のない石壁の陰でメルルと向き合う。
「メルル! なんてことを言うんだ!」
俺は声を荒らげていた。自分の胸の動揺を隠すように、正しい大人の言葉を並べて諭そうとした。
「ダグさんがどれだけ大変な思いをして帰ってきたか、お前だって聞いたはずだろ! 五年間もずっとメルルのことを思って、やっと会えた本当のお父さんなんだぞ。あんな言い方をしたら、お父さんがどれだけ傷つくか――」
「じゃあ!」
メルルが、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、俺の言葉を遮った。 小さな拳を握りしめ、しゃくり上げながら、メルルは俺の目を真っ直ぐに射抜いた。
「じゃあ、お父さんは、私がいなくなっても平気なの!?」
言葉が、喉の奥でつっかえた。
「毎日、私の服を箱に詰めて、ごはんの作り方を帳面に書いて、隣町へ行けって笑って……! お父さんは、本当のお父さんが帰ってきたから、もう私がいなくても平気なんだ! 私がいなくなるの、ちっとも寂しくないんだ!」
「それは……俺は、メルルのためを思って……」
「うそつき!」
メルルは路地の地面を小さな足で踏み鳴らし、声を上げて泣きじゃくった。 俺は何も言い返せなかった。伸ばしかけた手は宙で止まり、自分の指先が冷たく震えていることだけに気づいた。
嘘つき。そのとおりだった。俺は、メルルに選ばれないのが怖かった。だから先に荷物を詰め、自分から別れを決めていた。
前の世界の家族を今も愛しながら、俺はメルルの父になった。それなのに、この子にだけ、どちらか一人を選ばせようとしていた。
俺は路地の地面に両膝をつき、しゃくり上げるメルルの肩へそっと手を置いた。
「……平気なわけ、ないだろ」
やっと出た声は、情けないほど掠れていた。
「寂しいよ。ずっと一緒にいたい。なのに、逆のことばかり言った。ごめん」
メルルは涙で濡れた顔を上げなかった。
「もう、お前に聞かずに行き先を決めたりしない。勝手に箱に詰めたりしないから」
しばらくして、小さな指が、俺の袖をきゅっと握り直した。 ふと視線を上げると、路地の入り口に、土のついた人形と靴箱を抱えたダグが静かに立っていた。ダグは傷ついた顔でうつむき、それでも逃げずにそこへ留まっていた。
第5章 父親同士の夜
その夜、泣き疲れて眠ったメルルを二階のベッドに寝かせたあと、俺はダグを『麦穂亭』の一階へ呼んだ。 営業が終わったあとの暗い客席に、小さなランプを一つだけ置く。親方には事情を話して場所を借りていた。木のテーブルを挟んで、俺とダグは向かい合って座った。
テーブルの上には、昼間の赤い毛糸の人形と、茶色の革靴の箱が並んでいる。 長い沈黙のあと、先に口を開いたのは俺だった。
「……ダグさん。昼間は、すみませんでした。俺が、全部間違っていました」
「ソウマさん……」
「俺は、物分かりのいい保護者ぶって、綺麗事を並べていました。本当のお父さんが帰ってきたんだから、すぐにお返しするのが筋だって。でも、違いました」
俺はテーブルの下で拳を握りしめ、自分の格好悪さをそのまま声に出した。
「俺は、メルルがあなたを選んで、俺のところからいなくなるのが怖かったんです。だから、捨てられる前に自分から送り出そうとして、あの子の荷物を勝手に箱に詰めていました。……本当は、行かせたくない。俺は、これからもこの子と一緒に暮らし続けたいんです」
言ってしまえば、たったそれだけの、子供じみた本音だった。 俺が頭を下げると、向かいに座るダグが、ふうっと深く長い息を吐き出した。
「……俺のほうこそ、謝らなきゃなりません」
顔を上げると、ダグは自分の節くれだった両手を眺めながら、苦い笑みを浮かべていた。
「収容所で石を積みながら、五年間、毎日メルルのことばかり考えていました。あの村の家で、四歳のメルルが俺の帰りを待っている姿ばかりを思い出していた。だから、生きてメルルを見つけ出しさえすれば、あの頃の暮らしがそのまま戻ってくるんだと、勝手に思い込んでいたんです」
ダグの指が、テーブルの上の人形の赤い毛糸をそっと撫でた。
「でも、今日、あんたが渡した靴を見て、メルルに泣かれて、やっと目が覚めました。俺がいなかった五年間、メルルは止まっていたわけじゃない。ここで笑って、泣いて、背が伸びて、あんたを『お父さん』と呼んで生きてきた。その五年を、俺がいきなりやってきて、なかったことみたいに引っ剥がそうとしていたんですね」
「ダグさんだって、メルルと暮らした四年間があるじゃないですか。あの夜の歌、俺は知りませんでした。あの歌を聞いて、俺の知らない二人の時間があるんだと、思い知らされました」
「それなら、お互い様ですね」
俺は手元にあった布巾のきれいなところで、人形の頬についた土をそっと拭った。
向かいでは、ダグが腰の袋から小さな刷毛を取り出し、革靴の留め具に入り込んだ砂を丁寧に払っていた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。ただ、ランプの芯がパチリと鳴る音だけが静かな店内に響いていた。
やがてダグが刷毛を置き、真剣な眼差しで俺を見た。
「ソウマさん。俺、メルルに一度も聞いていませんでした。どこで暮らしたいのか」
「……ええ」
「メルル本人が、これからどうしたいのか。今度こそ、あの子の話をちゃんと聞きたいんです」
俺は、昼間にメルルに掴まれた自分の袖口へ目を落とした。箱に服を詰める前に、聞くことができたはずだった。
「……そうですね。もう勝手に決めないと、さっきあの子に約束しました」
「俺は、メルルの父親を諦めるつもりはありません」と、ダグははっきりと言った。「でも、あんたからメルルを取り上げるつもりもない。隣町の仕事は、まだ本契約の前に断れます。前借りは返し方を相談して、鍵も返します。向こうの親方には、きちんと頭を下げてきます」
「え……でも、それじゃあダグさんの暮らしの目処が」
「腕一本あれば、この宿場町でも大工の仕事は探せます。長屋じゃなくて狭い借間からの出直しになりますが、それは俺が汗をかけば済む話だ。あの子に、どっちの父親を取るかなんて残酷な真似はさせたくない」
「……じゃあ、この町の仕事は、俺も『麦穂亭』の親方や常連の棟梁に聞いてみます。あなた一人で全部引き受けないでください」
ダグは少し驚いたように目を見張り、それから「ありがとうございます」と深く頷いた。 俺たちはそれから、ランプの油が尽きかけるまで話し合った。 翌朝にはまず、二人でメルルに謝り、引っ越しの話をいったん白紙に戻すと伝えること。そして明後日の誕生日には、あの子の望みを聞きながら、三人でこれからの暮らしを話すこと。
席を立つ前、俺は二階から持ってきた古い帳面を取り出し、メルルの暮らしについて書き出した頁を開いてダグの前に広げた。 ダグはそこに並んだ文字をじっと見つめ、少し遠慮がちに口を開いた。
「ソウマさん。……この帳面、俺がもらってもいいですか」
俺の手が、一瞬止まる。
「朝が弱いとか、玉ねぎは薄く切るとか。今のメルルのことを、俺も一から覚えたいんです」
「……そこには、書いてないこともまだたくさんありますよ」
「じゃあ、そのたび教えてください」
「玉ねぎは、薄さだけじゃ駄目なんです。弱火で、透き通るまで炒めないと」
「……今度、隣で見ていても?」
大きな体を少し縮めるようにして訊ねるダグを見て、俺は頷いた。
「ええ、いくらでも。俺も最初は、皿の端に玉ねぎを並べられましたから」
「……きれいに並べるんでしょう」
「ええ。腹が立つくらい、きれいに」
今度は、無理に笑顔を作らなくても、自然に笑うことができた。
二階へ戻る階段を上りながら、俺はふと、前の世界の家族のことを思い出していた。もし、あの世界で残された妻と息子に、いつか新しく支えてくれる誰かが現れたとしたら。俺のことを忘れてほしいとは思わない。それでも、二人にずっと寂しい食卓を囲んでいてほしいわけじゃなかった。
第6章 誕生日、それから
翌朝、俺とダグはメルルに頭を下げ、隣町へ行く話をいったん白紙に戻すと伝えた。メルルは信じられないという顔で木箱を見つめ、それから少しだけ肩の力を抜いた。ダグはその日のうちに馬車で隣町へ出向き、長屋の鍵を返した。前借りは、働きながら少しずつ返す約束をしてきたという。
そして迎えた七の日。メルルの十歳の誕生日の朝だ。 二階の部屋の丸机の上には、甘いにんじんをたっぷり使った鶏肉のシチューと、焼きたての丸パン、そして小さな果物のタルトが並んでいる。 部屋の隅にあった二つの木箱は、蓋を開け放たれたまま置かれていた。
ダグが部屋へ入ってくると、メルルはベッドの端で膝を揃え、ひどく緊張した顔で立ち上がった。手のひらには、幼い頃にダグが作ってくれた、片翼の欠けた木彫りの鳥がぎゅっと握られている。 俺とダグは、改めてメルルの前へ並んでしゃがみ込み、二人で一緒に頭を下げた。
「メルル、ごめん。メルルに何も聞かずに、勝手に荷物を箱に詰めたりして悪かった。俺は、メルルにいなくなってほしくなんか全然ない。これからもずっと一緒にいたいんだ」
「父さんも悪かった、メルル。お前がここで大事にしてきた暮らしがあるのに、急に遠くへ連れていこうとしてすまなかった。今日はな、どっちのお父さんを選べなんて言わない。お前がこれからどうしたいかを聞かせてほしくて来たんだ」
大人二人が頭を下げたのを見て、メルルはぱちくりと目を瞬かせた。 俺とダグの顔を交互に見比べ、胸の奥のつかえが下りたように息を吐くと、メルルは自分からダグの前へ一歩進み出た。
「……私も、謝りたいことがあるの」
メルルは小さな背筋を伸ばし、ぺこりと深く頭を下げた。
「お父さん。おとといは、『帰ってこなければよかった』なんてひどいことを言って、ごめんなさい」
消え入りそうな、けれどはっきりとした声だった。
「本当はね、生きててくれて、すごくうれしかったの。昔の歌を歌ったときも、お父さんの手の傷を見たときも、ほんとに帰ってきてくれたんだって思って、うれしかった」
ダグの大きな肩が震えた。「メルル……」と掠れた声を漏らし、メルルを見つめる。 メルルは顔を上げると、部屋の隅の木箱と、いつも自分が座っている窓際の椅子を見つめた。それから、小さな胸に大きく息を吸い込んで言った。
「……これからも、お父さんと昔のお話とか、いっぱいしたい。でも……」
メルルの指が、俺のベストの端を掴んだ。
「ここから、引っ越したくない。このお部屋で、お父さんの作った朝ごはんを食べて、今の学校のみんなと遊びたい。どっちのお父さんとも、さよならしたくない」
「……そうか。わかった。よく言ってくれたな」
ダグが、目尻に浮かんだ涙を親指の腹で拭いながら、力強く頷いた。
「父さんは、この町で大工の仕事を探して、近くの借間に住むことにした。だから、お前はここから引っ越さなくていい。まずは、ときどきこうして一緒に飯を食うところから始めよう」
メルルの顔が、ぱっと輝いた。
メルルはおずおずと手を伸ばし、ダグの手にそっと触れた。節くれだった大きな指を一本だけ、自分の小さな指で握る。
ダグは一度息を止め、それから、壊れ物を扱うみたいに、ごくゆっくりと握り返した。
俺は立ち上がると、部屋の隅の木箱へ歩み寄り、中に畳んであったメルルの冬物のスカートを一枚取り出した。
「メルル、この服、元の棚に戻そうか」
「うん。でも……先にごはんがいい」
メルルが机の上の湯気を立てるシチューを見て、少し照れくさそうに笑った。
「お腹、すいた」
「そうだな。箱の片づけは、食べてからにしよう」
三人で丸机を囲み、少し遅くなった誕生日の朝ごはんを食べた。 食後、俺たちは三人で木箱から荷物を取り出した。メルルが色鉛筆の箱と絵の束を抱え上げ、ダグが「どれ、重いものは俺が運ぼう」と、箱の底にあった本の束を持ち上げる。
「メルル、色鉛筆は前と同じ机の隅でいいか?」
「……窓のほうがいい。そっちのほうが、絵が明るく見えるから」
「そうか。じゃあ、そこにしよう」
メルルは自分で窓際に箱を置き直した。 三人で一つずつ、木箱から荷物を取り出しては、棚や机の上へと戻していく。ガランとしていた部屋に、またメルルの色と匂いが戻ってくる。 棚の一番下に、あの茶色い革靴が並んだ。そしてメルルは、赤い毛糸の人形の髪を指で綺麗に整えると、ベッドの枕の隣にちょこんと座らせた。
「ここなら、朝まで落っこちないね」
そう言って笑うメルルの横顔を、俺とダグは並んで見守っていた。
ダグはその後、『麦穂亭』の常連の棟梁の口利きで、この宿場町の古い工務店に職人として雇ってもらった。店から歩いて十分ほどの裏通りに、六畳一間の安い借間を借り、そこから毎日現場へ通い始める。 最初は、週に三日、夕食を三人で囲み、休みの日にはダグとメルルで出かける、という約束で新しい暮らしが始まった。
ぎくしゃくしたのは、それから半月ほど経った頃だ。 ある休日の朝、ダグが迎えに来る時間になっても、メルルが部屋から出てこなかった。訳を聞くと、メルルは気まずそうにうつむいて言った。
「……今日は、縄跳びのほうに行きたい」
「学校の友達と約束したのか?」
「昨日、広場で遊ぼうって誘われたの。でも……ダグお父さん、今日のお出かけを楽しみにしてるって言ってたから、言えなかった」
メルルを連れて階下へ降り、土間で待っていたダグに事情を伝えると、ダグはしゃがみ込んでメルルに笑ってみせた。
「そうか、なら今日は縄跳びにしよう。次から、予定を変えたくなったら先に教えてくれるか。言ってくれて大丈夫だからな」
メルルがほっとして友達の元へ駆けていったあと、ダグは工具袋のない手持ち無沙汰な両手を外套のポケットに突っ込み、「じゃあ、また来ます」と店を出ていった。少し丸くなったその背中は、見ているこちらの胸が痛むほど寂しそうだった。
逆に、その翌週。 メルルが風邪気味で学校を休んだ日、ちょうど雨で現場が休みになったダグが看病に来てくれたことがあった。俺が昼の営業を終えて二階へ上がると、二人はベッドの脇で頭を寄せ合い、ダグが小刀で削った新しい木のコマを回して、お腹を抱えて笑い合っていた。 メルルが、俺が帰ってきたことにも気づかないほど夢中でダグに甘えている。休みの日の外出から帰ってきた夜に、「今日ね、ダグお父さんが市場で焼き菓子を買ってくれてね」と目を輝かせて話すのを聞くたび、俺の胸の底に、また小さな嫉妬が沈んだ。
その寂しさを、メルルにどうにかしてもらうわけにはいかなかった。
その週の夜、俺はダグの狭い借間を訪ねて、二人で茶を飲んだ。 部屋の隅の机に、真新しい木の匙がずらりと並んでいるのに気づいて、俺は目を丸くした。
「……ダグさん、この匙、どうしたんですか。十本もありますけど」
「ああ、いや……こないだの休みの日、メルルに断られて帰った晩に、一本削っても眠れなくて。もう一本と思っているうちに、つい」
俺は机に並んだ匙を見た。どれも、口に当たる縁まで丁寧に磨かれている。
「次は、三本目くらいでうちに来てください」
ダグが顔を上げる。俺は苦笑いしながら言った。
「実は俺も、このあいだメルルがあなたの話ばかりする晩に、なんだか羨ましくなってしまって。俺も、眠れない晩がありますから」
「……あんたでもそうなのか」
ダグは目を丸くしたあと、ふっと肩を揺らして笑った。それから、自分の膝の上に置いていた編みかけの毛糸を手に取った。
「それ、靴下ですか」
「ええ。冬になる前にと思って、そのつもりで編んでるんですがね」
節くれだった大きな指が、不器用に編み目を一つずつ確かめる。ダグは眉間に深い皺を寄せ、間違えたところを少しほどきながら言った。
「ソウマさん。夕飯も休みの日も、大人が先に予定を決めすぎたのかもしれません。決めておくから、メルルも『行かなきゃいけない』と断りづらくなる」
「そうですね。……じゃあ、決まった曜日に縛るのはやめて、週末の前の晩に、来週どうするかメルルも入れて三人で話すようにしましょうか」
「ええ。それと、俺のほうも、毎回どこかへ連れ出そうとするんじゃなく、宿題を見てやったり、ただ『麦穂亭』の下で茶を飲んで帰るだけの日があっていいんだと思います」
別の夜、『麦穂亭』の二階で相談していたときのことだ。 茶を淹れてすぐ、俺が流しへ戻って、洗い終えた皿を拭こうとすると、ダグが布巾を指さした。
「ソウマさん、それ、俺に貸してください」
「いや、皿くらいは俺がやりますよ」
「あんたの茶、まだ温かいでしょう」
言われて、俺は机の上の湯呑みを見た。
少し迷ってから、「……じゃあ、お願いします」と布巾をダグに渡し、椅子に座り直して温かい茶をすすった。大きな背中が流しに立ち、皿を一枚ずつ丁寧に拭いていく音を聞きながら、俺はなんだかひどく久しぶりに、自分の肩の力が抜けていくのを感じていた。
夜、一人で台所の後片付けをしていると、ふいに前の世界の妻と息子の顔が浮かんで、どうしようもない寂しさに立ち尽くす夜も、相変わらずなくならない。 それでも、俺はこの場所で、メルルの父親として生きていていいのだと、少しずつ思えるようになっていた。
秋風が冷たくなり始めた、ある七の日の夕方。 俺は肉団子と白菜がぐつぐつと煮えたぎる大きな土鍋を抱えて、二階の部屋へ運んだ。丸机の上で、ダグが端材で作ってくれた新しい鍋敷きの上に鍋を乗せると、部屋中に甘い出汁の湯気が広がる。
「メルル、小皿を並べてくれ。ダグさん、そっちの棚から取り分け用の大きな匙を取ってもらえますか」
「おう、これだな」
「はーい。あ、今日のにんじんは甘いやつ?」
「ダグさんが現場の帰りに、農家の直売所で買ってきてくれたやつだ。甘いに決まってるだろ」
三人で丸机を囲み、湯気の向こうで顔を合わせる。 俺がまず全員の器に一通り具をよそい、いただきます、と手を合わせた。 メルルは真鍮の留め具がついた靴を玄関に揃え、部屋の中では、編み目は少し不揃いだけれど温かい、ダグが編んでくれた厚手の靴下を履いている。ベッドの枕元では、赤い毛糸の人形がこちらを見ていた。
熱々の肉団子を頬張っていたメルルが、空になった自分の小皿を持ち上げて言った。
「あ、お父さん、取って」
その声に、俺とダグが、まったく同じタイミングで顔を上げて振り向いた。 俺の手は、メルルの差し出した小皿へ。ダグの手は、鍋のお玉へ。二人の手が、途中でぴたりと止まった。 俺とダグは顔を見合わせ、きまり悪そうに瞬きをした。
メルルは、同時に振り向いた二人の父親を見て、ぱちくりと目を瞬かせた。 それから、少しだけ首をかしげて考えるようにして――ふっと、いたずらっぽく笑って言った。
「じゃあ、一人がお皿。もう一人がおかわり」
(おしまい)
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