2.すべて適切な瞬間に(1)
双方にとってあらゆる意味で衝撃的だった朝からあれよあれよと時は過ぎ、気づけば翌日となっていた。アルディーティ侯爵家の応接間に通されたラファエロは、長椅子に腰掛けながらぼんやりとガラス製の茶器に広がる黒い水面を眺めていた。
氷の浮かぶそれは一見コーヒーのように見えるが、ベルフィオーレではコーヒーを冷やして飲む習慣はない。恐らく濃く焙煎した麦茶ならぬ麦コーヒーだろう。麦コーヒーはカプチーノやエスプレッソに並んでこの国ではよく好んで飲まれる飲料である。
(先に記者に会っておいたのは正解だったな……)
ラファエロの懐にはマリアンナから託された書簡の他、贈り物用の小箱が入っている。アルディーティ侯爵家唯一の後継者、ガブリエーレへの、誕生日の贈り物である。
昨日、ラファエロはカフェ・バールをいくつか梯子し、件のゴシップ記事を書いた記者をどうにか見つけることに成功した。残念ながら記者からは、夫人の人柄や、アルディーティ公を取り巻く噂の真偽を決定付ける有力な情報は得られなかったが、代わりに今日がアルディーティ公子の誕生日であるとの情報を入手することができたのだった。
公子の誕生日に侯爵家へ行くとあっては手ぶらというわけにもいかない。知らなかったでは済まされない無礼である。ラファエロは常ながら与えられるフォルトゥーナ(ベルフィオーレで広く信仰されている運命の女神)の采配に感謝した。
「大変お待たせいたしました、トリステラ卿。はじめまして、アルディーティ侯爵家エヴェリーナと申します。この度はお越し頂きありがとうございます」
応接室に通されて暫く後、喪服と紛うかのような黒いドレスの貴婦人が静やかと姿を現した。
挨拶のために立ち上がったラファエロは、一瞬「今日はご子息の誕生日ではなく誰かの葬儀だったか」と危うく呆けそうになったが、よくよく見れば彼女の纏う衣装は華やかなレースや装飾がふんだんにあしらわれており、喪服用ではなく茶会などで着る日中用のドレスであることがわかった。黒いドレスは彼女の鮮やかな赤い髪も、若芽のような緑色の瞳も、白磁のような肌もよく引き立てていたが、自分に向けられた笑顔からラファエロは別の感情を汲み取ってしまい、それで喪服と錯覚してしまったのである。
母譲りの直感の鋭さは確かにラファエロを大きく手助けしてくれるが、時にはこのように困惑を招くものでもあった。
(こんな能力ばかり中途半端に受け継いでも、反ってやり辛いものなんだが……気づいてしまったものは仕方ないか)
彼女を悩ませるのは、やはり夫であるアルディーティ侯爵のことだろうか。それとも全く別のことなのか。マリアンナのように、ずば抜けて特別な能力を授かっているわけでもないラファエロには見当もつかない。後のことは全て母に任せることに決め、ここは夫人の悲しみに気づいていないよう予定通り振舞う。
「こちらこそ、急な先触れにも関わらずお時間を割いて頂き光栄です。グランデ・マーレ大聖堂所属、トリステラ伯爵家ラファエロと申します」
「大聖女様のお名前と共に、お噂はかねがね伺っております。こちらこそお会いできて大変光栄に存じます。どうぞ、おかけください」
たおやかな手に椅子を示され、ラファエロは大人しくそこへ座り直す。
(聞いていた話と随分違うな)
賢いが、口を開けば世間体と父親の顔色しか窺わない、血の通った温かみが全くない冷たい女。
彼女をそう評していたのは、何を隠そう彼女の夫であるドナート・アルディーティ本人だった。彼は大聖堂へ足しげく通い、よくラファエロを指名して懺悔室に引きこもる。人当たりが良いので、教会内では信仰心厚い熱心な信者とみなされているが、ラファエロの印象としては「自分と向き合う勇気のない臆病な男」だった。
そもそもがドナート・アルディーティという男は、懺悔をしに来ているにも関わらず自身の罪をはっきりと口にしたことはなく、いつも要領を得ずに自分の不甲斐なさを嘆くばかりであった。優しい人柄であることは認めるが、それ以上に気の弱さが目立つのである。
正確には「賢いが、口を開けば世間体と父親の顔色しか窺わない、血の通った温かみが全くない冷たい女」という評価も、ドナート自身の直接的な表現ではなく、彼の言葉の端々からどうにかこうにかラファエルが汲み取った夫人像であった。
やはり人の話など当てにならないものである。なぜなら今目の前にいる女性は、いつ死んでもおかしくない程人生を諦めきった目をしているのだから。彼女にしてみれば恐らく「冷たい人間」は夫の方なのだろう。
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