1.それは疑問か真相か
「ラファエロ、あなた明日の予定は空いているのかしら?」
意外なことに、彼女が時を遡行したことによる第一の影響は、とある聖人の家門に訪れた。未来の大聖女ラウラ・トリステラの実家、トリステラ伯爵家である。
その朝、ラファエロ・トリステラは食卓でコルネットを千切りながら、今朝読んだばかりの新聞に書かれていたとある記事の内容に思いを馳せている最中だった。端くれとはいえ彼も教会に名を連ねる聖人の一人である。何かしらの勘が働いたのだろう。普段ならば気にも留めないようなゴシップ誌のスキャンダルが、その日は妙に気になったのである。
「そうですね、明日はカフェ・バールに顔を出す予定ですが、それ以外これと言って特には。教会から応援の要請もありませんし、訓練もありません」
彼は母マリアンナの問いに生返事で答えた。どこのバールに立ち寄れば件のゴシップ誌の記者に会えるのか、その算段を立てるのに忙しかったのである。これが良くなかった。
「そう、それなら良かったわ。では明日、アルディーティ侯爵家へお使いに行ってもらえるかしら」
「ごふっ」
思いも寄らぬ母の頼みに、ラファエロは危うく飲んでいたカプチーノを気管支に流し込むところであった。何を隠そう彼が気にしていたスキャンダルの主人公は、まさにドナート・アルディーティ侯爵その人だったのである。
息子の年甲斐もない粗相にマリアンナは僅かに眉を顰めたが、すぐにその視線を彼から逸らした。見ないふりをすることに決めたらしい。暫くの間、ダイニングにはラファエロの咳だけが虚しく響いていた。
「アルディーティ侯爵家にとはまた急な……」
一頻り咽込んだ後、彼は大きく息を吐くと、斜向かいに座す母親を改めて見遣った。
「侯爵はご自宅に寄り付かぬことで有名なお方です。伺ってもお会いできないと思いますが」
「結構よ。わたくしが用があるのは夫人の方だもの。侯爵がご不在なら、反って好都合というものです」
「穏やかではありませんね。国内の信仰を一心に集める大聖女としての顔は、やはり仮面でいらっしゃいましたか」
「お前がどう思おうがお前の勝手ですが、母をそのように悪し様に言うのはお止めなさい。これも全ては我が家の可愛いライラのためです」
「まだ四歳にもならない私の娘とアルディーティ夫人に一体どのような関係が?」
普段は人の良い笑みを崩さないマリアンナの口端が好戦的に吊り上がる。
「わたくしはね、ラファエロ。ラウラには嫁ぎ先でも円満に過ごしてほしいの。そう、間違っても親殺しの夫になど嫁がせたくはないわね」
白一本混じらぬブロンドの髪。活き活きと輝く榛色の瞳。年齢を感じさせないその若々しい顔貌は、我が親ながら鏡の中で見る自分の姿によく似ているな、とラファエロは感心した。同時に、母の虹彩が極光色の輝きを放つ様を見て取り、「私はやはり聖人としてはただの端くれにしか過ぎないのだ」と達観とも諦めともつかぬ心持ちにもなった。
「深くは聞かないでおきます」
「わかってくれたのなら良いの」
両手を上げて降参の意を示すと、マリアンナは満足げに茶器を口元へ運ぶ。
(やれやれ、カフェ・バールには今日中に顔を出した方が良さそうだな。しかし今度は一体どんな未来を視たのだか……)
先祖を尊ぶこの国で、親殺しなどそうそうある話ではない。どうせまた母お得意のお節介が始まり、自分はそれに振り回されるのだろう。この時、ラファエロはそんな風にしか考えていなかった。まさかマリアンナから頼まれたこの「お使い」とやらが、彼自身とまだ出会わぬ彼女の人生に大きな影響を与えようとは夢にも思わなかったのである。
◆ ◆ ◆
さて、ラファエロが母親から娘の将来に対し脅しめいた予言を受けていたまさにその頃、渦中のアルディーティ侯爵夫人エヴェリーナは、侍女に夜着を着替えさせられながら大いなる混乱の最中にいた。侍女が容赦なく身体を締め付ける着付けの苦痛も「普段なら耐えがたいのにその時は一切気にもならなかった」というのだから、その狼狽ぶりは余程のことであったのだろう。
(どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして)
朝の身支度を整えている間、エヴェリーナの中にはずっとその言葉だけがぐるぐると脳内を占拠していた。この時の彼女の「どうして」を掘り下げれば三つの疑問に分類できる。
まず一つ目、「どうして時間が逆行したのか」という疑問。当時のエヴェリーナは知らなかったであろうが、これはベルフィオーレの聖職者であれば誰もが学ぶ代表的な奇跡の一つであった。この国の古代史で名だたる功績を残した英雄・女傑の逸話には、得てして「時を遡る」という事象が少なからず記録されていたのである。
エヴェリーナの体験は紛れもなく神々が人間に与える恩寵の一つであった。しかしこの時彼女がその知識を持っていたとしても、やはり「どうして」と思わざるを得なかっただろう。何故なら「時戻りの恩寵」には必ず当事者に試練が与えられるものだからだ。少なくともエヴェリーナにはそのような試練など身に覚えのないことであった。
次に二つ目、「どうしてこのろくでもない人生をやり直さなければならないのか」という疑問。
自分が回帰したことに気づいたエヴェリーナの絶望感は「ツルハシを放り投げたくなるほど」であった。この国には「どん底に落ちたら掘れ」という言葉があるが、この時の彼女の自己評価は「常にひたすらどん底を掘り続けてきた人生」だった。もう十分掘りつくした。これ以上掘り進む気力も希望もなかった。エヴェリーナは生きる自信を完全に失くしていたのである。
そしてこれがまさに彼女が在りし日の未来で、息子の婚約者であるライラの殺害を目論見た、その主たる動機でもあった。
自分を押さえつけ一向に顧みなかった父親。外に愛人を作り家にも寄り付かなかった夫。せめて子育てだけでも立派にと空回りした結果出来上がったのは、自分を心底恨み事ある毎に怒りをぶつけてくる息子。
怒りに歯を食い縛りながら粗々しく切り開いてきた人生は敵しか作らず、家族は疎か彼女に仕える使用人にさえ一人の味方もいなかった。当然友人など居ようはずもない。
可哀想に、既に失うものなど何もなかったエヴェリーナは、良く言えば無敵、身も蓋もない言い方をすれば完全なる自暴自棄に陥っていた。
(完璧な計画だったはずなのに……確実に死刑になると踏んだから、だからあそこまでやったと言うのに……私は確かに処刑されたはずなのに……)
故に、三つ目の「どうして」は、
(あそこまでしたのに、どうして死なせてくれないのよ!!)
神々に対するあまりにも切実な、ぶつけようのない恨みと怒りであった。
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