四
次の日。シアは、夜勤から帰ってきて、まだ眠っているリクへ、温めれば食べられる簡単な食事を作って、会社に向かった。
泣いたことで少し腫れた目は、化粧で誤魔化した。ソニアや周囲の人から何も言われないということは、それほど目立たないのだろう。
リクは、今日は昼から仕事で、明日の朝に帰ってくる。そのあとはニ連休だと言っていたはず。シアはどちらも仕事だけど、夜に話せば良い。
大丈夫、まだ時間はある。
心を落ち着かせて、できるだけ冷静に。
最後くらい、優しいあの人を困らせないように。
「シアちゃん、大変!!」
けれど夕方、あと少しで終業時間という時だった。
何かの電話を受けていたソニアが、顔を強張らせてシアに言った。
「シアちゃんの旦那さんが、仕事中の事故で……!」
ソニアの言葉を聞いたシアは、目を見開いた。
「……え?」
「王都警備隊の人からよ。シアちゃんの旦那さんが、工事現場の足場が崩れて、その下敷きになったみたい。病院に運び込まれたから、向かってくれって!」
病院までは、社長が辻馬車を呼んでくれた。
消毒液の匂いが強く香る中、受付でリクの病室の場所を聞いて、慌ててそちらに向かう。
病室は三階の南側。
すでに医師による治療は終わっているらしい。
廊下に表示されているネームプレートを見上げて、リクがいる病室を探していると、目の前から見覚えのある人が歩いてきた。
リクとは少し違うデザインをした王都警備隊の制服。
肩までの波打つ金茶色の髪、少し垂れた目がシアを映し、美しく塗られた唇が開く。
「あら、ご家族のお見舞い? もしかして病室がわからないのかしら」
リクが弁当を忘れた日。
王都警備隊の本部で、リクと笑いあっていた女性。
——そうだ。リクが好きな人は王都警備隊の人だ。
職場が同じなら、連絡はすぐに行くだろうし、何より名前だけの妻であるシアが駆け付けたって。
シアが立ちすくむと、女性はシアに近づいてにっこりと笑った。
「よかったら、一緒に病室を探すわ。相手の方の名前をお伺いしても良い?」
「……えっと」
こうして間近でみると、本当に綺麗な人だった。
子供っぽいシアとは違う、大人の女の人。
リクが好きになるのも、仕方ないと思える人。
このまま、この人と一緒にリクの病室に行って、あの時のように二人が笑い合うのを見るのは——嫌。
……そうだ。
いっそのこと、階を間違えたと言って帰ってしまおうか。
この人がそばにいるなら、シアはいらない。
「……すみません、階を間違え」
「あら? あなた、もしかしてオルディンの奥さん?」
突然、女性は笑顔のまま、ぎゅっとシアの手を逃さないというように握った。
「あなた、シアさんよね?」
「え、あの……」
「やっぱり! オルディンからよく話を聞いているわ」
オルディンは、リクの名字だ。
戸惑っているシアをよそに、女性はシアの手を引いてズンズン廊下を歩いていく。
「一度会ってみたかったのよね、オルディンの奥さんに」
「えっと……」
女性は足を止めず、キビキビとシアを引きずりながら歩いていく。
「オルディンってば、結婚してからずーっと『俺の嫁は可愛い』って言い続けているくせに、少しも会わせてくれないんだもの。毎日お弁当も作ってくれて、こんなに可愛くて優しいお嫁さんだなんて、わたしが結婚したいぐらいだわ」
女性はぴたりと、一つの病室の前って足を止めた。
「オルディンの病室はここよ。まだ眠っているけれど、打ち身以外に怪我はないって聞いているわ」
そうそう、と握っていたシアの手をぱっと離した女性は、思い出したように言った。
「オルディンなんだけどね、この近くの工事現場で作業員同士の乱闘があったのよ。それで、オルディンの部隊が向かったのだけど……作業員同士の乱闘で、足場が崩れてしまって。別の隊員を庇って、木材の下敷きになってしまったみたい。骨折もせず打ち身で済んだことは、お医者さまもびっくりしていたけどね」
そこまで言った女性は、シアを見てくすりと笑った。
「あなたの顔見たら、彼、泣いてしまうかもしれないわね。他の隊員が言っていたけど、病院に運び込まれる時、ずっと譫言みたいに、あなたの名前呼んでいたらしいし」
「え…?」
リクくんがわたしの名前を……?
目を見開いてシアが立ち尽くしていると、女性は自分の手首に付いている腕時計に視線を落とした。
「そろそろ、本部に戻らなくちゃ。シアさん、悪いんだけど、オルディンが起きたら、事務手続きは終わっているって伝えといてくれるかしら」
「あ。はい……わかりました」
シアはハキハキと話す女性の勢いに飲まれて、思わず頷いてしまった。
女性は返事をしたシアに「ありがとう、また今度ね」と手を振ると、もと来た廊下を歩いていく。
その背中を呆然と見つめていたシアは、はっとしてリクの病室のドアを開けた。
病室のベッドで、布団をかけられて仰向けに横たわっているリクの上半身が、呼吸でゆっくりと上下している。
覗き込んだ寝顔は穏やかだけれど、頬や額には擦り傷があり、肩は包帯で固定されていた。
「……リクくん」
リクに幸せになって欲しくて、離縁しようと思ったのに……こうやって顔を見ると、その決意も揺らいでしまう。
やっぱり、好き。
好きで、好きで、仕方ないぐらい、好き。
止まったはずの涙がまた滲みそうになって、慌てて瞬きで押し留める。
ベッドのそばに備え付けられている椅子に座って、眠っているリクの顔を見つめ続けた。
十分、二十分、三十分……どれだけ時間が経ったのだろう。
「……シア」
小さく掠れた声が聞こえた。
「リクくん!」
シアが椅子から立ち上がってリクの顔を覗き込むと、ぼんやりと目を開けたリクと目が合った。
「……シア。何で……ああ、あいつらが知らせたのか」
かさついた声を出し、腕を動かそうとしたリクは、すぐに「痛ぇ……」と呟き顔を顰めた。
「動いちゃだめだよ、すぐにお医者さんを呼ぶね!」
シアが慌てて医者を呼ぼうと、病室のドアノブを掴んだ時だった。
「……シア、待て」
リクの声にシアは振り返った。
リクがベッドに横になったまま、視線だけをシアに向けていた。
「どうしたの?」
ベッドに近づいて顔を覗き込むと、痛みを堪えるように眉を寄せつつ起き上がったリクが、突然シアの片腕を掴んだ。
「リクくん、怪我しているのに動いちゃ」
「何だよ、あの離縁届」
その低い声に、シアは目を見開いて動きを止めた。
どうして……どうして、リクくんが離縁届のこと知っているの。
「何であんなもの持ってるんだよ。他に好きな男でもできたのか?」
想定していなかったことを言われて、シアは目を見開いた。リクの明るい茶色の目が、逃さないというように、じっとシアを見つめている。
「たとえそうでも……俺は絶対、お前と離縁しないからな」
握られた腕が、痛い。
「何か言えよ……シア」
もう一度名前を呼ばれて、じわりと涙が込み上げる。
「……だって、」
込み上げてくる涙を、もう抑えられない。
「わたし、リクくんに甘えてばっかりで」
俯けば、ぽたぽたと床に落ちていく大粒の水滴。
「だから、リクくんに甘えるのはもうやめようと思って」
「はあ? 何だよ、それ……」
涙で目も前が滲んで、リクが今どんな顔をしているのか分からない。
「なあ、シア。俺、何かしたか? 俺と一緒にいるの、嫌になったか……?」
「嫌になったことなんてない……!」
それでも、もう気持ちを我慢することはできなかった。
「だけど! わたしはリクくんのこと、大好きだけど……わたしと結婚してたら、リクくんは本当に好きな人と結婚できない……!」
「待て、シア。お前、何言って……」
「お見合いだって、自分で何とかするべきだったの! 貴族に戻りたくないからって、リクくんに頼るべきじゃなかったの……」
リクがこんな大怪我をしている時に言う自分は、きっと最低だ。もう「兄」と「妹」にも戻れない。
「こんな時にごめんなさい……リクくんは、本当に好きな人と……幸せになって」
「ふざけたこと言うな」
顔を見られないまま、震える声でつげた後だった。
体を引き寄せられて、気づいた時にはリクの両腕が背中に回っていた。
引き寄せられて、少し屈んだ体勢のまま、抱きしめられて伝わってくる体の熱。その熱さに涙は止まり、別の意味で顔が赤くなっていく。
どこか苦しそうに吐き出された、言葉は。
「他に好きなやつ? なんだよ、それ……俺が好きなのはお前だけだ」
「す……」
リクくんが、わたしのことを好き……?
衝撃すぎて、頭がうまく回らない。
「ま、待って……」
脳裏に、さっき病室の近くにいた女性とリクが楽しそうに話していた光景が蘇る。
「じゃあ、さっきの女の人は……?」
「さっき? 誰かいたのか?」
怪我をしたとは思えないほど、リクは強い力でシアの体を離さない。
「肩までの髪をした、綺麗な女の人……」
「肩までの髪……?」
「王都警備隊本部の、受付にいた……」
シアがそこまで言った時、ばっとリクが体を離し、シアの顔を見た。
「もしかして本部に来たのか!?」
その焦った顔に、シアの胸がギシリと痛む。けれど、焦った様子のままリクが続けたのは、シアの思ってもみないことだった。
「どこかの奴に声かけられたりしてないな? 一緒に飯食べに行こうとか言われてないよな……? まさか言われたのか!?」
「い、言われてないよ!」
異常なほどのリクの焦りように戸惑いながら、慌ててシアは首を振る。
「リクくんがお弁当忘れたまま、仕事に行ったから、お昼前に警備隊の本部まで持って行っただけ……」
「あの日か!」
シアを見つめたまま、リクがゴクリと喉を鳴らして息を飲み込んだ。
「何で俺に言わなかったんだ……?」
シアはリクの視線から逃げるように顔を伏せた。
もう泣きすぎて化粧も落ちているだろう。見られたものじゃない顔をしている自覚がある。
脳裏に浮かぶのは、あの日、リクが他の女の人と楽しそうに笑う笑顔。
シアといる時には見せなくなった、温かなあの笑顔。
「……リクくんが、受付の女の人と楽しそうに話しをしていたから」
「受付?」
数秒の沈黙の後、指先がぎこちなく、頬を伝う涙に触れた。
「あれは、違う。あいつは、同僚の嫁なんだ。結婚生活はどうかと聞かれて」
その、とリクが言い淀む。
「嫁は可愛いし、作ってくれる飯は美味いし……結婚とは良いものだなって話していたんだ」
息が止まりそうになった。
結婚は良いもの? ……本当に、そう思ってくれているの?
「じゃあ、何で前みたいに笑ってくれないの? 何で寝室別々なの? 何で……キスもしてくれないの……?」
「……その、本当はもっと、時間をかけるつもりだったんだ」
俯いたままのシアへ、リクがしどろもどろになりながら続けた。
「ごめんな。結婚式だって、本当はもっと豪華なやつが良かっただろ? ドレスも、普通はオーダーメイドで作るんだろう? 俺、急いでいてさ……お前にまた別の見合い話が出ないうちに、さっさと結婚しておかないとと思って」
苦く吐き出された声が、静かに病室に響く。
「今思えば、お前の弱みにつけ込むような言い方だったよな」
「わたし、……リクくんは優しいから同情してくれたんだと思ってた」
シアが小さな声で呟くと、リクが呆れながら言った。
「お前は俺をどれだけ善人だと思ってるんだ。……俺はお前が思っているほどいい奴じゃない。いくら昔からの知り合いでも、同情で結婚なんかしねえよ」
その声があまりにも優しくて。
シアが顔を上げると、リクは弱ったような、困ったような顔でシア見ていた。
「本当は、どろどろに甘やかして、俺から離れられないようにして、それから結婚しようって言うつもりだった。だけど、思っていたよりも、ずっと早くお前が他の男と結婚するって言うから」
リクの指先がぎこちなく、俯いたままのシアの頬に触れた。
「好きでもない男といきなり夫婦になって、お前が戸惑ってるんじゃないかって……もっとお前の話を聞けばよかった。勝手に空回りして、お前のことを傷つけてたんだな……本当に悪かった」
触れてくる指の温かさに、涙が止まらない。
「ああ……クソ……嫁は泣かすし、仕事で気絶するし……格好悪すぎるだろ、俺……」
リクの自嘲するような声に、シアは顔を上げた。
「そんなことない!」
はじめて、自分から腕を伸ばしてリクに抱きついた。
「リクくんは格好いいよ、世界で一番格好いい……!」
リクの首に両腕を回して、子供のようにわんわん泣いた。幼い頃、シアが泣いていると、気づけばいつも一緒にいてくれた。
——今も変わらずに側にいてくれるのが、嬉しくてたまらない。
「なあ、シア……まだ俺のことを嫌いになっていなければ、離縁なんて言わないでくれ」
いつも溌溂としているリクの、こんなに弱々しい声を、はじめて聞いた。
しゃくり上げながら、シアも必死に言葉を紡ぐ。
「わたしも、リクくんと一緒にいたい……」
「シア」
頭を引き寄せられて、そのままキスされる。それはシアにとって、一瞬にも、数秒にも思える時間だった。
目を開けると、まつ毛が触れそうなほど近い距離で、リクが優しく笑っていた。
「シア」
頬か、自分でもわかるほど熱い。
けれど突然、優しく笑っていたリクの動きがぴたりと止まった。そのまま、ゆっくりと背中からベッドに倒れ込んでいく。
「悪い、シア。限界だ……医者、呼んで、く……れ……」
「え、リクくん!? だ、誰か来て!!」
そのまま気絶したリクを見て、真っ青になったシアは慌てて医者を呼ぶために病室を飛び出した。
◇◇◇
三日後。
「めちゃくちゃ可愛いじゃないですか、隊長の奥さん!」
「筋肉ばっかりのくせに!」
「前世でどんな善行を積めば、料理もうまくてこんな可愛い嫁が貰えるんだ!!」
「俺も隊長になれば、もしかして!?」
「うるせえ! 俺の女に近寄るな、お前ら、まだ仕事中だろ、さっさと行け!!」
病室にリクの怒声が響いた。
見舞いに来たシアを珍しそうに見ていた警備隊の隊員たちが、慌てて病室を飛び出していく。
白い病院着を着たリクが、滑らかに動くようになった両腕で自分の頭を抱えた。
「こうなるから、シアをあいつらに見せたくなかったんだ……」
シアがベッドのそばの椅子に座って、赤くなった頬を両手で押さえていると、それに気づいたリクが面白くなさそうな顔をして、シアを覗き込む。
「おい、シア。あいつらに可愛いって言われて喜んでるのか?」
不機嫌そうな声音にシアは頭をぶんぶんと降って、赤い頬をしたまま小さな声で答えた。
「リクくんに『俺の女』って言われた……」
部下へ「俺の女」と言ってくれたということは、シアのことを、ちゃんとリクが周囲にも「妻」だと言ってくれていると言うこと
……嬉しい。
頬の熱がなかなか冷めず、両手を離せずにいるシアを見て、リクが再び頭を抱えた。
「何だ、それ……可愛すぎるだろ」
シアがうまく聞き取れない声量でぶつぶつ呟いていたリクは、頭から手を離すとシアへ視線を向けた。
「そうだ、退院が明後日に決まったんだ」
「本当に!?」
ぱっとシアは顔を上げ、ほっと安心した笑みを浮かべる。
「よかった……」
リクが病院で入院している間、心配した両親や兄姉から、実家で寝泊まりするよう言われている。
久しぶりに帰った実家は、懐かしくて安心できたけれど、どうしてか馴染めない感覚があった。
まだ半年と少ししか暮らしていなくとも、やっぱりシアが帰る家は、リクと暮らすあの家なのだ。
「なあ、シア」
名前を呼ばれて顔を向けると、リクが頭の後ろで両腕を組み、知った顔でシアを見ていた。
「そろそろ、夜は同じ部屋で寝ようか」
「え?」
「シアは昔から寒がりだからな、一緒に寝た方が温かいだろ。それに……」
悪戯っぽく笑ったリクが体を起こして、驚いているシアの栗色の髪に手を伸ばす。
「俺たち、夫婦だしな」
「……うん」
シアの林檎のように赤い顔に、リクが吹き出すまで、あと三秒。




