三
「シアちゃん、顔色が悪いよ。今日は早めに帰りなさい」
何とか気持ちを落ち着かせて職場に戻ったものの、その顔色の悪さを心配した上司にそう言われてしまい、シアは早めに仕事を切り上げて家に帰った。
夕闇が近づいてくる薄暗い部屋の中で、ずるずるとソファに座ったシアは、リクに渡せなかった青い弁当袋を取り出した。
今日もきっと、リクは遅い。
もしかして、帰りが遅い日はいつも、あの人と一緒に過ごしていたのかな。
休みの日はよく鍛錬するって言って出掛けていくけど、本当はあの人と会っていたのかな。
考え出したら、きりがなかった。
何より冷静になって考えてみれば、手を繋ぐことも額へのキスも、家族同士だってすることだ。
結婚したのに、寝室が最初から別々なのも、他に好きな人がいたからで。
ただ、同情で結婚してくれただけ。
ふとリクが忘れていった弁当のことを思い出す。青い包みを開き、スモークチキンのサンドイッチを一口食べてみた。
何度も作っているのに——はじめて食べたサンドイッチは、苦手な香辛料の味が口いっぱいに広がって、辛くて塩っぱかった。
「……塩、入れすぎたかな」
呟いた声は、みっともないほど震えていた。
◇◇◇
「ただいま!」
その日は、いつもより少しだけ早くリクが帰って来た。
リクは珍しく、どこか焦った様子で夕食を作っていたシアに近づくと、申し訳なさそうな顔で言った。
「シア、悪い! 今日、急いでて弁当持っていくのを忘れた。なあ、まだ残ってるか!? 残ってたら、今から食べたいんだけど……」
台所でコトコトと煮えている鍋を見つめながら、シアはリクの言葉に小さく肩を震わせた。
「……お弁当、たべちゃったの。お腹、空いてて…」
「は!? お前が、俺の弁当を食べた……? 大丈夫なのか、それ。だってお前……」
ゆっくりと視線を向け、にっこりと笑う。
「うん、ちゃんと味見してみようと思って」
大丈夫。綺麗に笑えているはずだ。
シアだって、出来損ないだけど貴族としての教育は受けてきた。
姉ほど上手くはないけれど——隙のない綺麗な笑顔を見せることぐらいできる。
シアの顔を見たリクは何か言いたげな顔をしたけれど、そのまましばらく黙った。
「……そうか。残っていたら食べたかったんだけど…」
リクの声が残念そうに聞こえるのは、きっと自分の願望だ。もしかしたら、本当は弁当だって要らないのかもしれない。
シアは再び鍋に向き直りコンロの火を止めた後、声が震えないように気をつけて言った。
「晩ご飯、もうすぐできるから。先にお風呂に入ったらどうかな」
「ありがとう。シアの作る料理は美味いから楽しみだ」
本当にこの人は、わたしに優しい言葉ばかりかける。
滲みそうになる視界。お願いだから、あとちょっとだけ耐えて。
「…あのさ、シア」
名前を呼ばれて、声が震えそうになったのを必死に堪える。
「……何?」
「疲れているなら無理にとは言わないし、弁当を忘れた俺が言えることじゃないけど……よかったら、明日も弁当作ってくれるか? 俺、シアの作る弁当、好きなんだ」
どうして、そんな優しい声でわたしに言うの。
「うん、明日もちゃんと作るよ」
「……ありがとう。じゃあ、風呂に入ってくるよ」
どこがぎこちない空気で一緒に夕食を食べた後、シアはリクに「おやすみなさい」と告げて、そのまま自分の部屋に駆け込んだ。
布団を被って、堪えていた涙をそのままに、声を押し殺す。
結婚してからはじめて、シアはリクと一緒の部屋じゃないことに安堵した。
心が、死んでしまいそうだった。
◇◇◇
どんなに辛くても、朝はやってくる。
鳴り響く目覚まし時計を止めて、シアはのろのろとベッドから起き上がった。
いつも通り髪を整え、服を着替えて薄くお化粧をする。
あの日から、鏡を見るたびにリクと笑い合っていた受付の女性が目に浮かぶ。
けれど、鏡に映るのは、地味な栗色髪と紺色の目、そして子供っぽさが残る顔。
自分があの女の人のようになれないことは、ちゃんとわかっている。
リクは弁当を持っていくのを忘れたことを、シアが予想していた以上に申し訳なく思っているらしい。
朝、仕事に行く前に、何度も鞄の中を確認するようになった。
そこまで、気にしなくていいのに。
リクは、子供の頃から何年経っても、変わらずに優しい。
いつまで、この関係に甘えていられるだろう。
あと三日? あと一週間? それとも、ひと月…?
最近は、毎晩眠るたびにリクが他の女の人と笑い合っていたり、手を繋いだりする夢を見た。
早く現実を見ろと、そう言われている気がした。
年末が近づき、リクは仕事が忙しくなったのか、夜勤が増え、朝食を一緒に食べることも減った。むしろ、明け方に帰ってきて、シアが仕事に行く時間も寝ていることが増えた。
リクからは「自分が寝ていたとしても、シアが仕事に行く前には起こして欲しい、声をかけてほしい」と言われていたけれど、疲れて帰ってきたリクを起こすことは、どうしても忍びなかった。
ねえ、本当に夜勤なの?
本当は仕事じゃなくて、あの女性に会っているんじゃないの?
そんな疑問が自分の中に浮かんできた時は、思わず笑いそうになった。
同情で結婚してもらったシアに、そんなことを思う資格はないのに。
何より、シアがこのままリクの「妻」でいれば、リクは本当に好きな人と一緒になれない。
そろそろ、終わらせる時なのだろう。
夫婦じゃなくて、「兄」と「妹」に戻る頃なのだろう。
だけど、優しいリクからはきっと、言い出せないだろうから。
「シアちゃん、顔色悪いよ。大丈夫?」
その日の朝、職場でソニアがシアを見て、心配そうに言った。
「はい、大丈夫です。あ、でも今日はお昼で早退させてもらうことになっていて」
「あら、そうなの? シアちゃん、最近元気がないし、ちょっと心配していたの。今日は早く帰って、美味しいもの食べて、ゆっくりしてね」
「ありがとうございます。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「気にしないで。誰だって調子が良くない時はあるわ」
微笑んで言ってくれたソニアに、シアは心が温かくなる。面倒見がよいソニアは、実姉のミアとは似ていないけれど、シアにとってもう一人の姉のような感覚だった。
正午過ぎ、職場を早退したシアは、真っ直ぐに役所へ向かった。
受付にいる役所の職員に声をかけた時は、心臓がどきどきして指先まで震えた。
「すみません……」
「はい、どうしましたか?」
笑顔を向けてくれた職員に、シアは精一杯声が震えないように言った。
「離縁届、ください」
役所の職員から渡されたその紙は、とても薄っぺらかった。この紙一枚で、全てが終わってしまうのが不思議だった。
離縁届を鞄に入れて、ふらふらと家までの道を歩いていた時だった。
「シア?」
聞こえてきたのは、懐かしい声。
顔を上げるとそこには、頭の上から足の先まで完璧な淑女の格好をした姉が、一人の男性を連れて立っていた。
「お姉さま……」
「珍しいわね、シア。こんなところで会うなんて」
「お姉ちゃんこそ、馬車じゃないなんて珍しいね……」
シアが目を丸くして姉のミアを見つめると、姉はレースの手袋を付けた手で、そばに立っていた黒髪の男性を示した。
「レオンが、紅葉を見に行こうって言うから。馬車の窓から見ればいいのに、どうしても歩くって言うのよ」
姉が示した男性を見たシアは、ようやく思い出した。確かこの人は、公爵家の三男で、ミアの婚約者だ。
シアがまだ実家にいた頃だ。
姉の婚約が決まり、挨拶に来た姉の婚約者と一度だけ話したことがあった。
美しい姉と、それに負けないほど整った顔立ちの義兄になる予定の人は、とても似合いの二人に見えた。
ちょうどあの頃、シアはリクとの結婚の準備でバタバタしていて——その時が一番、幸せだったのかもしれない。
滲んでいく視界の中で、姉が驚いて目を見開くのがわかった。
「シア!? どうしたの、急に。あの脳筋と何かあったの?」
「お、姉さま……」
シアを慌てて抱きしめてくれた姉からは、記憶と変わらない花の香水の匂いがした。
◇◇◇
「何ですって?」
姉の声がカフェの個室で響く。
少し離れたところに待たせていた馬車へ、泣きじゃくるシアを押し込んだ姉は、貴族御用達のカフェの個室で華奢なティーカップを片手に目を見開いた。
「あの脳筋が不貞…? 本当なの、シア」
その不穏な言葉に、慌ててシアは涙で濡れた顔を上げる。
「不貞じゃないよ! リクくんが本当に好きなのはその人だっただけで」
「……はあ?」
姉の声が硬くなり、ティーカップを持つ手がぷるぷると震えている。
「可愛いシア。ちょっと何を言っているか、私にはわからないわ。いくつか質問してもいいかしら」
「え……うん」
姉から借りたハンカチで涙の跡を拭っていたシアは、きょとんとして頷いた。
「シアはあの脳筋……リクと結婚したわよね?」
「……うん」
正確には、「してもらった」が正しいのだけれど。
「こんなことを聞くのは正直言ってどうかしらと自分でも思うのだけど……シアは結婚する時、リクには何て言われたの?」
「何てって……」
「プロポーズよ、プロポーズ! いくらあの脳筋でも、結婚してくれぐらいは言ったでしょう!?」
ハンカチを握りしめてシアは俯いた。
そうだ。あの時、リクの優しさに甘えないで断っていればよかったんだ。
そうすれば、こんなことにはならなかった。
「……他の人と、お見合いするぐらいなら、俺と結婚しようって」
俯いたまま、ぽつりとぽつりと言葉が溢れる。
「そうすれば、貴族に戻らなくて良い、仕事も続けられるって」
「何よ、それ……」
俯いていても、姉が絶句するのが気配でわかった。きっと、リクの優しさに甘えたシアを呆れているのだろう。
止まっていた涙が、またじわりと溢れ出す。
「ねえ、お姉さま……わたし、リクくんと離縁する」
そうすれば、リクだって好きな人と一緒にいられる。
叶わない初恋に、夢を見るんじゃなかった。
「許さない……あの脳筋男、絶対に許さないわ」
ああ、そう言えば。
シアは、姉の鋭い声を聞いて思い出す。
姉は何も言わなかったけれど、シアがリクのことをずっと好きだったことを知っていたと。
でもね、違うの、お姉さま。悪いのは、わたしなの。
リクくんの優しさに甘えて、そのまま頷いてしまったのはわたし。
助けてくれたリクくんは、何も悪くないの。
そう言おうとしたけれど、込み上げてくる涙に、言葉がうまく出ない。
「……待って、ミア。それからシア嬢も」
静かな声がした。
驚いたシアが瞬きで涙を堪えながら目を向けると、姉の隣に黙って座っていた、姉の婚約者が口を開いていた。
「シア嬢の夫が話していたのは、本当に恋人だったのかな? 実は、ただの仕事仲間や友人だったりはしないか?」
「……レオン。勝手に口を出さないで。あなた、何も知らないでしょう」
姉が睨むが、姉の婚約者は気にした様子もなく肩をすくめた。
「何も知らないから、言えるんだよ。それに、世の中には女性の友人がいる男は大勢いる」
「……あなたが言うと、現実味を帯びるわね」
「身から出た錆なのはわかっているけどね」
姉の婚約者の声には、どこか苦い音が混じっていたけれど、その理由が何なのかシアにはわからなかった。
「とりあえず一度、夫と話してみたほうがいい。それでも別れたいのであれば、こちらとしても手を貸そう」
「……まあ、そうね」
いきり立っていたミアがため息をついた。
「シア。とりあえずリクと話をしなさい。あの脳筋が不貞しているとは、さすがに私も思ってはいないけれど……でも、やっぱりシアを泣かせたことは許さないわ」
ふたたび姉の手にあるティーカップがカタカタ揺れる。
「ミア」
「わかってるわよ」
姉はティーカップをソーサーに戻すと、シアをじっと見つめた。
「いい? リクと話すのが先決だけど、勝手に一人で決めちゃだめよ。リクと別れるのであれば、まず実家に帰ってきなさい。シアは変なところで行動力があるから、勝手に次の家を決めたりしそうだわ」
姉の指摘にシアは視線を伏せた。
すでに考えていたことだった。
シアと別れたあと、きっとリクはあの女の人と暮らしたいと思うはず。
だから、二人の邪魔をしないためにも、早く別の家を探さなくちゃ。
実家には出産を控えている兄嫁と、結婚を控えている姉がいる。シアのような問題ばかりの娘が、実家を頼るなんて、きっとおこがましい。
そう答えたシアの言葉に、姉は呆れたようにため息をついた。
「誰もそんなことは思っていないわ。シアはいつも真面目すぎるのよ」
「でも……」
「とりあえず、その書類も」
姉が綺麗な指先で、カフェテーブルの上の離縁届を示す。
「書くのはリクと話してからにしなさい。あの男のことだから、逆上はしないでしょうし……あと、変なリストも作っちゃだめ」
「リスト?」
姉の婚約者が、怪訝そうに問いかけた。
「この子『やる』と決めたら、すぐに行動リストを作るのよ」
さすがは、ずっと一緒に育った姉だ。シアが次に何をしようと思っていたかを、鋭く当ててくる。
「リクと顔を合わせたくなかったら、今日は私と一緒に実家に帰ってもいいし」
「ううん……大丈夫。リクくん、今日は夜勤で帰ってくるの明日の朝だから」
「……そう」
本当はリクがいない間に離縁届を書いて「離縁するまでにやることリスト」を作ろうと思っていたんだけど……姉に止められてしまうなんて。
「とにかく、今日はよく寝て、ちゃんと食事も取るのよ。シアは食が細いんだから」
「うん……わかった」
薄闇が空を覆う中、心配げな姉とその婚約者に、馬車で家の近くまで送ってもらう。
家の鍵を開けて、薄暗い家の中で一人ソファに座り込む。
リクと話すのが怖い。
本当に好きな人と幸せになってほしい。その気持ちに、何も嘘はないのに。
自分ではない人を好きだと言うリクの姿を考えるだけで、体が震える。
きっと、リクの優しさに甘えて夢を見てしまったシアへの罰なのだろう。
左薬指にはめている細い銀色の指輪は、硬くて冷たい。
「ごめんなさい……ごめんなさい、リクくん」
か細い声が部屋に響く。
——結婚してくれて、ありがとう。




