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「シアちゃん?」


 ソニアの呼びかけに、物思いに耽っていたシアは、はっと我に返った。

 どれぐらい、ぼんやりしていたのだろう。

 ソニアが心配そうにシアを見ている。


「大丈夫?」


 慌ててシアは笑顔を浮かべる。


「あ。はい、大丈夫です。お腹いっぱいになったから、少しぼーっとしてしまって」

「お腹いっぱいって……シアちゃんはもう少し食べた方がいいと思うけど」


 ソニアの気遣うような声音に、シアは困った顔で微笑んだ。


 シアは幼い頃から味覚が敏感だった。


 それは食べ物の好き嫌いが多いという形で表され、結果的に出される食事のほとんどが食べられなかった。


 必然的に食も細くなるため、同じ年齢の子供と比べて成長速度も遅く、心配した両親がシアを医者に見せた。


 両親は医者から「子供の頃は良くあること、成長したら食べられるだろう。好き嫌いを減らすためにも、できる限り、色々なものを食べさせるように」と言われたそうだ。


 この「色々なもの」がシアにとっては難題だった。


 まず、濃い味付けのものは食べられなかった。更に、甘いものも苦手、辛いものなんて以ての外。


 食べられるものは、炒めたり、茹でただけの野菜、焼いただけの肉、焼いただけのパン。

 飲めるものは水と牛乳、砂糖が入っていない紅茶。


 成長するうちに、薄い味付けであれば食べられるようになったけれど、それでも香辛料が入った料理や王宮で出される甘いお菓子は食べられない。


 貴族の食事というのは、基本的にどれも味が濃い。


 振る舞われるのは、庶民では簡単に買えない高級な白砂糖や、遠方から輸入される希少な香辛料を使った料理。

 特に香辛料は、その貴族の金銭状況を遠回しに表す指標としても使われた。


 何かのパーティに呼ばれた際、主催者が用意した食事を食べることができないなんて、失礼にも程がある。それに、周囲からも何を言われるかわからない。


 貴族として生まれたのに、このままでは社交もできない。


 十歳の時、シアはそのことに自分で気づいた。

 そして同時に、自分が貴族として役に立たない「出来損ない」であることも。


 昼休みが終わる頃、シアはソニアと一緒に公園から会社に戻って、また仕事を再開した。

 黙々と仕事をこなしていると、退社時間まではすぐだった。


 シアは、ソニアと上司である部長に挨拶してから退社した後、商店に寄って夕飯の食材を買った。

 今日は八百屋でトマトが安かったから、牛肉と玉ねぎのトマト煮込みを作ることに決めた。


 リクと結婚してから、料理は同じ材料を使って、二種類作ることにしている。

 きちんとレシピ通りに調味料を使って味をつけたものと、塩味だけで味付けしたもの。


 前者はリクが食べる分、後者はシアが食べる分だ。

 シアはその過剰な味覚過敏によって、味見もほとんどできない。だから、いつもレシピ本通りに味をつけるのだけど、リクはそれでも「美味しい」と言って食べてくれる。


 家までの帰り道、買い物袋を持ったシアが大通りを歩いていると、ガヤガヤと声が聞こえた。

 視線を向けると、通りの向こう側で、何人かの王都警備隊が集まっていた。

 その中には黒い制服を着たリクもいて、部下たちに何かを指示しているようだった。


 仕事中のリクは、いつ見ても格好良い。

 鍛えられた体に広い肩幅。黒い警備隊の制服がよく似合っている。


 足を止めて見つめていると、部下に何かを話しかけられたリクが笑った。それは結婚する前、シアの前でリクがよく見せていた、明るく柔らかい笑顔に似ていた。


 ねえ、リクくん。最後にわたしに、そんなふうに笑いかけてくれたのはいつだったかな。


 結婚した今、シアが見るリクの笑顔は、いつも少し困ったような、何かを我慢しているような、そんな笑顔ばかりで。


 シアは思う——やっぱり、結婚するべきじゃなかったんだと。


 ◇◇◇


「ただいま」


 その日、リクが帰ってきたのは、シアが入浴を済ませ、寝る準備を終えたあとのことだった。


「おかえりなさい」


 疲れた顔をしていたリクは、出迎えたシアを見て一瞬眉を寄せたあと、すぐにどこか硬い笑顔を浮かべた。


「ただいま。遅くなって悪い」

「ううん」


 ほろ苦い胸の痛みを押し込め、シアはできる限り柔らかく笑う。


「お仕事、おつかれさま。晩ご飯、できてるけど、食べる?」

「おう、食べる。今日は何を作ってくれたんだ?」

「牛肉のトマト煮込み。トマトが安かったんだ」

「美味そうだな」


 リクの笑ったその顔は、やっぱりどこかぎこちなかった。


「あ、先にお風呂入る? その間に料理、温めておくし」

「そうだな。疲れているところ悪いが、頼めるか?」

「うん、大丈夫だよ」

「助かる」


 リクが頷いたのを見て、シアが台所に向かおうとした時だった。


「……あのさ、シア」


 呼び止められ、振り返ると、リクが何か言いたげな顔でシアを見ていた。


「寒くなってきたし、そろそろ、」


 そろそろ?


 何を言いたいのかわからず、シアが首を傾げると、リクは少し何かを考えた後、首を振った。


「……いや。そろそろ、温かい格好で寝ろよな。そんな薄着じゃなくて」


 シアは笑った。


「でも、リクくんだって薄着じゃない」

「俺はいいんだよ、鍛えてるから」


 鍛えられた太い腕を叩きながらリクが笑う。

 リクの顔に滲むのは、兄妹のように過ごした幼い頃に戻ったような柔らかい笑顔。


 それを見ながら、胸の中で膨れ上がる暗い靄が大きくなっていくのを感じる。


「すぐに料理、温めるね」


 滲みそうになった涙を見られないように、慌てて背中を向けた。


 ◇◇◇


「ほら、少しは食ってみろよ」

「やだ……」


 実家の侯爵家の広い庭の隅で、幼いシアの隣に座るまだ少年と呼べる年頃のリクが、シアの口元に緑の野菜が載ったフォークを差し出した。

 リクの膝の上には、侯爵家の料理人が作った弁当が広げてある。


「お前なぁ……せっかく作ってもらったんだぞ」

「……食べれないもん」


 頑なに口を開けようとしないシアへ、少年のリクは呆れたように言った。


「食わねえと大きくなれないぞ」

「別に大きくならなくてもいいもん…」

「はあ……お前、ミアみたいになりたいんだろ。食べないとミアみたいにはなれないぞ」


 大好きな姉の話を持ち出され、幼いシアは涙が滲んだ目で少年のリクを見上げた。


「ほら、とりあえず食ってみろって」


「な?」と口元まで運ばれたフォークとリクの顔を何回も見比べたシアは、嫌々口を開いた。

 すかさず、口の中に詰め込まれる、緑色の野菜。


「うまいか?」

「……美味しくない」

「そりゃ、味がついてないからな」


 涙目で口を必死に動かす幼いシアを横目で見ながら、少年のリクは「じゃあ、これなら食えるだろ」と、黄色い液体がかかった一切れのパンを差し出した。


「これ、何…?」


 パンの上の黄色い液体を警戒するシアに、リクは苦笑いをして言った。


「ハチミツだよ。甘いぞ」

「…ハチミツは甘くない…辛いもん」


 シアがパンから顔を背けると、リクは困った顔をした。


「ハチミツが辛いって、どんな口してるんだよ。仕方ねえなあ…」

 リクはハチミツがついたパンを自分の口に放り込む。そして、


「とりあえず、全部一口ずつ食べてみろ。それで、食べられなかった分は俺が食べてやるから」

「……全部?」

「そう。でも、一口だけだ。それなら食べれるだろ? もしかしたら、美味いものもあるかもしれないぞ」


 幼いシアは目の前にある食材を、口をへの字にして見つめたあと、小さく口を開いた。

 新しく口に詰め込まれた食材を必死に噛むシアを、少年のリクが見て笑う。


「いい子だな。早く大きくなれよ」


 ◇◇◇


 朝。いつも通り、一人きりの寝室で、シアは目を覚ました。


 夢で見たのは、懐かしい光景だった。まだシアが、自分が出来損ないだと気づいていなかった幼少期。

 食事を嫌がるシアを、リクがよく面倒を見てくれた。


 あの時、リクに口に詰め込まれた食べ物たちが何だったかはもう覚えていない。


 けれど、胸に今も残る、ほろ苦い思い。


 思い返せば、何てわがままな子供だったのだろう。

 昔から、シアはリクに迷惑をかけてばっかりだ。


 この結婚も、そう。リクの優しさに甘えて、うずくまってばかりいる。


『そろそろ……』


 昨日の夜、リクが言いかけた言葉を思い出す。


 ねえ、リクくん。その先は、何を言おうとしたの。


 ◇◇◇


 いつも通り、二人分の弁当を作った後、朝練から戻って来たリクと朝ごはんを食べた。


 珍しく、リクはいつもよりゆっくり食べているようで、どうしてか時折、シアの方をじっと見ていた。


 その視線に「何かあったの?」とか「何か気になることでもあるの?」とか、聞けたら良かった。

 けれど、その先の答えを聞くのが怖くて。


 緊張しているせいか、いつもよりずっと食事の速度が遅くなる。


「あ、やべえ。遅刻する」

 のろのろとシアが食事をしていると、突然リクが立ち上がった。

 時計を見ると、リクがいつも出勤する時間を十分ほど過ぎていた。


「悪い、俺行くわ。シアはゆっくり食ってていいからな」


 慌てて玄関に向かうリクを見送ろうと腰を上げたけれど、そう言われてしまって、また椅子に座る。


 結婚しても、妻らしいことなんて何もできていない。


 何より、きっと、夫には妻とさえ思われていない。


 ——そんなこと、ずっと前からわかっているのに。


「あ……」


 シアが職場に向かうために、家を出ようとした時だった。玄関にポツンと置き忘れられた青い袋が目に入った。


「お弁当、忘れてる…」


 シアは弁当袋を手に取って呟いた。

 今日の弁当は、スモークチキンのサンドイッチだった。

 リクが弁当のメニューで一番美味しいと言ってくれるもの。


 シアは、リクから「仕事中は話しかけるな」と言われているのと同じぐらい、リクの職場である王都警備隊の本部にも来るなと言われていた。


 だけど。


「お弁当がないとお腹空くよね…」


 弁当を届けに警備隊の本部まで行ってみようか。邪魔をせず、すぐに帰ればきっと問題ないはずだ。


 シアは壁にかかった時計を見た。

 今から王都警備隊の本部に寄ると、仕事の出社時間に遅れてしまう。


 そういえば、今日は仕事で銀行に振り込みに行く日だったと、頭の中で仕事のスケジュールを思い出す。


 確か、銀行から歩いて少ししたところに、王都警備隊の本部があったはず。


 頭の中で会社から王都警備隊の本部までの地図を思い描いたシアは、「うん」と一つ頷いて、青い弁当袋を自分の鞄の中に入れた。


「シアちゃん、気をつけてね」

「はい、ソニアさん。行ってきます」


 お昼より少し前、シアはリクが忘れた弁当を持って、仕事の一つである銀行での入金へ向かった。上司からは銀行での用事が終われば、そのまま昼休みを取っていいと言われている。

 銀行の窓口で入金を終わらせたシアは、そこから少し先にある王都警備隊の本部へ向かった。


 王都の警備でいないかもしれない。 

 その時は、リクを知っている誰かに託せばいいだろう。そう思って。


「人がいっぱい…」


 昼前だからか、本部の建物近くには、リクが着ている制服とよく似たものを纏った人が大勢いた。そのほとんどが男性だが、中には女性もちらほら見かける。


 シアがきょろきょろしながら、リクを探していると、見知らぬ男性に声をかけたれた。


「何か探し物?」


 王都警備隊の制服を着た、リクよりも若そうな男性は、弁当袋が入った鞄を握りしめるシアに向かって気さくに笑いかけた。


「あ…あの」


 シアは顔を強張らせながら男性に言った。


「家族に、忘れ物を…」


 夫に、とは言えなかった。


「忘れ物? それなら、受付で呼び出してもらうといいよ。相手が不在の時は、渡す荷物を預かってくれるし」

「受付……」

「そう、あっち。よかったら、一緒に行こうか?」


 男性は受付がある方角を指差し、そう申し出てくれたけれど、シアは首を振った。


「大丈夫です。でも、ありがとうございます」


 シアはまだ何か言いたげな男性が少し気になったが、教えてもらった通りの場所に向かって歩き出した。


 少し歩くと、頭上に受付と書かれた看板が見えてくる。大勢の知らない人間の間を歩くことに疲れ始めていたシアは、ほっと息を吐いた。


 その時、向かっている方角から聞き慣れた声が聞こえた。


「そうなんだよ、本当にさ、」

「……リクくん?」


 視線を向けると、そこには探していたリクが立っていた。


「リクく……」


 ほっとしてリクに近づこうとしたシアは、すぐに立ち止まった。


 リクが、受付と書かれた看板の下に座っている女性と楽しそうに話している。

 その顔に浮かぶのは、シアの前では見せなくなった、柔らかい笑顔。

 リクの顔を見てくすくすと笑っている女性は、シアよりもずっと大人びた人だった。揺れる赤金色の髪に、少し垂れている目。綺麗に塗られた唇が笑う。


 ぱきり、とシアの心で何かが割れた音がした。


 ああ…そうだったんだ。

 だから、職場には来るなって言っていたのね。

 リクくんには好きな人がちゃんといて、わたしはただの友達の妹で。

 リクくんは優しいから、わたしが貴族社会に戻らなくていいように、心配してくれただけ。


 ちゃんと、夫婦になりたいなって思っていたのは……わたしだけ。わたしが、勝手に思い上がっていただけ。


 シアはくるりと踵を返した。

 そのまま、足早に本部の玄関へ向かう。

 本部を出て、自分の職場へ向かって早足で歩く。だんだん、それが駆け足になって、最後は息を切らして走っていた。


「…っ」


 声にならない嗚咽を何とか我慢する。

 鞄に入れたままの青い弁当袋が、まるで砂を入れているように重かった。

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