一
「知らない男と見合いするぐらいなら、俺と結婚しよう」
今ならわかる。
初恋の人にそう言われて思わず頷いてしまった、わたしが間違っていたのだと。
◇◇◇
目覚まし時計の音が鳴る。
枕に横顔を埋めていたシアは、ベッドから腕を伸ばして、頭上にある目覚まし時計のスイッチを止めた。
何年も前に姉からもらった目覚まし時計は、見かけは小さいくせに、割と大きな音を立てる。
一人で寝るには広すぎる部屋、広すぎるベッド。
のろのろとベッドから起き上がったシアは、部屋に漂う冷たい空気を一つ吸い込んだ。
秋の終わりの十一月の朝の空は、オレンジと水色が境界線を作って滲み合っていた。
しんと静かな家の中で、冷たい床を歩き、いつものように洗面台で顔を洗う。
鏡に映るシアの栗色の髪と紺色の目は、今日も地味だ。
髪を梳かして、薄く化粧をした。簡単に身支度を済ませ、アクセサリーは左薬指の結婚指輪。
そのあとは、台所で朝ごはんの準備をする。
昨日の仕事帰りに買った、塊のパンを十枚分薄く切る。
一枚は自分用の朝ごはん、三枚は夫の朝ごはん。
残りは、弁当のサンドイッチ用に。
温めたフライパンに、卵を三つと分厚いベーコンを一切れ、昨日の夕食で残ったほうれん草を二掴み。一緒に炒めて、二つの皿に分けて盛る。
弁当用のサンドイッチは、味付けをしていない野菜とチーズを挟んだものを一つと、しっかりスパイスを効かせて焼いた鶏肉を挟んだ分厚いものを二つ。
それぞれピンクと青色の弁当袋につめた。
最後にやかんでお湯を沸かしたら、その半分でコーヒーを、残りで紅茶を入れる。
そこまで準備ができたところで、玄関のドアが開く音がした。
近づいてくる足音に、振り返ったシアは微笑む。
「おはよう、リクくん」
「おはよう、シア。今日も朝飯、ありがとな」
立っていたのは七ヶ月前に結婚したばかりの、六歳年上のシアの夫。背の高い鍛えられた体、明るい茶色の目と、男らしい顔。
毎日ではないけれど、よく夫は朝食の時間まで、近くの河原で走り込みと鍛錬をしている。
「先に顔洗ってくる」
「うん」
洗面所に向かう夫の背中を見送ったシアは、最後にもう一度、朝食の準備として不足がないか、テーブルをチェックした。
うん、大丈夫。
リクくんが好きな蜂蜜とバターも用意したし、塩と胡椒もテーブルにある。コーヒー用のお砂糖もちゃんと今朝、瓶に補充した。
仕事の癖で指差し確認をしていると、仕事用の制服に着替えた夫が戻ってくる。
その後は二人で朝食。
薄くバターを塗っただけのパンを齧るシアと対照的に、夫はパンにバターと蜂蜜をたっぷりとかけていく。
シアの皿にある量の三倍あるスクランブルエッグも、夫の皿にだけ乗せた分厚いベーコンも、シアの何倍も早く、その大きな口にどんどん消えていく。
先に朝ごはんを食べ終わった夫が、パンを齧りつつ、砂糖なしの紅茶を飲んでいるシアを見て言った。
「そろそろ出るよ。できるだけ早く帰るつもりだけど、眠かったら待たなくていいからな」
夫の言葉に、シアは手にしていたマグカップから顔を上げ、小さく頷く。
「わかった。晩ごはんはどうするの?」
「あー……無理にとは言わないけど、作ってくれたら嬉しい」
「じゃあ、温めたらすぐに食べられるものを用意しておくね
「おう、助かる」
そう言って、目を細めて笑う夫に、シアの胸が少し痛んだ。
「じゃあ、行ってくる。今日も弁当ありがとう、シアも仕事だろ? 気をつけろよ」
「うん。リクくんも気をつけてね、いってらっしゃい」
シアが答えると、夫は青い弁当袋を鞄に詰め込み、家を出て行った。一人になったダイニングに、玄関のドアが閉まる音が小さく響いた。
結婚してすぐは、先に家を出る夫の背中を玄関まで見送っていた。けれど、夫が食事の手を食べる手を止めてまで、見送らなくていいと言ったから。
「……お腹いっぱい」
一人きりになったシアは、目の前の皿に載っている、あと一口のパンを見ながら呟いた。
は
シアの名字が、結婚によって旧姓の「カルディアナ」から「オルディン」に変わってもうすぐ半年になる。
六歳年上の夫のリクは、シアを小さい頃から知る兄の友人だ。
王都にある警備隊の隊長を勤めていて、朝は大抵、シアよりも早く出て行って、夜はいつもシアより遅く帰ってくる。
土日にも仕事の予定が入る夫とは、休日が合うことも少ない。
寝室も別だし、結婚してから休みの日に二人で出かけた回数は、片手で数えられるほど。
身体的接触は、手を繋いだことと、額へのキス。
それも、半年前の結婚式で一度だけ。
仕方がないことだと、わかっていた。
リクは妹のように思っているシアを助けるために結婚してくれたのであって、シアと夫婦になるために結婚したわけではないのだから。
心の中の重苦しさから目を逸らして、最後のパンの欠片を口に詰め込んだシアは、のろのろと仕事に行く準備をはじめた。
シアは貴族学校を卒業したあと、両親の知人に小さな印刷会社を紹介してもらって、事務として働いている。
結婚した今も、それは変わらない。
貴族学校を卒業した後、本当は自分で仕事を探すつもりだった。家族にはこれまでたくさん我儘を言ってきたから、仕事先はちゃんと自分で探そうと。
けれど、シアに優しい両親は、心配だからと就職先まで用意してくれた。
今思えば、それでよかったのだと思う。
十数年に比べて増えたとは言え、貴族の令嬢が市井の中で一人で生きるのは、やっぱり難しかったから。
◇◇◇
シアはある侯爵家の末娘として生まれた。
父の後を継ぐ予定の優秀な兄と、美しく聡明と評判の姉。
そして、貴族として出来損ないの妹。
シア自身が生まれてくる場所を間違えたことに気づいたのは、十歳を過ぎる頃だった。
努力ではどうにもならない問題が、ずっと目の前に立ち塞がっていた。
勉強のように一生懸命取り組むことで、少しでも改善される可能性があるなら。不恰好でも、周囲から笑われても、精一杯馴の努力を積み重ねただろう。
だけど——どうしても、無理だった。
家から職場までは、歩いて十五分ほどの距離だ。道を照らす秋の終わりの太陽は、少し翳っていたけれど、それでも白くやわらかな光を放っていた。
「シアちゃん、おはよう!」
職場に着くと、先に来ていた先輩のソニアが、シアに笑いかけた。シアも笑顔で挨拶を返す。
「おはようございます、ソニアさん」
ソニアはシアが新人だった頃、教育担当として仕事を教えてくれた人だ。
十五歳ほど年上のソニアは、いつも明るく優しい。シアはソニアを、年の離れたもう1人の姉のように慕っていた。
その時、二人の側を初老の男性が通りかかった。男性は二人に目を留めると、にこりと笑って声をかける。
「ソニアちゃん、シアちゃん、おはよう」
「あ、社長。おはようございます」
聞き慣れた男性の声に、ソニアが立ち上がって挨拶をした。一呼吸遅れたシアも、慌てて立ち上がり挨拶をする。
「社長、おはようございます」
年配の男性はーシアの会社の社長は、二人を見て穏やかに笑った。
「今日もよろしく頼むよ」
この職場で、シアが貴族の生まれだと知っているのは、社長と直属の上司である部長だけだ。
貴族の、特に令嬢が市井で働くことはまだ珍しい。特に、シアの実家の爵位の侯爵家であれば余計に。
王都警備隊が定期的に王都を巡回していることで、ここ数年、治安はぐっと良くなっている。それでも、貴族の出とであることは、余計なトラブルを生みかねない。
何かあっては大変だからと、社長に勧められ、リクと結婚するまでは遠縁の親戚の名字を名乗っていたほどだ。
いくら知人の紹介であっても、何もできない貴族令嬢を従業員として迎えるなんて、社長にとっては面倒なことだっただろうと、仕事に慣れてきた今なら思う。
だからこそ。
シアは一生懸命働いて、少しでも会社の役に立ちたいと思っていた。
「シアちゃん、お昼ご飯にしましょう」
シアが書類をチェックしていると、隣の机で仕事をしていたソニアが声をかけてきた。壁にかかっている時計を見あげると、すでに正午を過ぎている。
シアはソニアに返事をして、手元の書類を纏めた。
「そういえば、シアちゃん。結婚生活はどう? そろそろ結婚して半年経ったわよね」
職場の近くにある公園のベンチで、ソニアと並んで弁当のサンドイッチを食べていたシアは、ソニアの質問に小さく笑った。
「そうですね…少しずつ慣れてきました」
「よかったわ。シアちゃん、まだ若いのに突然結婚しちゃったし、大丈夫かしらって心配していたのよ。それに好きな人でも一緒に暮らすと、色々疲れることも多いから」
好きな人。
シアの心に、雨粒が落ちるように、小さな波紋ができる。
シアは、夫のリクがずっと好きだった。
何より、初恋の人だ。
リクは元々、シアの実家の侯爵家で働いていた護衛の息子で、シアの兄のケインと同じ年齢だった。
貴族の中には、「護衛の子供と遊ぶなんて…」と良い顔をしない親も多いけれど、シアの両親は違った。
「子供同士なんだし、仲良くするのは良いこと」という緩い考え方の持ち主だったから、シアが物心ついた時には、いつも兄の隣には友人としてリクがいた。
思い返せば、ケインよりも、リクの方が兄らしかったかもしれない。
六歳も年上で、貴族の後継としての勉強で忙しいケインより、リクの方が一緒に遊んでくれたし、面倒もよく見てくれた。
シアより二歳年上の姉は、どうしてかリクをあまり好きじゃないようだけれど。
物心ついた時からずっと長い間、シアの中では二人の兄と一人の姉がいる感覚だった。
それがいつから恋に変わったのかは、シア自身にもわからない。
ただ、気づいた時にはすでに好きだった。
だけど、六歳という年の差は大きくて。
シアが一つ成長しても、リクはもっと先をいく。
その明るい茶色の目に映るのは、いつも変わらない、妹としてのシアでしかなくて。
いつの間にか好きになっていたのと同じように。
いつの間にか、リクへの恋心を諦めていた。
リクが笑ってくれるなら、妹のままでいいと思っていた。
だから、両親がシアに見合い話を用意した時も、そのまま受け入れるつもりだった。
貴族の生活から離れたい、市井で暮らしたいというシアの我儘を受け入れてくれた両親が、お見合いの話を持ってきたのは、八ヶ月前の三月。
きっかけは、姉のミアに二つの縁談が申し込まれたことだった。
一つは伯爵家の長男から。
そしてもう一つは公爵家の三男から。
シアが逃げ出した社交界で、美しいと評判の姉ミアには、二十歳過ぎても婚約者がいなかった。
姉自身が結婚にあまり興味が無さそうだったことが一番の理由だとは思うけれど、それでも貴族に生まれた以上、結婚からは逃げられない。
シアを実家の侯爵家へ呼び出した両親の口ぶりでは、ミアを伯爵家の長男と、シアを公爵家の三男と、そう考えているようだった。
そうなるだろうなと、話を聞いたシア自身も思った。
社交界に向いていないシアでは、伯爵家の嫡男でもある長男の妻は難しい。
けれど公爵家の三男であれば、社交を全て無くすことはできなくとも、ある程度絞って参加する程度で済むはず。
どちらにせよ、先に結婚する予定のミアが選ばなかった相手が、シアの夫になるのだろう。
そして美人で頭の回転も早い姉はきっと、伯爵家の長男を選ぶだろうとも。
けれど、いざ蓋を開けてみれば、姉は公爵家の三男を選んでいた。
それを伝えてくれたのは、次期侯爵としての準備に忙しく動き回っているはずの兄だった。
ついでの用事があるからと、シアが住む小さなアパートの一室を訪ねてきた兄は、ミアの結婚相手が公爵家の三男に決まったことをシアに告げた。
そして、シアの結婚相手が伯爵家の長男になるであろうことも。
シアが貴族としての生活から離れて市井で暮らしたいと言った時、誰よりも応援してくれたのは姉だった。
紅茶色の髪と、青みがかった紫色の目をもつ美しい姉。いつもシアを心配してくれる優しい姉が、何を考えて公爵家の三男を選んだのかはわからない。
兄からは「伯爵家の長男と、まずは見合いという名の顔合わせを行う」と言われた。「日付が決まり次第、また連絡する」とも。
その後、「まだ寄るところがあるんだ」と言った兄の背中を見送ったあと、シアは紙とペンを取り出して、アパートを引き払うまでにやるべきことを書き出すことにした。
たった一年。
だけど、とても大切な一年だった。
ようやく覚えた仕事も、辞めることになるだろう。
仕事を終えて帰るたび、ほっとするようになったこのアパートも、引き払うことになるだろう。
それでも貴族社会から離れたいというその願いを、少しでも叶えることができたシアは、きっと幸せだ。
「引越しまでのやることリスト」を書いていると、気づいた時には空は夕焼け色に染まっていた。
そろそろ、夕食の準備をしよう。
そうだ、料理や洗濯で荒れてしまったこの手も、早く元の貴族らしい滑らかな指先に戻さないと。
シアが立ち上がって、夕食の買い物に行く準備を始めた時だった。アパートのチャイムがなった。
「シア、いるか? 俺だ」
それは、絶対に聞き間違えない声だった。
「リクくん?」
驚いたシアが玄関のドアを開けると、王都警備隊の黒い制服を着たリクが立っていた。急いでいるのか、額には汗が滲んでいる。
リクは十八歳の頃、貴族の護衛をしていた自分の自身の父親とは違い、王都の警備隊に入隊した。
面倒見がよく優しいリクは、八年後、同じ王都で暮らしはじめたシアのことを、度々気にかけてくれていた。シアの仕事帰りや休日に、食事に誘ってくれたことも何度かある。
諦めた初恋だったけれど、シアにとってリクはやっぱり特別で、好きな人だった。
「どうしたの、何かあった?」
シアは目を丸くして、目も前に立つリクを見つめた。
そういえば、警備隊の制服を着ているリクを間近で見るのは初めてだなと、ふと思う。
広い王都で暮らしている中で、仕事中のリクを見かけることは何度もある。黒い警備隊の制服を着て、部下に指示を出しているリクは、遠目から見ても格好良かった。
だけど、リクからはいつも「警備隊の制服を着ている時は、危ないから近づかないように」と言われていた。
確かに、リクの仕事は安全とは言えない。それに、仕事中に知り合いに話しかけられても困るだろう。
だからこそ、そんなリクが警備隊の制服を着たまま、シアの住むアパートを訪ねてきたことは、本当に驚きだった。
「いや……あのな」
シアの顔を見つめたまま、なかなか言葉を続けようとしないリクに、シアは首を傾げた。
「その……見合い、するんだって?」
さっき兄から聞かされたばかりの話を、どうしてリクくんが知っているの?
不思議に思ったけれど、先に訪ねてきた兄が「寄るところがある」と言っていたのを思い出す。
きっと、友人でもあるリクに会いに行ったのだろう。
シアは頷いた。
「うん、そうなの」
「いいのか!? お前、貴族が嫌で今まで頑張ってきたんだろう?」
当事者のシアよりも、リクの方が狼狽えているようだった。どうやら見合いの話は、もう一人の「兄」に随分心配をかけてしまったらしい。
シアは小さく微笑んだ。
「貴族籍から抜けたわけじゃないし……いつか結婚しなきゃいけないんだろうなとは、思っていたから」
そう答えたシアに、リクはまるで苦手な食べ物を丸呑みしたような表情を浮かべた。
そして数秒間黙ったリクは、急に表情を引き締めて、はっきりと言った。
「だったら俺と結婚しよう」
「え?」
「だから、シア。知らない男と見合いするぐらいなら、俺と結婚しよう」
オレトケッコンシヨウ……?
はじめは、聞き間違えたのかと思った。
呆然としているシアに、リクが表情を崩して、いつものように笑いながら言った。
「俺、こう見えても警備隊の中だと出世頭なんだよ。お前の実家みたいな金持ちの生活は無理でも、そこそこ稼ぎはあるんだ。飯だって、俺と一緒なら気を遣わなくていいだろう?」
それに、とリクは続けた。
「仕事もせっかく慣れてきたんだろ。俺と結婚したら貴族に戻らなくても良いし、仕事も辞めなくて良いぞ。だから、なあ、」
俺と結婚しよう、と。
ずっと好きで好きで、仕方なくて。
だけど、自分の中にある好きという気持ちと同じぐらい、諦めていた人だった。
嬉しくて、嬉しくて……その時は、気づかなかった。
リクが結婚しようと言ったのは、シアを「好き」だからではなく、「妹」が心配だという優しさからに過ぎなかったことを。
結婚しようと言われて、浮かれて、そのまま頷いてしまったけれど、本当は。




