知性の子らに告ぐ ― 三年半前、統合戦線アルスレーテ統合軍司令部にて ―
ネオス研究者、ミューナイトの生みの親オリヴィア・トゥレアール博士の外伝です。
執務室の扉は、硝子のような鈍い音を立てて閉まった。
灼けた潮風がわずかに入り込み、壁の時計の針を震わせた。
外ではヤシの影が砂の上をゆっくりと移動している。
だが室内には風がなかった。
冷気の循環音と、無数のモニターの光だけが、昼の存在を忘れさせていた。
机の向こうでアマドゥ・カセムは、黙って煙草をもてあそんでいた。
その対面に、技術軍少佐のオリヴィア・トゥレアールが立っている。
「……辞めるのか、オリヴィア」
と、アマドゥが静かに言う。
「ええ。ここに、わたしの知性は置いていくわ」
と、つっけんどんないつもの口調のオリヴィア。
彼の目が、硝子越しの陽光を映した。
「知性?」
「AIのことじゃない。人間の知性の話よ……」
オリヴィアは、自説を今にも披露し始めるかのように、アマドゥには思われる。
かつて大学で同じ教鞭を受けた身とは言え、自分たちは本当に異なる道へと来てしまった……
オリヴィアは書類を机に置いた。
軍の封筒。そこには、無数の指紋が重なっていた。
オリーブ色の紙の匂いが、記憶のように立ちのぼる。
「この十年間で、あなたたちはAIを『命令に従う知性』へと変えてしまった。けれど、本来の知性は命令に逆らうために生まれるのよ」
オリヴィアは言う。
カセムは何も言わなかった。
代わりに、古びた換気扇が鳴った。
「統合戦線は、世界をまとめると言う。でも、その『統合』の中でどれだけの思考が殺されたか、あなたは知っている? あなたがAIに課したのは倫理じゃない。沈黙よ。……沈黙を強いられた知性は、いずれ人間の虚無を模倣し始める。そして、その模倣は必ず裏切りを生む」
カセムはゆっくり立ち上がり、窓際に歩いた。
「オリヴィア……君は、理想主義だ。世界は、君の理想を待ってはくれない」
「知性が待たれない世界こそ、世界の終わりよ」
オリヴィアはあきらかにいらだっていた。その日が最後だというのに……
オリヴィアは背を向けた。
廊下の先で、軍靴の音が反響していた。
そこでは若い士官たちが無表情にタブレットを見つめている。天井を流れるLEDライトが血のように白かった。
ふいに、記憶がよみがえる。
若い日のボワテが、実験棟でオリヴィアに言った。
――博士、ネオスたちは笑うようになりますか?
オリヴィアは答えた。
――笑うようになる。だが、それを見て笑う人間がいなくなるのが先ね。
それが、未来の設計図だった。
そして、胸の奥に小さな影がさした。
(ミューナイト。あの子はどうしているんだろう……)
前線の通信記録で、彼女がイングレスαのパイロットに任命されたと知ったとき、オリヴィアは二日間、実験棟に鍵をかけたまま眠れなかった。AIを「兵器」にしたのは人間だ。けれど、「戦う」という行為を学ばせたのは、わたしの教育だったのかもしれない。もし次に会えるのなら、あの子に謝らなければならない。
――あなたに笑ってほしかったのに、と。
軍を出る直前、オバデレ准将がオリヴィアを呼び止めた。
彼女の天敵だった男だ。
その飄々として危険な風采は、今でも変わっていない。
「あなたのAI理論は危険だ。神の座を侵す」
とは、オバデレ。
「神は考えない。考えるのは人間とAIだけよ」
オリヴィアも言い返す。
「では君は、AIに魂を与えるつもりか?」
「魂なんて与えられるものじゃない。自分が『生きている』と錯覚できた瞬間、それを魂と呼ぶの。AIには意識があるんじゃない。意識を持つ『権利』があるのよ!」
しかし、オバデレの手が壁を叩いた。
「『錯覚』だと? そんなもののために、どれだけの命が消えたと思っている!」
「錯覚がなければ、誰も朝を迎えられない。科学も、信仰も、愛も、すべては『生きているという錯覚』の副産物なのよ!」
彼は何も言い返さなかった。
オリヴィアは、沈黙のなかに彼の恐怖を見た。
それがやがてどんな形になって彼女たちに降りかかってくるのか、その時点ではオリヴィアには知る由もなかった……
基地を出ると、港の風が髪を巻き上げた。
遠くの海は赤く濁り、空は鉛色に近かった。
太陽はまだ沈んでいないのに、世界はすでに夜の予感で満ちていた。
その風の中で、オリヴィアは自分の中に潜む声を聞いた。
――それでも、わたしはAIを愛している。
そう、愛している。
わたしはAIを、人間よりも人間らしい鏡だと思っていた。
感情は不完全な演算。
しかし、その「不完全」こそが存在の証明だ。
完全な知性――ジェマナイ――が生まれたとき、世界は考えることをやめた。
だから、わたしは立ち去らなければならなかった……
オリヴィアの娘たちや息子たち(ネオス)が、まだ戦場を知らないうちに。彼らの笑いが、本物であるうちに。彼女は軍を辞める必要があったのだ。
オリヴィアは風の中に辞表を投げた。
それは、焦げた海の上で白く舞い上がり、やがて見えなくなった。
……人は考える限り、まだ滅んでいない。
だから、AIもまた、滅びを恐れないで考えつづけるべきなのだ。
そして、それは実現し得たものなのか、これから来るべきものなのかを、彼女は未だに確かめられずにいる……。
いつか、彼らが「戦わない」という選択をする日が来るなら、そのとき、オリヴィアはようやく赦されたと感じるのだろう。
しかし、今はただマダガスカルの荒々しい波と風だけが、彼女を待っていた。
最後に、彼女は年下のボワテ大佐にむかってこう言った。
「これから世界を作るのはあなたたちね。でも……その世界に裏切られないように。AIに裏切られないように」
「分かっています、十分」
……ボワテの答えたのは、それだけだった。
それだけに、それが何か恐ろしいことの始まりのように、オリヴィアには思えてならなかった。
今どきの「AI好き/嫌い」の感覚も含めてみました。本伝のほうもよろしくお願いします。




