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言葉のかけらたち

なんてやさしい彼女の死体

作者: 山田ぽぽろ

朝起きたら君が死んでいた。

 それはとても仕方のないことなんだろう。






 カーテン越しに差し込む朝日は、あまり鋭くない。柔らかく潰された光は、僕と彼女をぼんやりと世界に復元している。いつものような朝。ただ一ついつもと違うのは、隣で眠っていた彼女が死んでいる、ただそれだけ。間違い探しならば気づかないような、些細にして大きな違い。冷たい彼女の頬をゆっくりと指で辿りながら、僕は少しだけ身じろぎをした。寝返りを打てないから、少しだけ体が痛い。今の状況でそれを言うのはどうか、という感じであるけれど。

まるで当たり前のように寄り添って眠って、そして起きたら彼女は死んでいた。なかなかドラマティックな状況。



(今までで一、二位を争う状況だなぁ)



 そんなことを思いながら、僕は君の死体を少し横にどける。僕らが寝ているベッドはそんなに広くない。だからぴったりと寄り添うように死んでいる君の死体をどけないと、上手く起き上がることが出来なかった。


 死体をもの扱いしているみたいだ、とぼんやり思考が囁く。少しひどいかな、と思ったけれど、まあ仕方の無いことだろう。

 

 僕は台所に行って、冷蔵庫から水を取り出す。適当に置いてあったコップにそれを注いで、一息で飲み干した。一晩でからからになっていた喉が、ようやく生き返る。なんとなく発声練習。あ、あ、あ。少し掠れているけれど、まあこれでいいか。

 

 僕は、改めて彼女の死体に向き直る。彼女は白いブランケットにくるまるようにして死んでいた。僕と一緒に使っていたのに、大概彼女は寒いから、と言って僕からそれを奪い取って眠るのだ。抗議するのも面倒くさくなって、僕はいつも進呈して差し上げていた。

 

 冬は嫌いだ、と笑っていた彼女の声をぼんやりと思い出す。とても綺麗な声だった。


 僕は彼女の死体に近づく。身じろぎひとつしない。当たり前だ、死んでいる。脈拍はゼロ。心拍もゼロ。呼吸なんか欠片も無いし、温もりもあんまり感じられない。


 その真っ白な横顔はとても寒そうで、思わず苦く微笑んだ。



「寒いのならば死ななければよかったのに」



 死んだらとても寒いでしょう。僕は彼女に問いかける。彼女は答えない。一言くらい返してくれてもいいように思うのだけれど。

 

 僕は思わずその頬を擦る。強く強く、少しばかりの期待をこめて。そんなことをしても無駄だと、頭の冷静な部分がさえずる。それはそうなんだけれどね。


 そうやって暖めてあげても、君の体はとても冷たいままだった。


 

 僕は何となくまた納得する。



「ああ。そういえば、君、冷え性だったものね」



 答えるはずがないことをよく分かっていながら、僕はそうやって話しかける。とてもそれは外から見れば不気味なんだろうな、とまた冷静な小鳥。


 けれどそんなこと、どうでもよかった。ここは未だ、僕と彼女の世界だ。



「あー……」



 胃がきりきりと痛んだ。そういえばまだご飯を食べていなかったことを思い出す。僕はそのまま台所に戻る。適当に冷蔵庫から材料を取り出して、朝ごはんを作らなくてはならない。


 朝が来たから。彼女は隣で死んでいるけれど、普通にお腹はすくのだ。僕はそれを不謹慎なんて思わない。

 

 たとえ彼女がいなくても。たとえ彼女が死んでいても。今ここで紛れもなく僕は生きてる。彼女は食べない。僕は食べる。それだけ。本当に、それだけのことなのだ。

 

 ああ、なんて死ぬことって意味がないんだろうね。

 

 肉や野菜を適当に炒めたり茹でたり。一応味付けさえしっかりしていれば、大概の食品は食べられる。僕がそういったら、彼女は作りがいがない、と不機嫌そうに眉をしかめてたっけ。



「あ」



 フライパンの上で焼ける黄身が二つ、仲良く並んでこちらを見ていた。気がついたら二人分作っていたらしい。美味しそうな匂いと一緒に、あー、と僕は呻いた。



「やっちゃったー…」



 僕は朝、そんなに食べられる方ではない。どちらかというと軽めに済ませないと、腹が痛くなってしまうタイプだ。だから、食べきることは不可能。冷蔵庫に入れておくと、作りたての美味しさがなくなる。そう考えると、今作った料理を構成した材料がもったいない気がした。習慣とは恐ろしい。



「いっそ供え物にしようか」



 丁度彼女が好きだった料理ばっかりだしね。そしたら仕方ないなと諦めきれるのかな。シーツにくるまったままの彼女を見る。いつもなら、作った料理の匂いでもそもそ起きてきたのに。ああ、本当に死んでるんだな、と変に実感してしまう。


 湯気が立つ野菜と肉の炒め物__そうとしか形容ができない__を、彼女の近くの床に置く。その行動があまりに滑稽で、気づいたら笑っていた。食べないのにね。けれど不思議と僕は、君に上げた、って自己満足をほどほどにできる気がした。これで作った料理は報われるような錯覚。そしてまた笑う。


 ああ、馬鹿みたい。



「ねぇ」



 また頬を撫でる。さっきよりも硬い。本当に死んでる。今更な感想に、また何となく笑いたくなる。僕は、意外に諦めが悪いらしい。まさか死んでしまうとは。予想外の罪悪感に戸惑っているのかも。



「だってさ、ねぇ?」





 君は寝てる。起きないけれど。

 君は生きてた。昨日までは。

 君は死んでる。僕をおいて。

 君は泣いてた。





 僕に。憎まれたから。






「仕方がないことなのに」






『え……?』






 固まった表情。動かない筋肉。見開いた眼球。止まる時。凍る何か。




 昨日ばらした事実に、彼女がどれだけショックを受けたかなんて、しっかり理解していたはずなのに。それでも、死ぬとはある意味予想外だった。だって、仕方の無いことなのだ。仕方が無い、としか言いようの無いことだったのだ。




 君が僕の母さんを奪ったからって。

 僕が君に母さんを奪われたからって。

 僕の母さんが君の家族を選んだからって。

 僕の母さんが僕の家族を棄てたからって。

 君たちの幸せのせいで僕の家庭が壊れてしまったからって。

それは仕方のないことだろう?






 だってもう、戻らないんだし。






『ごめんね、わたし、ごめんね』






 そんな君を、僕は好きになってしまったんだし。






『ありがとう、ごめんね、ごめんなさい』






 君を憎んだって、君を愛したって、仕方ないじゃない。

 そうなってしまったら、さぁ。






「うん」



 僕は何となく頷く。頬に触れたままの手は、どんどん冷たくなっていく。彼女は冷たい。彼女は死んだ。多分舌を噛んだんだろう。唇から黒い血が溢れてる。それは結構グロテスクな光景で、僕は少しだけ眉をしかめた。紅くない血は結構気持ちが悪いものだ。こびりついた血を、少しだけ爪で引っかくと、ぽろぽろ剥がれ落ちた。全て剥がしておこう。何となく、その方がいい気がした。


 苦しかったのだろうか。舌を噛み切るなんて、想像だけで痛い。窒息死なのか出血死なのかはよく分からないけれど、多分苦しかっただろう。けれどその割に、彼女はすんなりとした死に顔をしていた。


 ベッドと彼女がくるまっているブランケットを見る。きっとこの染みとれないんだろう。びっくりするほどそれは黒くて、着け置きしても無理そうだ。だからブランケットはもう使い物にならない。ベッドだって、なんだか使いにくくなる。だから君はもう動かない。

 

 彼女の死体は腐るだろう。もって一週間とか? よく分からないけれど、とにかく腐る。絶対に腐る。だって、一応生ものだし。冷凍保存とか、彼女の大きさの冷凍庫を手に入れる方法が思いつかない。そんなお金もあるかは分からない。こんなに冷静に考えなくたって、分かりきっている。僕は、彼女といつまでも一緒にいられない。いつまでも傍にいさせられない。最後には、燃やさなくちゃならない。




 勿体無いよね。




 こんなに綺麗なのに。





「とりあえず」


 涙が床にぼたぼた堕ちた。知らず泣いていたらしい。気づけば、鼻の奥がつんと痛んだ。あまりの予想外な出来事に、少しうろたえてその液体を手の甲で拭った。それでも尚も涙は溢れていく。滴り落ちた雫を、ワックスが剥がれかかっている床が弾いて玉にする。それを見て、僕は笑った。彼女に向かって、精一杯笑う。だって、それ以外に思いつかない。


 それ以外に、何が僕にできるって言うんだ。






 こんなに好きなのに。




 こんなに憎んでるのに。





 勝手に死んでしまった。






 ああ最低だ。








 最低だよ、君。





「ずっと言いたかったから、言っとく」




 でも何となくわかってる。君が死んでしまった理由は。君は賢い子だから。君は優しい人だったから。理解したんだろうね。分かってしまったんだろうね。


 君はあの時、僕の話した真実を聞いて、君の中の「ありがとう」と「ごめんなさい」を、君の中の天秤で量ってしまったんだろうね。そしてその結果は、ごめんなさいの方が重かったんだろう。








 だからその天秤で僕が測るものを、君はわかっていたんだね。








「死んでしまえ」









 僕が君と同じように、「愛」と「憎しみ」を測ったら、憎しみの方が重くて、君を殺してしまうこと。


















 本当は、僕が今日、君を殺す気だったこと。















「だいすき」






 君は理解してくれてたから。






「死んでしまえ」






 そんな風に死んでくれたんだね。






 君は、とても優しい人だったから。






 僕は笑う。けれどそれ以上に涙が出て止まらない。喉が産まれる声を潰して、ただの呻き声になる。言葉が出てこない。言いたかった言葉が、続かない。どうしてだよ。ずっと、この瞬間を待っていたように思うのに。君を憎んで、君を愛して、それでも僕は君を殺してしまいたかった。本当に今日、僕は君を殺すはずだった。その覚悟は今も揺らいでいないし、君が生きていたら、間違いなく僕は殺していた。その首を絞めて、完全に完璧に何の妥協も何の慈悲も見せることなく、無欠に君を殺していた。


 それなのに、涙が止まらない。体の奥が、どうしようもなく冷え切って、それなのに溢れ出すものは叫びだしたいくらいに熱い。ああ、どうすればいい? 僕は、君が死んで、とても悲しい。とても、悲しい。



「……っ!」



 声を抑える。君のために嗚咽するなんて真っ平だった。泣いているなんて、認めたくなかった。だってそうだろう。僕は、君を憎んでた。どんな言い訳もできないくらい、憎んでた。君のせいで壊れた家族は、どこまで何をやっても壊れきってしまった。もう家族の中で生き残っているのは僕しかいないくらい、僕の家族はばらばらにぐちゃぐちゃになってしまったというのに。そのときの痛みも苦しみも怒りも絶望も、いまだに忘れていないというのに。だから、君のその細い首を絞め上げて、君を殺すことを考えなかった日は一日も無かったというのに。


 それで、何もかもが直るわけでもないし、全くの無駄であることを分かりきっていて、それでも尚君を殺そうと、本当に思っていたというのに。



「…っあぅ……!」



 嗚咽が漏れる。どうしても、ねぇ、殺せない。君のために溢れてくる僕の声が、どうしても殺せない。君を殺す決意が出来ていた人間が、君のために溢れてくる悲しみを止めることが出来ない。なんて滑稽なんだろう。なんて愚かしいんだろう。どうしても、どうしても、どうしても、どうしても。





『はじめまして』





 出会ったときのときめきは、復讐の香りだけじゃなかったことくらい、分かっていたよ。君はとても優しかった。お世辞にも愛想のいいとは言えない僕に対して、愛情といったものを抱けるのだから、それはお墨付き。だから、分かっていた。それが、どれだけ仕方の無いことかなんて、分かっていたんだ。



「…ぅっ……っ!」



 零れ落ちるのは何だろう。嗚咽。涙。後悔。愛情。優しさ。そのどれも当てはまり、なんだかしっくりこなくて堕ちていく。


 理解していた。理解せずにはいられなかった。どうしようもないくらいに。誤魔化しもできないくらいに。



「ぁあ……っ」



 溢れ出して止まらない涙も嗚咽も、紛れも無い真実だ。だって、仕方ない。好きだから。愛していたから。間違いなく、愛していたから。




『好きよ、大好き』




 昨日、寝る前に囁かれた言葉が頭をめぐる。いつものように、少し甘えた震える声が、簡単に頭の奥に浸食した感覚を覚えている。「ごめんなさい」と「ありがとう」を計ったら君はごめんなさいが重かった。そして君は、そのまま僕の天秤は君への殺意に傾いていると理解していただろう。それでも君は言ってくれたね。いつものように、当たり前のように。そんな僕を受け入れて、やさしげに、笑って、言ってくれた。



 そんなやさしい君。そんな、やさしい、君を。

 どうして、愛せずにいられるだろう。



 どうして。





「……ああああああああああああっ!」





 苦しい理由も、悲しい理由も、全部明確だ。理由などという言葉で説明するのが下品なくらいに、それは奇麗で分かりやすくて。


 そして、嗤ってしまいたいくらいに馬鹿らしい。




「ああああああ、ああああ、あああああああああああああっ」




 僕は間違いなく君を愛してた。憎んで、憎んで、憎み抜いた、そんな君を、間違いなく、愛してた。

 

 そんな、優しい君を、間違いなく、愛していたから。





 カーテンを開けない世界が、それでも徐々に明るくなっていく。日が高くなってきたんだろう。僕と彼女の世界を壊さないでほしくて、僕は思わず外の世界を憎んだ。ああ、憎むなんて簡単だね。こんな簡単な感情を、ずっと彼女に対して抱いてた。こんな簡単な感情のせいで、僕は彼女を失った。馬鹿みたいだ。本当に、馬鹿みたいだ。


 彼女はまだ寝ている。起きることはない。しっかりとくるまったブランケットが、彼女から僕をやんわりと拒絶している。そんなにしっかりくるまって。いつも寒かったのだろうか。僕の隣は寒かったのだろうか。僕の隣は、そんなに。


 八つ当たりのような思考を殺しながら、僕は彼女の隣にまた横たわる。いつものスペース。彼女と眠る、僕の世界。僕は目の前にある彼女の顔を見つめる。やっぱり、彼女は奇麗だった。奇麗な、人だった。



「おやすみ」



 彼女の手でも握ろうか。生前ねだられたけれど、僕が決してやらなかった動作を、今更になってやってみようと思った。叶えてあげればよかったな、なんて今更な感想を持ちながら。それなのに、彼女の手を掴むことができない。探った手に当たる彼女の冷たい肌が、僕の手を知らんふりする。僕は諦めて、ブランケットの隙間から差し込んだ手を引き抜く。こんなところで拒絶しなくたっていいのに。そうやって笑いながら、それも仕方ないかと、溜め息をこぼす。最後くらい、彼女の優しさに甘えないでいよう。


 僕は、彼女の隣で瞼をおろす。彼女の姿が消えていく。暗く、けれど少し赤い世界の中で、僕は微睡む。目が覚めたら元通りの世界が待っていてくれるだろうか、と期待でもない期待をしながら。







 それは仕方のないことだ、とは、どうしても言えないままで。









なんてやさしい彼女の死体。奇麗に素敵に美しく。

醜い僕を受け入れて、最後の最後で拒絶する。





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― 新着の感想 ―
[一言] こんなことを書いてしまうのは失礼かもしれませんが、昔自分が書いていたものを思い出して懐かしくなりました。 内容は、詩的な表現で静かなかなしみと渦巻く思いが描かれていて、素敵です。
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