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特殊書籍研究所  作者: 飛べない豚
4/39

TSE (完結)

これは特殊書籍の3冊めの内容です。

向こうから制服を着た高校生女子たちがやって来た。


俺は慌ててスマホのカメラを起動し、街並みを撮るフリをした。彼女たちの姿を一瞬でもカメラに収めたかったからだ。しかし、この手の魂胆がうまくいくはずがない。彼女たちは俺に気づくと、急に立ち止まった。


今の時代、カメラを構えている不審な男の前を、若い女の子が無言で通り過ぎるなんてありえない。俺は初めて気づいたフリをして振り向き、慌ててカメラを停止させた。


「どうぞ、通ってください。街並みを撮っていたものですから、気づかなくてすみません」


「疑うわけじゃないけど、おじさん、ちょっと見せてくれませんか?」


綺麗な子たちの中で、一際目のキツイ子が近づいてきて、スマホをよこせと言った。俺は撮影済みの画像を見せて手渡す。幸い、誤解されそうな写真や動画はあらかじめ消してあった。残っているのは、街の景色や草花の写真ばかりだ。


彼女たちは顔を寄せ合い、今撮ったばかりの動画を確認する。そして、代表の子が俺に言った。


「叔父さん、悪いけど、今撮った動画を削除してもいい?」


「どうして? 君たちは映ってないけど」


「ああ、ごめん。ただ、私たちの声が入ってるから。それに、この景色ならもう一度撮ってもいいんじゃない?」


「そうか。いいよ。削除するよ」


「あっ、大丈夫。もう削除しちゃったから。……それにしても、怒らないのね、おじさん」


「何が?」


「本当にやましいことがなかったら、怒ると思うんだけどね。あ、ごめん。余計なことだったかな?」


そう言ってスマホを返した彼女は、俺の魂胆はお見通しだと笑い、仲間たちと立ち去った。俺はまた街の風景を撮るフリをして、スマホを彼女たちとは関係ない方向へ向けた。顔だけ彼女たちの方へ向けると、さっきの子が、俺から目を離さずに睨みながら遠ざかっていく。


その瞬間、俺の顔はカーッと熱くなった。きっと赤面しているのだろう。あんな若い子に30男の薄汚い魂胆を見透かされた恥ずかしさが、一度に押し寄せてきた。

****************************

俺は交差点を撮りながら涙がこぼれた。幸い、見渡す限り人っ子ひとりいない。

それなら思い切り声を出して泣いてやろうと、スマホを下げて息を吸い込んだ、その時だった。


俺は見た。

横断歩道の真ん中に、ふっと突然現れた男を。

歩道の信号は青。男は周囲に人の目がないと思い、手に持っていた何かを目の前に持ってきて操作しようとしていた。

その瞬間、赤信号の筈の方向から、物凄いスピードで車が突っ込んできて男をはねた。

車は信号を無視して無理やり走行しようとしたのだろう。急に現れた男を避けることもできず、はね飛ばした。

男は放物線を描いて空中に高く舞い上がり、アスファルト舗装の路面に頭から落下した。

何かの殻を砕くような、グシャッという嫌な音がした。

俺は慌てて走り去る車にスマホを向け、すぐにその場で110番通報をした。


パトカーが2台駆けつけ、女性警官が通報者の俺に目撃情報を聞いてきた。

俺は黙ってスマホの動画を見せた。

「たまたま街の景色を撮っていたら、赤信号で突っ込んできた車が、横断中の人をはねたんです。慌ててスマホを向けました。はねた瞬間は撮れてません。びっくりしてそれどころじゃなかったので」

俺はなるべく被害者の方を見ないようにした。


俺の話を聞いているのは、スタイルの良い、目の綺麗な美人警官だった。テレビで元警官が「女性警官にはそんなに美人はいない」と言っていたが、あれは嘘だったのかと思うほどだ。その証拠に、この警官に逮捕されて手錠をかけられたら、そんなに嫌じゃないかも、などと変なことを考えてしまった。


「それで、どうして119番ではなく110番に通報したのですか?」

彼女は俺の顔を覗き込むように聞いてきた。

あっ、そうか。俺は事件とは別のことを考えていて、上の空だったせいだ。

「あっ、ひき逃げだから……。それと、119番にかけなかったのは、頭から落ちて即死だと思ったからです。びっくりしてそれは撮ってません」

「あっ、ちょっと待ってください」

彼女は自分より年上と思われる男性警察官たちに、名前を呼び捨てにして車の車種、ボディカラー、ナンバー、逃走方向、時刻まで伝えていた。動画をちらっと見ただけなのに、すごい記憶力だ。さっきの妄想を後悔するほど、少し怖くなった。


「申し遅れました。私はこういう者です」

目の前に出された警察手帳を見て、俺は凍り付いた。

名前は如月弥生きさらぎやよい、階級は『警視』だった。

俺の目の前にいるのは、田舎の警察署のトップよりも偉いかもしれない、上級警察官なのだ。


「あのう、あなたのお名前を伺ってもいいでしょうか?」

もし江戸時代なら、御代官様よりも偉いお奉行様が、ただの町民に敬語で話しかけているようなものだ。

「お……私は、こういう者です」

咄嗟に名刺を出そうと懐に手をやったが、今日は非番で持っていないことに気づいた。

「すみません。ええと、名前は埜箕伸三のみのしんぞうです。住所は……」

「あっ、ごめんなさい。スマホで連絡先を交換するだけで良いですよ。緊張しないで大丈夫です。あなたは大事な目撃者ですから、後で感謝状を贈ることになると思います。ところで、この後ちょっとお時間いただけますか?」

「はい、今日は年休なので、時間はあります」

「それでは、一緒に昼食はいかがですか?」

「えっ? いいのですか?」

「大丈夫です。私のポケットマネーで奢らせていただきますので」


彼女は急ににこやかな顔から真剣な顔つきに変わり、男性警察官に言った。

「西野、この方をパトカーにお乗せしろ……」

その後の言葉ははっきり聞こえなかった。「親父」「短パン」「人生」とか聞こえたが、何のことか分からない。

西野という警察官が、車のルーフに頭をぶつけないように手を添えてドアを開けてくれた。

驚いたことに、如月警視が俺の隣に親しげに乗り込んできた。

そして、世間話のように俺が会社員であることを言い当て、普段どんなものを食べているかなどと聞いてきた。

「どうして会社員だと分かったのですか?」

彼女は笑いながら答えた。

「名刺を出そうとしてたでしょう? 名探偵コナン君でなくても分かりますよ、そりゃ」

その時、軽く肩に手を触れられ、ドキッとした。おかげでいくらか緊張が和らいだ気がする。

でも、こんな若くて美人で偉い人が、俺みたいな冴えないおっさんに好意を持つはずがない。きっと何かを聞き出そうとしているんだ。


本来、目撃者は警察の協力者だ。だから、失礼のないように好意的な態度を装っているのだろう。

しかし、警戒すると何か隠していると疑われる。無邪気に振る舞わなければ……いや、俺の稚拙な演技力では逆効果だ。普通に緊張しているフリをするしかない。

いや、実際に緊張しているんだけど、隠し事がばれないかという緊張だと疑われたらまずい。


早くに亡くなった父親の言葉を、俺は今でも覚えている。

「伸三、大人ってのはな、必ず秘密の一つや二つを持ってるもんだ。それを守り通す口の堅さを持つことが大人への第一歩なんだ。覚えておけ。そう言うことが自然にできることが、自分と他人を区別することにつながるんだ。何も秘密を持たない人間は、自分のない、そして魅力のない空っぽの人間だ」

それを聞いてから、俺はどんなつまらないことでも、親や友達にも言わない秘密を持つことにしたんだ。


今回も秘密に決めたことがある。

それは、被害者が横断歩道上に突然現れたことだった。

こんなことを言っても信じてもらえるわけがない。だからこれは秘密にすることにした。

そんなことを考えているうちに、静かな佇まいの料亭のようなところで降ろされた。


「帰りは迎えに来てくれ。電話するから」

「はっ、分かりました」

「『母屋』の方から何か連絡があったら、『適当に言っておいてくれ』って、『おやじさん』にな」

「……伝えておきます」

このやり取りは、何かの刑事ドラマで聞いたことがある。警察の隠語で『母屋』は警察本部のことだったはずだ。

きっとこの警視は、本部から視察か何かで来たのだろう。ひき逃げ事件の担当でもない。たまたまこっちに来た時に事件があったので、関与してみたくなったのか?

一体この警視の狙いはなんなのか。俺はドキドキして、胃袋が喉まで上がってきそうだった。


「……の和食セットがお勧めですよ。同じものでいいですよね?」

しまった、話しかけられているのを忘れていた。料亭の説明をしていたようだが、俺には縁のない話だと聞き流していたのだ。

「はい……あまり高いものは申し訳なくて」

「大丈夫ですよ。警察に協力してくれる埜箕さんのような頼もしい市民がいるからこそ、事件は解決できるのですから。これは私の個人的な感謝の気持ちです。公にはできないことなので、ご内密に」

「は…はあ」

なんだかこの美人警官と共通の秘密を持ったみたいで、悪い気はしない。

待て待て、これは一種の捜査の常套手段では?

怖い刑事と優しい刑事、後者で籠絡させて何か秘密を聞き出そうとしているのか?


「あっ、そうそう。証拠映像として、例の動画を私の方に送ってもらえますか? 全般部分は街の景色なので、編集しても構いませんが」

「えーと、編集は……」

「貸してください。私の方でちゃちゃっとやっておきますから」

俺が何か言う前に、彼女はさっとスマホを取り、指先でポンポンと操作していた。さすがに速い。

「ふーん、本当に街の景色を撮っていたんですね。他にも風景や草花を映してるようですが、お好きなんですか?」

「ええと、そういう訳でもないんですが、他に映すものがなくて」

「人間とか?」

「勝手に映したら問題になるでしょう?」

「だったら知り合いとか」

「いませんよ。会社関係は仕事を思い出すから嫌だし。第一、撮らせてくれませんから」

「それは淋しいですね。どうです? 私ならツーショットでも良いですよ」

「本当ですか?」

うわああ、グイグイ来るなあ。でも絶対余計なことは言わないぞ。


「あっ、ちょっと待ってください。今連絡が入りました」

如月警視は自分のスマホを取り出すと、俺に頭を下げて廊下に出た。

「……マルモクを引き渡して欲しいって? 大丈夫、私がしっかり捕まえておくから。今回は証拠映像もばっちり残ってるし、歌わせるのは簡単だろう? ん? そんなことを言ってるのか? どっちにしろ赤で撥ねたんだから、前方不注意というより信号無視の危険運転致死だろう。一応聞いといてやるよ。じゃあ、また後で」

如月警視と一緒に仲居さんが料理を運んできた。

魚や野菜とのバランスがとれた、芸術品のような盛り付けだ。箸をつけるのがもったいないほどだ。しかもなぜか熱燗の酒もついている。

仲居さんが出て行くと、如月警視は俺の隣に座って、膝を崩した。


「被害者の方を見ようとしなかったのは、さすがにああいうのに慣れていなかったのですよね。本当にお疲れさまでした。緊張をほぐすためにも、おひとつどうぞ。あ、もちろん、私も非番ですからご一緒できますよ」

どうしよう? ぐい吞みに温かい酒が注がれる。俺も震える手でお返しに注ぐ。

「それでは、容疑者確保を祝って乾杯!」

「えっ、もう確保されたんですか?」

「はい、今の電話で報告がありました。これも埜箕さんのおかげです。ああいう映像が撮れることは滅多にないんです。では、乾杯」


美味しい料理を食べてお酒も飲み、いい気持ちになってきたが、如月警視はとにかく酒が強い。

俺はぐい吞みでチビチビ2、3杯飲んだだけで、頭がほわーっとして顔や耳まで熱くなっている。一方、彼女は2杯目から銚子を逆さにしてグラスに注ぎ、水を飲むようにゴクゴクと数秒で飲んでしまう。

そして部屋付きのインターホンを押し、「とりあえず銚子を10本」と追加を頼んでいる。


「そういえば、ツーショットを撮る約束でしたね。私ので撮りますから、もう少しこっちに寄ってください」

そう言って、左手で俺の肩を抱いてグイッと引き寄せた。右手でスマホを高く掲げると、さらに顔を寄せてきた。

「埜箕さん、いや……もう伸三さんですね。私のことは弥生と呼んでください。もう友達ですよ。パチ。ピースしてみてください。私の分もだから、両手で二刀流でお願いします。パチ」

肩を抱く腕が密着し、俺の二の腕に弥生さんの胸の膨らみが押し付けられる。

「えーと、写真は伸三さんの方にも送りましたよ。ついでに他にも送っておこうっと。もう伸三さんは私が唾をつけたのだから、誰にも渡しませんよ。あははは」

マーキングというやつか。この事件の中心は、犯人よりも犯行直後の逃走を撮影した目撃者の俺なのだろうか?

弥生さんは肩を組んだまま、俺の顔を覗き込むようにして言った。

「ところでね、伸三。容疑者が変なことを言ってるらしいのよ。信号が赤だったのは間違いないけど、横断歩道には誰もいなかったって。それどころか、交差点には車も人もいなかったから突っ込んだ。そしたら何もない所に急に人が現れたんだって。そんな馬鹿なこと、ある? だからブレーキを踏む前に、はねてしまったって言ってるの。伸三が見た時はどうだったの?」


来たな。とうとう来た。こんなに肩を組んで胸を押し付けて、顔を近づけて、しかもすごい美人が、何気ない甘い言葉で聞き出そうとしている。

俺は男だ。大人の男だ。秘密は守る!

「それは俺にも分からないよ。見た時は人が立っていて、その直後にはね飛ばされたんですから。その前は俺は空を見上げていたから、いつその人が歩道に来たのかは分からないんだよ」

「うんうん、そうかあ」

弥生さんは俺の目を見ながらコクコクと頷き、自然な流れで次の質問をする。

美人の目というのはすごい威力だ。そしてスタイル抜群の弥生さんは、俺みたいな男なら簡単に数秒で制圧してしまうと思われる。きっと鍛え抜かれた体をしていることがよく伝わってくる。


「ねえ、景色を映していたのが、突然地面を映してしまったよね。あれ、一体どうしたの? その間、車が突っ込んで人をはね飛ばす音と、路面に落下したらしい音が入っていたけれど、どうして景色を映すのをやめたの? もしかして、事故が起きる前のことも見えてたんじゃない?」

弥生は息がかかるほど俺に顔を近づけて聞いてきた。

これは本当のことを言うしかないだろう。

「実は俺……風景を映していて、急に悲しくなってさ。ああ、俺って友達も誰もいない淋しい奴なんだなって。そう思ってカメラを下げて空を見上げたんだ。そして、恥ずかしい話だけど、思い切り声を出して泣いてみようとしたんだよ。その時なんとなく交差点を見たら、今言ったように人が立っていて、その直後車が来てはねたんだ」

すると弥生さんは、俺の正面から両手で肩を抱き、ハグしてきた。

そして、俺の背中をポンポンと優しく叩きながら、耳元で囁いた。

「そっか……伸三は淋しかったんだね。きっと、そのことが言えなくて口を重くしてたんだね。何か言えないことがあるんじゃないかって、気になってたんだけど、そういうことだったんだね。うん、分かるよ。伸三が本当のこと言ってるって、私には分かるよ。それじゃあ、車呼ぶね。家まで送らせるから」

そしてパッと離れると、スマホ片手に廊下に出て、車を回すようにテキパキと指示していた。俺が話した内容には触れていなかった。その件は「後で」と言っているのがそうなのかと思った。


パトカーで送ってもらい、警察と別れた後、俺は水を飲んで酔いを覚ました。

実は、あまり飲んでいなかった。

昔、大学の寮祭で劇の主演をやったことがある。演目は太宰治作の『春の枯れ葉』で、主人公は酒にベロンベロンに酔う演技をしなければならなかった。俺は酔った演技がうまかったおかげで、演技賞をもらった。

だから、軽い酔いの演技は自然にできて、自分でも演技か本当か分からないくらいだった。


如月警視はきっと、プロファイルや犯罪心理学を勉強して、相手の表情や言動で心理を見抜くことに長けているのだろう。

俺の微妙な表情の変化から、何かを隠していると狙いをつけ、食事に誘って巧みに誘導し、隠していることを聞き出そうとしたのだと思う。

ひき逃げ犯が単独犯なら問題ないが、俺の態度が不審だったので、何か関りがあったのではと疑ったのだろう。

だが、俺が撮影した場所から横断歩道までの距離を考えても、被害者を暴走車の前に突き飛ばすなどできるはずがない。それは如月警視も分かっているはずだ。

それでも気になったのは、景色を映すのを急にやめて地面を映していたことだろう。その間、音だけで事故があったことが分かっただけ。

だが、酒まで飲ませて真相を聞き出したことで、彼女は納得したに違いない。あれは実際に本当のことだから。あくまでも「一応の」納得だけれどな。


俺は腰を上げた。もう辺りは暗くなっている。もう一度水を飲んでから、ペンライトと財布を持って外に出る。

事故現場は、俺の家から歩いて5分ほどの距離だ。さらに5分ほど歩くとコンビニがある。俺はわざとゆっくりと歩いた。

夜風が気持ちいい。そうだ、俺はまだ酔っているんだ。

事故現場を通り過ぎ、コンビニにたどり着く。カップラーメンを何種類か買って、新発売のチョコレートも買うことにした。

大きなレジ袋を買って、女店員に買った物を入れてもらうと、また俺はふらーっと外に出た。

そろそろ膀胱に小水が溜まってきた。もう少し我慢しよう。もうすぐ事故現場だ。事故現場の道路沿いには、雑草が生い茂る空き地と木の茂みがある。

俺はその場所にたどり着くと、草地の中に入っていった。どこで用を足すか迷いながら、フラフラと歩く。

足元が暗いと危ないので、ペンライトをつけている。

わざと迷いながらフラフラして、あるものを探していたのだ。

そして、目的のものを草の中に見つけたので、その上にレジ袋を置いた。

警察がここを見なかったので残っていた。これはいただいて良いだろう。

もう事件は解決したのだし、赤信号を無視したことに変わりはないのだから、これを警察に提出したところで何の役にも立たないだろう。

そして、そこから木の茂みのある場所にこっそり忍び寄り、用を足した。水をたっぷり飲んだので、勢いよく小便が出た。

レジ袋を取り上げ、なんとなく中にあったチョコレートを手に取ってみる。

「ハックション!」そのくしゃみをした弾みで、チョコを地面に落とした。

俺はチョコレートと一緒に例の物を拾い、レジ袋に入れた。

これでミッションコンプリートだ。


「伸三さん、さっきぶり!」

どこから出てきたのか、声をかけてきたのは如月警視だった。

やっぱり部下に命じて俺を見張っていたんだな。そして俺が外出したことを聞きつけ、監視していたに違いない。

「あっ、もしかして見ていた? どうしよう、軽犯罪で捕まってしまうのかな」

「えっ、何のことかな? 物陰に隠れて何かゴソゴソやっていたようだけど、よく見えなかったし。それより、買い物ですか?」

それを聞いて、俺はまだ酔いが醒めない雰囲気でレジ袋をごそごそと掻き回し、チョコを半分に折ってカップ麺を一つつけ、彼女に差し出した。

「奢ってくれてありがとう。俺は貧しいからこんなものしかお返しできないけど、食べてくれ、や……弥生さん」

「あら、ありがとう、伸三さん。良いのかい、いただいても」

「チョコは俺と半分こってことで、新発売らしいから食べてみて。ところで、どうしてここに来たの?」

「ああ、ここは事故現場だから、何か落ちてないかと思ってね。でも、地元警察が調べた後だから何もないけどね。じゃあ、元気で。おやすみなさい」

「はい、おやすみなさい~」

彼女と別れ、曲がり角を曲がった途端、俺は例のブツを素早く取り出して、ズボンのベルトの裏に挟んだ。ちょっと下腹部が固くて痛いが、我慢だ。

すると予想通り、後ろからパトカーが来た。運転しているのは西野という巡査で、後部座席のドアが開いて、如月警視が降りてきて俺の手を引っ張った。

「やっぱり、家まで送るよ。伸三さん、足元がおぼつかないから。またチョコを落としたら困るでしょう?」

やっぱり見てたんだな。チョコを落としたところを。そして、拾うときに別のものも拾ったことについては、はっきりとは見えなかったはずだ。あそこは暗かったから。それでもよくチョコだと分かったな。恐ろしい。

そして、油断させておいて、こうしてまた俺を捕まえて離さない……怖い女だ。


「他にどんなカップ麺を買ったのかな?」

やはり如月警視は、さりげなくごく自然を装ってレジ袋の中を見てきた。

もちろん、コンビニで買ったもの以外は入っていない。

彼女は首を傾げて袋の中を見るが、目指すものがないので、ちょっと焦っている。そして、俺のズボンのポケットに手を伸ばして、さりげなく触る。

「あれ? この膨らんでいるものは?」

彼女はペンライトがポケットに入っているのを見て、何だろうと聞いてきた。

「うん、暗がりを照らすライトだよ」

取り出して見せ、彼女の顔を照らしてやる。相変わらず綺麗な顔をしている。

だが、さすがの彼女も俺の下腹部までは触ろうとしない。ラッキーだ。


家に着いてから、俺はようやく例の物を取り出した。

まず、あの被害者の男は突然現れた。何もない所からパッと現れたのだ。

そして、手に持っていたこの機械を懸命に動かしていた。上下に。

車にはねられた時に手から離れたその機械は、空き地の草に落ちたのだ。


この四角い機械は、昔の鉱石ラジオくらいの大きさだ。スイッチが一つあり、上に上げるとオン、下に下げるとオフになる。だが、オンにしても何も起こらない。スイッチの他に、ダイヤルが一つあるだけだ。

ダイヤルには目盛りがあり、赤い色の部分には1/2, 1/4, 1/8, 1/16と書いてあり、青い色の部分には1/600, 1/1200, 1/2400, 1/4800と書いてある。ダイヤルの▲印をそこに合わせるようになっている。

そして、ダイヤルは青い色の1/4800のところに合わさっていた。

つまり、あの男は懸命に1/4800の部分でオンにして、この機械を動かしたかったのだろう。

では、なぜ動かなかったのか? 普通に考えられるのは電池切れだ。

裏蓋をコインで外すと、単3電池が2本出てきた。バッテリーテスターで測ってみると、電池の寿命はゼロになっていた。

俺は買い置きの未使用の単3電池を2本出して機械にはめ込んだ。そして、ダイヤルを1/4800の状態でスイッチをONにした。


すると、周囲が静かになった。

そうか、部屋の中では分からないから外に出てみようと立ち上がると、体が浮いて危うく天井に頭をぶつけそうになった。

なんだ、これは?

一度スイッチをオフにして外に出た。

出てからすぐにオンにすると、夜の街並みがやけに静かだ。つまり、周りの目に映るすべてのものが静止していたのだ。他の目盛りも動かしてみたが、青い色の部分はすべて同じだった。

だが、赤い色の目盛りになると、周りの物はゆっくりだが動いている。1/16が一番遅く、1/2が一番速い。

石を上から落としても、速度の違いが分かる。


俺はこの機械の使い方が分かった。

赤い色の部分は、おそらく通常の時間で動くことができる割合を示している。1/2なら通常の半分の時間で、1/16なら通常の16分の1の時間で動くことができるということだ。

つまり、普通なら16秒かかる動作を、1秒でできてしまう。

それでも、この機械を使っても俺の動きはかろうじて目に見えるだろう。目にも止まらぬスピードかもしれないが、チラッとでも見えるはずだ。その分、俺の目には周りのものがすべて遅く見えるのだ。


さて、青い色の部分について。1/600というのは、1秒の中で600秒、つまり10分相当の動きが可能だということだ。この青い色のダイヤルに合わせると、ほとんど周囲のものは静止して見えるだろうし、周囲の者からは、この機械のユーザーは目に見えないと思う。


「つまり、赤い色はいくら早くても目に見えるし、青いダイヤルは目に見えないから気づかれることはないんだな」

俺はそう結論付けた。これはよくアダルト動画で扱われる『タイムストップ』の機械なんだ。

いや、正確に言うと**『タイムコントローラー』**と呼ぶべきか。

そして、あの事故で死んだ男は、周りが動いていないから安心して横断歩道を渡っていたら、急に電池が切れてスイッチがオフになり、見えるようになってしまった。

彼は焦ってスイッチを何度も押そうとしている間に、車にはねられた。そういうことだ。



俺は次の日も年休だったので、早速、偽装工作を始めることにした。


あの「タイムコントローラー」は、どう見ても現代の日本の製品ではない。これをそのまま持ち歩くのはリスクが高い。そこで、古い鉱石ラジオのケースを使い、中身をくり抜いてコントローラーを収めることにした。コントローラーは少し大型だったが、スカスカのラジオケースにぴったり収まった。スイッチとダイヤル部分は外から見えるように加工し、残りの隙間にコントローラーの内部機構を収める。


このコントローラーの内部は、何か有機物と無機物が組み合わさった不思議な構造だった。サザエ貝のような突起が多数あり、ゴムのような弾力を持っている。そこから細い銅線が出て、無機質な部品と結びついているのだ。これが異次元宇宙から飛来した物質なのだろうか。


ともあれ、これで外見は昔のトランジスタラジオに見えるだろう。電池の残量チェックだけは、一日一回必ずするように決めた。さらに、釣り人用のベストにコントローラーをすっぽり入れ、イヤホンを繋いでラジオを聞きながら歩けるようにした。これで準備は万端だ。


さて、いよいよ試運転をしようかと思った矢先、来訪者があった。


「伸三、元気?」


私服姿の如月警視だ。彼女の後ろには、頭一つ半低い童顔の女性が顔を出した。


「ああ、こんにちは。埜箕伸三さんですね。私、弥生さんの同僚の睦月神無むつきかんなです。あっ、今日は非番ですので、名刺で」


差し出された名刺には、『睦月神無 警察庁科学捜査部 警視』と書かれていた。科学捜査部…? 勘弁してくれ、また厄介な人物が来たな。顔は女子高校生くらい幼くて可愛らしいのに。


睦月警視は目をキラキラさせ、俺の顔を見上げながら近づいてきた。


「それで、今回の被害者の身元が分かりました。知りたいでしょう? ね、知りたいでしょう?」


「あのう、そんな貴重な情報、俺に言って良いんですか?」


「良いんです! だから聞いてください。あっ、でもやっぱりドアを開けたままはまずいですね。上がってもいいですか?」


「あの……片付けてないので散らかっていますが……」


「ああ、全然気にしてません!」


いや、俺が気にするんだよ。今日が初対面じゃないか。


「あら、全然綺麗に整頓されてるじゃない」


「それで、今日はどんなご用件で?」


私服で来たということは、公務ではないというアピールか?


「いやあ、埜箕さん、悪いな。この睦月がぜひ君に聞かせたい話があるって言うもんで」


「ああ、それは私に任せて。実は被害者のジョージ・森山って男はね、NASAに勤めていた日系3世だったかな? その彼がNASAの機密事項を盗んで逃走していたって話なんですよ。凄いでしょう?」


「いや、何が凄いのかよく分からないんですけど……機密だから話せないんじゃ?」


「いえいえ、これはここでは話せることになってるの。ここだけの話だけどね。それでその機密事項というのは……ちょっと耳貸してくださいよ。ね、もっとかがんでくれないと届かないじゃない」


俺は仕方なくかがんだ。すると、睦月警視の柔らかい唇が耳に触れ、生温かい息が耳の穴にかかった。


「つまりね、それは事項とはいえ、一種の物質なの。異次元宇宙から飛来したと思われる、時空を操作する有機的な器官。それを森山ってのが盗んだの」


なんだこれ。警察の捜査はこんなに進んでいるのか。それを俺に話すってことは、やはり俺が疑われているのか? しかし、俺はしらばっくれるしかない。


「ところが、彼の家を探しても、事故現場を調べても、そういうものが出ていないの。だから、埜箕さんに心当たりがないかなって」


「うーん、と言われても、あの時は頭が潰れたみたいだったし、近づくのも気持ち悪くて……確かに撥ねられて飛んだところや、路面に頭から落ちたところは見ましたが、有機物質でしたか? うーん、それは小さいものなんですか?」


「小さいと言えば小さいよね」


「なら気づかなかったかもしれないな。とにかく、森山さんが撥ねられたところしか覚えてないんです」


「しっかり思い出して、何か持ってなかったですか?」


「そこまで言われれば、何か持っていたような気もしますが、それがどんなものかと聞かれても、何も言えませんね」


俺がそう答えると、弥生警視が睦月警視の肩を叩いて、にこやかに言った。


「ほら、睦月。彼には本当に何も心当たりがないみたいだ。それより、私に言われたことを忘れてるんじゃないか? 彼の家に上がって、何か面白いものを探すんじゃなかったのかい?」


睦月警視は「うっかりしてました!」と笑い、俺の部屋を興味津々といった様子で見て回った。俺は内心ヒヤヒヤしながら、彼女たちが帰るのを待つしかなかった。

睦月警視は童顔で親しみやすい印象だが、その中身はハイエナのように決して獲物は逃がさないという感じだった。


俺は一計を案じた。

「ちょっと先に小用を足して来て良いですか? すぐ戻りますんで」

「あっ、どうぞどうぞ。ごゆっくり」


そう言いながら睦月警視の目がピカッと光った気がする。

俺は、トイレに向かう途中で彼女らの姿が見えなくなった時点で、例の機械をオンにして、一番遅く時間が流れるようにした。


俺はそうっと彼女らのいる場所に戻った。ひとところに長く止まっていなければ、彼女らの目に認識されることはない筈だ。俺は二人の持ち物を見て、そっと見比べた。

まずオレはプラグローブを台所から持って来てはめた。

小麦粉を練ったりするときに手に嵌めるものだ。

これなら指紋が残らないだろう。

睦月警視は大きなショルダーバッグを持っていた。そして如月警視は小さなポーチを腰につけていた。

まず如月警視のポーチの中を見た。ハンケチや簡単な化粧バッグが入っていた。

次に睦月警視のショルダーバッグの中を見ると、なにか機械のようなものが見えた。

なにかを検査する?いやこの形状からして何かを探知する機械か?

だとするともしかして俺の持ってるこの機械を探知されるかもしれない。

俺はそっとそれを抜き出して中の電池を見た。幸いよくある普通の単3電池四本だ。

俺は使用済みで放電した電池をゴミ出し用の箱から4本出して入れ替えた。

トランジスターラジオに使っていたもので、テスターで測ってもゼロになっている廃電池だ。それを入れてやって機会をバッグに戻した。

問題は俺が身に着けているトランジスターラジオもどきだ。そこからイヤホーンを出して偽装してるがそれを調べられればすぐに分かってしまう。

だから俺はもう一台持っている本物のトランジスタ―ラジオを釣り用ベストのポケットに納め、例のコントローラーを内側のポケットに入れた。

そしてトイレに向かう廊下の途中に戻って通常時間に戻してトイレに入り実際小用を果たして水を流し手を洗って居間に戻った。

「すみません。それで何を捜しているんでしたっけ?面白い物って何ですか? あっ、エロ本とかですか?」

「その前に埜箕伸三さん、イヤホーンで何を聞いてたんですか?」

俺はトランジスタラジオをポケットから出して、睦月警視に見せた。

「スイッチは切ってあります」

「あら、本当にラジオだわ」

イヤホンジャックを外してスイッチオンにすると大音量で音楽が流れる。

ラジオを返して貰うと、今度は睦月は狡そうに笑って俺に言った。

「埜箕伸三さーーん、ちょっと体触って身体検査しても良い?」

言い方は甘えるような感じだが断ることを許さない響きがあった。

俺は急いでコントローラーのスイッチを入れてなるべく体をぶれさせずにトランジスターラジオを睦月のショルダーバッグの中に入れて、コントローラーをたった今見せたトランジスターラジオを入れてあったポケットに入れたのだ。

「そのフィッシングベストの内側のポケットに何か入れてない? あれ?

これはポケットティッシュ?」

その後は自由に睦月に触らせた。彼女は結構際どい所まで触って来る。

これが男女逆の立場だったら大変なことになるが、俺は余裕で触らせて良い気持ちでいた。

こんなに女性にスキンシップされるなんて貴重な経験だからだ。

しかも可愛い童顔の警視さんだ。

「しょうがないなー、じゃあ、奥の手と行くかぁぁ。埜箕伸三さーーん、本当に何も隠してないよねぇ?」

「いやいや、大人だったら多少は秘密があるもんです。で、何を捜してるんですか?」

「大丈夫、それを捜し出す探知機があるんですよ。うふふふ。この最後の切り札を出させるとは、さすがですねぇ♪」

そのとき、俺は体をぶれさせずに彼女のショルダーバッグの中の中からトランジスターラジオを回収して内ポケットにしまった。もちろん時間を止めてからだ。

睦月は探知機のスイッチをオンにして俺の部屋に向けた。

「あれ?何も反応がない!?」

睦月の顔の表情は急に落ち込んでしまった。

探知機を仕舞って彼女は肩を落とす。

「はあ……ちょっとトイレお借りできますか?」

「ええ、どうぞどうぞ。こちらです」

俺は睦月警視を廊下の方に導いてから、如月警視の死角になった時に時間を止めた。

再び俺はプラグローブを履いて、先ほど素手で触ったショルダーバッグとその中の探知機を35度の焼酎をティッシュに沁み込ませ拭いた。そして探知機の中の廃電池をもともと入れてあったものと取り換えた。

それから時間を戻して俺はトイレを指さした。

「そこですから。では」と言って俺は居間に戻る。もちろんプラグローブは外した。を

トイレから戻った睦月は凄く肩を落としていたが、俺は湯飲みに梅シロップを焼酎で割ったものを入れて二人に勧めた。

そのときにわざと粗相をして睦月のショルダーバッグに焼酎を零した。とうか雫が飛んだと言って、ティッシュで拭き取る動作をした。これで焼酎の匂いがバッグや探知機に残ってることに疑念が残らないだろう。

しかし如月警視も酒豪だが、睦月警視も強かった。果実酒用の35度の焼酎を殆ど一人で飲んでしまった。如月警視は運転するために梅シロップの梅割りを飲んでいた。

「これおいしいね。青梅のシロップ漬け?」

如月警視が出されたものを食べながら言った。

「ああ、これ簡単ですよ。青梅を水に漬けておいてから竹串でヘタを取ってから、串で突き刺して穴だらけにしたのを1kg電気釜にいれるんですよ。それに白砂糖を500g入れて保温状態にして一晩置くだけで、梅のシロップ漬けと梅シロップができるんです」

「へええ、埜箕伸三さーーんって、手まめなんだねぇ」

と言って睦月警視はまたべたべた俺に触って来る。もちろんたとえ股間を触ることを許してもベストの内ポケットは触らせない。いや、股間は触って来ないけど。

2人はこうして帰って行った。睦月警視は俺に対して誤解してたことの埋め合わせをする積りか随分機嫌を取って行った。

えっ、その後はどうしたって?

如月警視が俺に後でコントローラーの行方に関しての推理結果を教えてくれた。

「ひき逃げ犯人の車の下のどこかに引っ掛かって、それが逃走中に道路わきに破損された状態で投げ出されたのではないかと。それは本体が有機質だから獣の餌になったり、虫に食われて消失したと考えられる」

ということになった。

俺かい? コントローラーをこっそり使って、結構悪いことしてるよ。

この間は例のJK三人組に……おっと、これは秘密、秘密っと。

コントローラーなんて俺は最初っからしらないよ。うん。


   了


薫は本を閉じた。これは完結してるからコメントはいらないな。

そして次の本に手を伸ばした。



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