第9話 決定的な破綻
わたしが最後に練り上げた計画は、これまでの些細な誣告や捏造とは異なり、あの娘の存在を根こそぎ否定しうる大仕掛けだった。中途半端な工作では、彼女が得ている周囲の信頼を揺るがせない。かといって、これ以上細かな嫌がらせを続けても、わたしへの疑惑が深まるだけ。ならば、社交界を動かすほどの衝撃を与えるしかない――その思いから、わたしは今まで秘蔵してきた“手段”を解禁することを決めた。
具体的には、彼女の家に関する重大な秘密を捏造し、公的な場で大々的に暴露するというものだ。貴族の家門を揺るがす疑惑、それが真偽不明のまま世間に広まれば、よほど家筋が強力でない限り、当人は激しいバッシングを受けることになる。あの娘の家は上流貴族ほどの影響力は持たない。ゆえに、この方法なら一気に彼女を社交界の舞台から追放できるはずだ。彼女一人が耐え切れずに潰れてしまえば、彼女に傾きかけた彼の気持ちもきっと戻ってくる――わたしはそう信じ込もうとしていた。
計画を実行する舞台に選んだのは、ある伯爵の主催による大規模な夜会。音楽家たちが招かれ、ダンスや演奏が華やかに行われる盛典だった。招待客にはわたしの両親や、あの娘、そして当然わたしの婚約者も名を連ねている。ここでなら、多くの人々の前で一気に“証拠”を叩きつけられる。あの娘の家にまつわる捏造書類と、いかにも差出人不明の密告状を携えて、わたしは夜会の直前まで入念に準備を進めた。
そして夜会当日、わたしはいつもより華美なドレスに身を包み、大輪の花のように派手な姿を演出していた。周囲の視線を集めるのはそう難しくない。わたしが公爵家の娘であることも相まって、その存在感が否応なく注目を浴びる。かえって彼女のような可憐で控えめな装いが目につく中、わたしは大胆な装飾で会場を練り歩いた。いつもは目立つ行動を避けがちなわたしだったが、この日はあえて堂々と立ち回る。すべては計画を確実に成功させるための布石だ。
夜が深まり、演奏がひと段落すると、大広間にはさざめくような会話の声が広がった。人々はドリンクを手に、それぞれ興味を持つ話題を探している。わたしもわざとらしく人の輪に加わり、あの娘の名を口にする機会を狙う。すると程なくして、彼女のいる方向を示す人々の言葉が耳に入り、「あの娘がそちらにいますわよ」という声をきっかけに、会話があちこちで弾み始めた。いよいよ、この場が最高潮に盛り上がる瞬間を狙って、わたしは捏造書類を披露する予定でいた。
「そのお嬢様、確かに評判はいいんだけれど、何やら出自に不審な点があるとか……」
そんな具合に、わたしはさりげなく周囲に噂を投下し、注意を引き寄せる。そして、あたかも自分にも真相が分からない風を装いつつ「気になるわね。確かな証拠があるなら、きちんと明るみに出すべきでは?」と声を上げる。狙い通り、周囲の耳目がわたしの口元へ集中するのを感じた。わたしは確かめるような仕草をしながら、用意していた封筒を手の中で確認する。
ところが、その瞬間――まるで運命の悪戯か、わたしの背後で風を切るような音がした。振り返ると、そこには彼が立っていた。わたしの婚約者。彼は険しい表情で、わたしの手にある封筒に視線を注ぎ、はっきりと眉間に皺を寄せている。そのまま「何をしようとしている?」と小声で問いかけてきた。その目には、もう以前のような優しい光は微塵もない。ひどい嫌悪と、不信の色が濃く滲んでいるのが分かった。
「……何でもないわ。あなたこそ、こんなところで何を?」
動揺を悟られないように、わたしはドレスの裾を少し持ち上げて会釈をし、淡々と切り返そうとする。だが、彼は後ろからすっと腕を伸ばし、わたしの手もとを掴んだ。封筒に手をかけられると、わたしは思わず「あっ……」と声を漏らす。そこには、彼女の家系を失墜させるための偽造文書や、根拠のない出自の疑惑を書き連ねた告発文が入っている。もし今ここで彼に見られれば、計画は台無しどころか、わたし自身がすべての黒幕であることが露呈してしまう。
「渡しなさい」
彼の声音は低く鋭い。周囲にはまだ気づかれず、ざわめきの中にいる客人たちは楽しく談笑を続けている。わたしは必死に抵抗したが、彼は力を緩めることなく封筒を奪い去った。わたしが引き止めようとするより早く、彼はその場で封筒を破り、まだ封をしていない中身を引っ張り出す。そして、目を通すにつれ、彼の顔色はますます青ざめていった。
「これは……。まさか……君が、こんなものを用意したのか?」
低い声でつぶやかれた問いに、わたしは返事ができなかった。次の瞬間、わたしの耳はまるで雑音に包まれるような感覚になり、口を開こうとしても震えしか出ない。彼は顔を強張らせたまま、周囲には「失礼する」と告げてわたしの腕を掴み、大広間の隅へとわたしを引きずるように移動した。周囲の人々も何事かと振り返りそうだったが、彼のあまりの剣幕に声をかけられず、道を開けるほかなかったようだ。
「……どうして、こんなことを……!」
彼が詰問する声は、そのままわたしの心を凍らせるかのようだった。すでに誤魔化しようのない証拠が、彼の手には握られている。そこには「彼女の家が実は貴族の血筋ではない」、「正式な婚姻によって生まれた子ではない可能性が高い」という疑惑を捏造した文章があり、さらにそれを裏付けるかのような“関係者の証言録”を偽名で作成してあった。ここに至って、わたしが何を目論んでいたかは、彼にとって明らかだったのだろう。
「違うの……わたしは、ただ……」
弁解しようにも、頭が真っ白になって言葉が出てこない。彼はわずかに震える指先でその書類をわたしの目の前に突きつけ、「君はこんな卑劣な手を使ってまで、あの娘を追い詰めようとしたのか」と吐き捨てる。わたしは否定も肯定もできず、ただ必死に唇を噛み締めるばかりだった。すると、そこへあの娘が慌てて駆け寄ってくる姿が目に入り、わたしの頭はさらに混乱する。
「……何があったのですか? 何か、険悪な雰囲気が……」
彼女は心底心配そうな顔で、わたしと彼を交互に見つめている。その瞳には、ほんの少しの疑いもない。わたしがこんな書類を偽造したなど、想像すらしていないのだろう。人を陥れる計略など考えもしない純粋さが、ますますわたしの胸を苦しくさせる。狂おしいほど嫉妬してきたはずなのに、この瞬間ばかりは彼女の無垢さが胸に刺さりすぎて、呼吸が乱れた。
「もういい、君は向こうへ行ってくれ。ここは、わたしが話をつける」
そう言って、彼はあの娘を制した。頼りにしているはずの彼が、今はまるで鋭い刃のようにわたしを追い詰める。あの娘は納得できないまま、彼の静かな視線に押されて引き下がったが、わたしのほうを何度も振り返っていた。その様子だけで、わたしの罪の重さがいや増しに胸を圧迫するようだ。
「……すべてを、白状しなさい」
彼が静かに、しかし確固たる意志を込めてわたしに迫る。わたしは逃げ場を失い、ついに瞼を伏せながら震える声で言葉を紡いだ。――彼女が怖かった、彼を奪われるのが嫌だった、そのためにあの娘の出自を貶めようとした。冷静に考えれば身勝手極まりない動機だが、わたしの心には狂おしい愛情と強迫観念が渦巻いていた。それを支えに、ここまで悪事を重ねてきたのだ。そんな過程を言い訳がましく語るわたしの声を、彼は最後まで黙って聞く。
語り終えたとき、わたしの瞳からは大粒の涙があふれていた。醜く泣き崩れそうになるわたしを見ても、彼の表情は変わらない。それどころか、その瞳には深い失望と悲哀の色が宿っている。それが、わたしには耐え難かった。いつも優しげなまなざしを向けてくれたはずの彼が、今は冷ややかな目をしているという現実が、わたしの胸を鋭く切り裂く。
「もう、これ以上は無理だ……」
低く落ちた声が、わたしの耳に突き刺さる。次いで彼は言葉を続けた。
「君とは、婚約を解消する。公爵家が何と言おうと、わたしはこれ以上、君の行いを見逃すことはできない」
その瞬間、わたしは足元が崩れるような衝撃を覚えた。何としてでも繋ぎ止めたかった婚約。幼い日から信じてきた光、わたしを救ってくれた唯一の存在が、今まさにわたしの手から離れていく。悲鳴のような声を上げそうになるのを必死にこらえ、わたしはただ「嫌……」と呟いた。けれど、彼の決意を覆せそうな隙はどこにも見当たらない。
そこへ追い打ちをかけるようにして登場したのが、わたしの両親だった。先ほどの騒ぎに気づいた伯爵が、主催者として収拾を図ろうとした結果、両親もまた事態を把握することになったらしい。彼らはわたしが仕組んできた工作の一部始終を知らされると、顔面を蒼白にして「なんということを……」と震える声を漏らす。やがて彼らの視線はわたしへと集まるが、そこには怒りと落胆しか感じられなかった。
「お前は、公爵家の名を汚し、さらにはあの方を欺くなど……取り返しのつかない罪だ」
父の声に、わたしは背筋が凍った。続く母の言葉もまた、冷たい刃のように胸を突き刺す。
「どんな顔をして社交界を歩くつもりなの。わたしたちは、もうお前をかばいきれない……」
親子の情すら感じさせない非情な宣告。わたしは必死に目を見開いたが、父も母もすでにわたしを見てはいなかった。公爵家の威厳を守るために、わたしという“失敗作”を排除する。それが、彼らにとって唯一の選択肢になったのだろう。わたしはその現実に頭が真っ白になったまま、何も言い返すことができない。
気づけば、周囲の人々もざわざわとわたしを取り囲み、遠巻きに嫌悪と興味の入り混じった視線を向けていた。あの娘もまた、少し離れたところで泣きそうな顔をしている。わたしの婚約者は、「……行こう」と小さく彼女に言い、振り返ることなく去っていった。その背中を追いかけようとして、わたしは足に力が入らず倒れかける。膝を床に着き、言葉にならない声を上げたが、誰一人わたしに手を貸そうとする者はいなかった。
「まさか……こんなはずじゃ……」
かろうじて唇を震わせながら呟くも、もう遅い。策略は失敗し、その証拠は彼によって暴かれ、わたしの家も婚約も、すべてが壊れてしまった。大勢の客人が行き交う夜会の会場で、わたしは一瞬にして孤立した。両親はわたしから目をそらし、他の親族や関係者も面倒ごとに巻き込まれたくないのか、距離を置いている。こうしてわたしは、公爵家の娘という立場も、将来を誓い合ったはずの彼も、一瞬にして失ったのだ。
涙が止まらない。どれほど涙を流しても、胸を突き刺すような喪失感はまったく薄れない。この結末は、わたしが自らの手で招いたもの――頭で理解していても、感情は暴走したままだ。わたしは床に両手をつき、崩れ落ちた姿で背中を丸める。そこに見下ろすような冷たい視線を感じたが、もうどうでもよかった。誰の同情も期待できない、完全なる破滅の瞬間。絶望的に沈む意識の中で、わたしはかすかに思う――幼いころ、あの雨の日に手を差し伸べられた瞬間から始まったすべてが、ここで終わるのだと。
「わたしは……いったい、何を守りたかったの……?」
かすれた声でそう呟いたところで、すでに誰にも届かない。わたしの視界に浮かぶのは、彼があの娘を支えて去っていく後ろ姿。いつか、わたしの隣で笑ってくれるはずだった人が、今や憎しみさえ抱くかもしれない相手のもとへ向かっている。まるで、命の源が根こそぎ奪われるような感覚に、わたしは自分の存在が空虚になるのを感じる。ここにいてはいけない、立ち上がる理由さえもう見つからない。
それでも、わたしはうまく声を上げることもできず、身を震わせながらただうなだれるだけだった。周囲がどれほど冷笑しても、あるいは無関心を装って通り過ぎても、わたしにはもはや気にする余裕もなかった。――こうして、わたしという存在は公爵家や社交界すべてから切り捨てられ、婚約さえ解消され、立つ場所を完全に失った。まるで灰のように、どこにも帰属できない身となったわたしは、その場で身を縮めるほかになす術を見つけられない。
足元に広がる大理石の床が、冷たく硬い。かつては誇りと自信を持って歩き、いつか彼と堂々と並び立つ未来を夢見たはずなのに。その夢はすべて砕け散り、わたしを取り巻くのは沈黙だけだ。次々に夜会の客たちはわたしから視線をそらし、別の話題へ移っていく。ここで無様に崩れ落ちるわたしを誰一人救い出すことはなく、通り過ぎていく足音だけが無機質に広間を満たす。
まるで罰を受けるかのように一人取り残されたわたしは、ようやく立ち上がる気力を絞って、ふらつきながら出口を探した。何の目的もなく彷徨うように廊下を歩き、正面玄関へ向かう。父も母も、迎えの馬車があったとしても、そこに乗せてはくれないだろう。だから、わたしはただ独りで闇の道を行くしかない。そうするしか、もう道は残されていない。
「……ここが、わたしの終着点」
口の中で呟く言葉は淡々としているのに、頬にはまだ絶え間なく涙が伝っていた。幼い日の小さな優しさを失った今、わたしを支えるものは何もない。せめて、自分が自分に下した罰として、この破滅をしっかり受け止めるしかないのだ――そう思いながら、わたしは外套も持たず、冷たい夜の空気の中へと踏み出した。夜風が肌を刺すように冷たく、まるでこれから先の凍える運命を暗示しているかのようだった。
こうして公爵家の名誉も、愛する人との婚約も、一瞬にして失墜したわたし。かつての誇り高き家の娘としての姿は消え、誰からも見放される。その夜会の会場を後にするわたしの背に、誰かの気配を感じることはなかった。雨の日に授かったあの温もりは、今や手の届かない過去の幻となり、夜の闇に溶けて消えていく。わたしが「悪」に身を堕としてでも守りたかったものは、結局、わたしの手の中からこぼれ落ちたのだ。戻らない傷だけを抱えながら、わたしはこの先どこへ行けばいいのだろう――答えは闇に閉ざされ、見つからなかった。