第8話 幼少の思い出と溢れる執着
夜の静寂が深まるほど、わたしはまぶたを閉じることに強い抵抗を覚えるようになっていた。眠りについた瞬間、あの娘の笑顔が鮮明に浮かんでくるような気がして仕方がないのだ。彼女がわたしの大切な人を奪う悪夢が繰り返し脳裏をかすめ、胸の奥をじわじわと蝕んでいく。ベッドの上に横たわっていても、シーツのひやりとした感触だけが頼りになり、頭の中をただ不安だけが支配する。眠りという優しい救済を得ることすら、いまのわたしには難しくなっていた。
背を向けるようにして丸まってみても、何度深呼吸をしても落ち着かない。どこか遠くから、かすかな風の音が耳に届く。思い切って起き上がり、部屋のカーテンを少しだけ開けて夜空を見上げても、見えるのは星のない闇と、低く垂れ込めた雲ばかり。こんな深夜に灯りをつけてしまえば、周囲に心配をかけるだろう。わたしは薄暗闇の中でじっと息を潜めながら、過去の記憶が溢れ出すのを止められずにいた。
「……どうして、こんなにも苦しいの?」
小さく呟いた声は誰にも届かず、室内に溶け込んでいく。このまま眠れずに朝を迎えるのかと思うと、全身から力が抜けていくようだった。ふと、幼い頃の情景がまぶたの裏にぼんやりと浮かぶ。何度思い返しても、あの日の景色は鮮烈で、わたしの心を縛り続けている。雨が激しく降りしきる庭園の片隅で、転んでしまったわたしに、彼が上着を差し出してくれた――あの記憶だ。
当時、わたしは公爵家の娘として誰からも恐れられ、あるいは遠巻きにされ、温かな言葉をかけてもらえない生活を送っていた。両親は厳しく、使用人たちもわたしを敬遠するばかり。友達と呼べる存在など一人もいない。孤独は当たり前のものとしてわたしの日常を覆っており、笑顔を浮かべることすら億劫だった。しかし、その雨の日だけは違った。泥だらけのわたしに手を貸してくれる人が現れたのだ――幼いながらも、まっすぐに優しさを向けてくれた、その人こそが、今のわたしの“婚約者”になった彼だった。
まるで夢のような出来事だった。転倒して濡れそぼったドレスを気にしながら、わたしは立ち上がれずにいた。そこへ差し出されたのは、小さくてあたたかい手。彼は何も躊躇せずにわたしを起こそうとしてくれた。しかも、わたしが震えているのを見て、彼は自分の上着を脱いでそっとかけてくれたのだ。服が汚れることや、わたしが公爵家の娘であることなど気にする様子もなかった。ただ「大丈夫?」と、やや不安げに微笑む少年の姿が、わたしにとって初めての“救い”に思えたのを覚えている。
「そのとき、わたしは確信したんだわ……」
わずかに唇が動いた。あのときの感情をうまく言葉に表すことは難しい。それでも、あえて言うなら、わたしの孤独に差し込んだ一筋の光。それが彼の存在だったのだ。あの瞬間、わたしは「この人だけはわたしを見捨てないはずだ」と思い込んでしまった。彼さえいれば、わたしは厳しい家のしきたりにも、周囲の冷たい視線にも耐えられると。
思えば、その考えこそがわたしの人生を大きく捻じ曲げたのかもしれない。あの日の出会いを境に、わたしはまるで彼に執着するように“心の支え”をすべて預けてしまった。彼が優しい言葉をかけてくれるたびに、わたしの胸は安堵と歓喜で満たされる。ところが、同時に「もし彼に見捨てられたら、自分は生きていけない」という恐怖も膨れ上がっていった。幼心に芽生えたその感情は、わたしが成長するにつれ次第に大きくなり、今ではどうしようもないほどの強迫観念になっている。
寝台に横たわったまま、わたしは深い溜め息をつく。過去の自分は、こんな未来を望んでいたわけではないはずなのに――どうしてこんなにも歪んだ形でしか、彼を求められなくなってしまったのだろう。雨の日に感じた大切な思いは、確かにまっすぐな感謝と尊敬だった。けれど今のわたしは、その尊敬をねじ曲げ、手放したくない一心で彼を自分のものに縛りつけようとしているに過ぎない。そんな自覚が、胸を苦しくさせる。
瞬きを繰り返すと、また別の記憶が浮かんでくる。わたしが幼く、まだ部屋で夜な夜な泣いていたころ、彼がふいに訪れてくれたことがあった。特別に招いたわけでもないのに、何かの用事で邸内を訪れていた彼が、わたしの姿を探してくれたらしい。物音を立てずに入り込んだ部屋で、わたしは嗚咽を殺しきれないまま泣いていた。すると、そっと扉を開けて入ってきた彼は、まだ拙い言葉で「泣かないで」と言い、わたしの頭に手を置いてくれた。そのあたたかさが、今でも忘れられない。
わたしは、それまで誰にも頭を撫でられたことなどなかった。両親はそんな情けをかけるタイプではなかったし、使用人たちも公爵家の娘に触れるなど恐れ多いという態度で、一定の距離を守るだけだった。それなのに、彼はためらいもなく、子ども同士という気安さでわたしの髪をそっとなで、泣き止むまでそばにいてくれた。あの夜のことを回想するたび、胸が締めつけられるような懐かしさとともに、彼への依存がいっそう強まるのを感じる。
「わたしは、あなたなしではもう立っていられないの……」
声にならない呟きが、宙に溶けていく。当時のわたしにとっては、あらゆる苦しみを忘れさせてくれる特別な存在が彼だった。だからこそ、今、彼があの娘を庇い、わたしを責めるような態度を取るのが耐え難い。たしかに、わたしの行動は正しいとは言い難いかもしれない。だが、わたしには“こうするしかなかった”のだ。そうでなければ、いつか彼が本当にあの娘のもとへ行ってしまうのではないかという恐怖に押しつぶされてしまう。
――夜の闇が深まっていく中、わたしは記憶の深淵を泳ぐように懐かしい光景を追いかける。雨に打たれても、冷たい視線にさらされても、彼の手さえあれば立ち上がれる。そう信じ続けてきた自分がいる。もし、その“彼の手”を失ったら、わたしはどうなってしまうのだろう。たとえ貴族としての地位や財産を保っていたとしても、わたしの心は空っぽのまま、何も感じられない存在に堕ちてしまうかもしれない。
頭の痛みがひどくなってきて、わたしはふらりと立ち上がる。ドレスのまま寝台に横たわっていたせいで、首元が詰まるように苦しく、呼吸も浅くなる。テーブルの上に置いてあったカップへ手を伸ばすが、中の水はすっかりぬるくなっていて、口をつける気になれなかった。しかたなく窓辺へ近づき、カーテンを少し開く。深夜の外気がわずかに肌を冷やし、意識がはっきりしていく。
「……あの娘の存在さえなければ、わたしはこんなに苦しまなくて済んだのに」
深い闇に向かって、憎しみに近い感情を吐き出す。彼がわたしだけを見てくれていた頃は、多少の不安があってもこんなにも追い詰められることはなかった。でも、あの娘の可憐で無垢な笑顔は、明らかに彼の優しさを刺激している。しかも周囲の人々までが、彼女を“天使のよう”と持ち上げる。ひょっとすると、彼のなかでもわたしより彼女のほうが大切になる日が訪れるのではないか――そんな予感が、わたしの心を休まらせてくれない。
外を見下ろすと、月明かりがほとんど届かない庭に木々の影がかすかに揺れていた。かつて、あの庭で雨の日に倒れ込み、彼に助けられた光景が重なる。たとえ姿形は違っても、わたしの中ではあの記憶だけが永遠に焼き付いている。もしまた同じように雨のなかで倒れていたら、彼は以前のようにわたしを助けてくれるだろうか。あるいは、あの娘が同じように困っているのを見かけたら、わたしから目をそらして彼女を優先するのだろうか。想像するだけで胸が裂けそうになる。
「絶対に、それだけは許せない……」
わたしの中で疼くようにこだまするその言葉は、もはや“守りたい”という域を越え、“奪わせまい”という強迫観念へと変質していた。雨の日の微かな優しさ。それに縋って生き延びてきたわたしが、今さら彼を失うわけにはいかないのだ。もし彼が去っていくなら、わたしは生きる意味さえ見失ってしまう。そんな自分勝手な思いと理解しながらも、理性で抑え込むにはあまりに強烈な執着がわたしを支配している。
記憶と現実が混ざり合い、頭の中はぐちゃぐちゃになっていく。時折、幼かったころのわたしの姿と、あの娘が重なって見えるほどだ。もしかしたら、わたしがかつて感じた孤独を、彼女も同じように抱えているのではないか――そんな疑念がふと生まれそうになるけれど、すぐに掻き消す。わたしと彼女は違う。あの娘には周囲からの称賛があるし、何より彼の優しさを向けられている。わたしが孤独と戦ったあの頃のように、誰にも頼れず塞ぎ込む彼女の姿など想像できない。
「あなたを独占したいわけじゃない。ただ、わたしから離れないでほしいだけ……」
頭をかきむしりたい衝動に駆られながら、思わずその場にへたりこんでしまう。床に視線を落とし、震える声で繰り返す。この感情は本当に“愛”と呼べるのだろうか。それとも狂っているのだろうか。自分でも自信がもてない。幼い日の純粋な憧れが、いつしか恐怖と独占欲に塗り替えられ、彼を苦しめているのかもしれない――そうした疑念は、かすかに胸をチクリと痛める。
けれど、それでも止められない。わたしにとって彼は、厳しい世界を生き抜くための唯一の希望だったのだから。公爵家の娘という立場、家名を守る責務、世間体、周囲の嫉妬や敬遠……そうしたすべてを耐え忍ぶ原動力が、“彼との未来”にあったのだ。わたしが彼と並び、堂々と愛を誓い合い、もう二度と孤独や侮蔑に怯える必要がない世界。それを思い描いてきたからこそ、わたしはどれほど厳しい教えも辛い日常も我慢してこられた。
その大切な光が、あの娘の登場によって薄れかけている。――まるで冬の弱い日差しが雲に隠れてしまうかのように、彼の視線が少しずつわたしを通り越し、あの娘へ向かっている気がするのだ。わたしの努力や涙など見もせずに、彼は彼女の純粋さに心を寄せている。そんな光景が繰り返し脳裏に浮かび、そのたびに息苦しさが増していく。わたしの全身は汗ばんでおり、関節という関節が嫌な痛みで締め付けられるようだった。
「わたしは……あなたを、失いたくない……」
漏れ出た声は震え、涙が頬を伝っていた。幼い頃に彼がかけてくれた言葉と手のあたたかさ。その記憶があるからこそ、いまのわたしはこんなにも苦しい。あのとき助けられなければ、こんなにも執着することはなかったのに、と恨めしく思うことさえある。だけど、それでも彼がいなければ、わたしはもっと早く心が折れていたはずだ。
自分でも矛盾した思いに苛まれながら、わたしは窓辺で膝を抱え込むように座り込んだ。夜が白んでいく気配を感じるころ、ようやく瞼が重くなる。だが、眠りに落ちる寸前まで頭の中で渦巻いているのは、「彼を失ってはいけない」という絶対的な思いだった。まるで沈む泥沼の中で、最後の藁を掴むかのように、わたしは幼い日の記憶にしがみついている。これが愛か狂気か、もはや自分でも区別がつかない。ただ、その境目はどうでもいい。彼だけがわたしを救ってくれるはずなのだ――その確信めいた願いにすがることだけが、夜明けへとわたしを押し流していく。
こうして、あの日の雨の庭に始まった小さな優しさは、わたしを救う光でありながら、一方で絶望の種をも育んでいたのだ。目を閉じれば、今も耳に蘇る。「大丈夫?」と彼がかけてくれたあの一言。わたしはそれを失うくらいなら、どんな罪を背負ってでも彼を守りたい。――そう強く願う一方で、いつか彼の温もりがわたしの手から零れ落ちる未来を想像するたび、狂おしいまでの恐怖に支配される。やがてうとうととした仮眠にも似た眠りへ沈みながら、わたしは涙で湿ったまつげをふるわせる。この想いが報われる日は、来るのだろうか。それとも、破滅の先に待つのは暗い闇だけなのか――答えを見出す前に、わたしの意識は底のない夜へ溶けていった。