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第6話 芽生えた嫉妬という名の狂気

 あの白い花のような令嬢と出会って以来、わたしの胸の内には常に焦りと苛立ちが渦巻いていた。これまでは、婚約者と平穏な日々を重ね、そのまま自然に将来を迎えられるものと信じて疑わなかった。けれど、彼女が社交界の舞台に姿を見せ、しかもわたしの婚約者と親しげに言葉を交わすたび、その安心はたやすく揺らいでしまう。夜になって一人きりの部屋に戻ったとき、わたしは何度も自問していた――「もし、あの娘に彼を奪われたら、自分はどうなるのだろう」と。


 そうした不安は、わたしの中に小さな決意を生み出した。言い訳かもしれないが、わたしは“自分と彼の未来を守るため”に行動しなければならないのだと考えるようになったのである。あの娘が近くにいるだけで、彼の優しさがどんどん彼女へ向かう気がしてならない。わたしはその姿を見ていると、胸が張り裂けそうになる。だからこそ、あの娘を遠ざけるための些細な手段を、少しずつ試していくことにした。


 最初は、ほんの小さな嫌がらせから始まった。例えば、お茶会で彼女が着席する席のクッションをわざとずらしておくとか、彼女が使うはずのティーカップに指紋を残して「下僕の不手際かしら」と嫌みを言う程度のこと。そんな幼稚な策略が成功したところで、実際に被害は軽微なものだが、わたしは「彼女が恥をかけば、彼女に対する好意も薄れるのでは」と考えていた。もちろん、表面上は「まあ、お気の毒に」などと取り繕いながら周囲に同情を誘うふりをする。周囲の誰もが、わたしが仕掛けたとは気づかないほどの些細なものだ。


 けれど、そういった小さな嫌がらせは、彼女に大きなダメージを与えるどころか、むしろ彼女の儚げな魅力を際立たせる結果となってしまった。何しろ、周囲の人々は「ひどい目に遭ったのに気丈に笑っているのね」と、さらに同情し、彼女を褒めそやすのだ。加えて、わたしの婚約者もまた「だいじょうぶですか」と真っ先に声をかけ、落ち込んでいないかを細やかに気遣う姿勢を見せる。わたしが意図したのは彼女への不名誉だったはずが、なぜか彼の優しさを改めて引き立ててしまうようで、わたしは内心唇を噛んだ。


 それでも、わたしは諦めなかった。もっと直接的に彼女の評判を落とす方法を探す必要がある。次にわたしが選んだのは、些細な噂を流すことだった。あくまで根も葉もない憶測を、さも確かめるような口調で周囲にささやく。内容は「彼女は身分がそれほど高くないのに、羽振りの良い貴族に取り入ろうと必死らしい」「本当は貴族としてのマナーをきちんと学んでおらず、屋敷の人々を苦労させている」など、やや信憑性に欠けるものではあった。けれど、わたしは公爵家の娘として、それらしい演技を混ぜながら口にすれば、周囲も完全には疑えないだろうと踏んだのだ。


 たとえどんなに些細なことであれ、よく知らない相手ならば「そうかもしれない」と疑いを持つ人が出てくる。それが貴族社会というものだ。わたしはその風潮を利用し、彼女への印象を少しでも悪くするべく動いていた。ところが、これも思わぬ形で裏目に出ることになる。彼女の評判を下げようとする噂が耳に入ったとき、多くの人は「そんな攻撃を受けてもなお、天使のように微笑む娘なのね」と、かえって彼女の包容力や優しさを称賛する言葉を口にし始めたのだ。わたしにとっては苛立たしい結果でしかなかった。


 ある日の茶会では、わたしの婚約者が、はっきりと彼女の肩を持つ場面にまで至った。それは、比較的親しい貴族の屋敷で開かれたもので、わたしと彼、そして彼女も含め多くの令嬢や若い貴族たちが集う場だった。わたしは例によって些細な嫌がらせを仕込む機会を伺っていたが、その場の会話の流れで、ある令嬢が「あの娘、どうも浮足立っているみたい」と半ば冗談交じりに口にした。その令嬢に悪気はなかったのかもしれないが、それを聞いたわたしの婚約者は表情を曇らせ、静かに口を開いた。


「どうか、根拠のない噂をむやみに信じないでいただきたい。彼女はまじめで心優しい人ですよ。少なくとも、わたしが知るかぎり、誰かを踏み台にするような人ではありません」


 その言葉に、場が一瞬沈黙した。わたしは胸の奥がざわめき、気づけば手元の紅茶カップを揺らしている。噂とは言わなかったものの、明らかに「流布されている憶測」への否定だとわかる。つまり、彼はわたしの知らないところで動いている噂さえも察して、彼女を守ろうとしているのだ。やわらかな物腰とはいえ、その一言には彼の明確な意志が宿っていて、周囲もそれ以上は軽率な言葉を口にしなくなった。もちろん、わたしも黙り込むしかなくなる。


 胸の奥で激しい苛立ちが膨らむ。なぜ、そこまでして彼女をかばうのだろう。優しい性格の彼だからこそ、人が傷つくのを見過ごせないのかもしれない。だが、わたしの目には、それがどこか特別な感情に映ってしまう。彼女の境遇を理解し、まるで自分が守らねばならない存在であるかのように振る舞う姿こそが、わたしを追い詰めていくのだ。


「何も悪いことをしていないのに、どうしてこんな気持ちになるの……?」


 帰りの馬車の中、わたしは独り言のようにつぶやいた。じっさい、わたし自身は罪悪感をそれほど感じていない。むしろ、あの娘がわたしの大切な未来を壊しそうだからこそ、自衛のために行動しているのだとさえ考えている。あの娘を追い出し、彼のやさしさを誰にも取られないようにする――それはわたしにとって純粋な愛ゆえの行動だ。わたしはそう信じようとしていた。


 しかし、周囲の人々は徐々に違和感を覚え始めているようだった。わたしがわざとらしく「あの娘、最近いろいろな集まりに顔を出しているみたいね。よほど目立ちたがりなのかしら」と言ってみても、誰もわたしに同調してくれない。以前なら、わたしの地位にへつらう人が乗ってきてもおかしくないような話題でも、妙にしらけた空気が流れるのだ。ときにちらりと視線を交わされたり、ひそひそ話をされるのを感じたりする場面も増えた。だが、わたしはそんなことに屈したくなかった。彼女を批判する声が上がらないのなら、自分で行動を起こすしかない――そう思い詰めていた。


 まもなくして、わたしはさらに一歩踏み込んだ策略を試みる。今度は意図的に小さな事故を誘発し、彼女に責任を負わせる、という案だった。具体的には、お茶会の席であえて余計な椅子をずらし、誰かが転倒しやすい状況を作っておく。それをうまく彼女のせいにできれば、周囲の人間関係が崩れ、彼女の評価は下がるだろう。相手を怪我させない程度に計画しながら、わたしは勝手に満足感を得ていた。これこそ、彼女を社交界から排除する第一歩だと。


 その当日、わたしは狙い通り椅子をわずかにズラし、誰かが転びそうになる瞬間を作った。案の定、ほかの令嬢がつまずいてバランスを崩し、「誰がこんなところに椅子を!」と周囲に訴える。わたしはすかさず「あら、もしかして……」と視線を彼女へ向けるように誘導し、「あなたがあそこに腰掛けるのを嫌がっていたのを見たような……」と曖昧に匂わせた。これによって、何人かは「あの娘が配置を変えたのだろうか」と疑念を抱くはずだ。わたしの腹の底には勝利感にも似た熱がこみ上げる。


 ところが、予想外のことが起きた。わたしの婚約者が、すぐに「そんなはずはない」と否定したのだ。それどころか、「偶然椅子が動いただけでは? 彼女がそんな危険なことをする理由なんてない」と、その場で彼女を全面的にかばう。周囲の人々も、「確かにあの娘がやるとは思えないわね」と一斉に同調し始めたではないか。まるで最初から彼女の潔白を信じることが当然だというように、誰も一切疑わない。結果的に転びかけた令嬢は「わたしの不注意ね」と謝罪する始末で、わたしの工作は何の成果も得られないまま立ち消えてしまった。


「どうして、どうしてあそこまで守られるの……」


 自宅へ戻ってからも、その悔しさが胸を突き上げてくる。わたしが必死に仕掛けても、彼女にはすべての人が手を貸してくれるように見える。特に、わたしの婚約者が彼女を守ろうとする姿勢は、わたしの心を鋭く切り裂いた。彼は決してわたしを見放しているわけではないが、同時に彼女の弱さを放っておくことはできないらしい。その“優しさ”が、今はわたしにとって最大の苦痛だった。


「これは、わたしと彼の未来を守るため……」


 自分を納得させるように、その言葉を口に出して繰り返す。けれど、心の奥ではわかっているのかもしれない。わたしの行いは、もう単なる嫉妬や焦りの域を越えつつあるのだと。あの娘が危害を受ければいいとまでは思わないが、彼女が社交界で認められ、わたしの婚約者と親しくすることは阻止しなくてはならない。そう感じるたび、わたしの行動は少しずつエスカレートしていき、いつか取り返しのつかない事態を招くかもしれない。


 それでも、わたしは止まれなかった。止まってしまえば、あの娘がさらに勢力を拡大し、彼を完全に奪うかもしれないと思うと、恐怖で眠れなくなるのだ。わたしは夜の帳が降りた寝室で、身を震わせながらベッドに横になる。雨の日に助けられたあのときから、彼だけが自分を救ってくれる存在だと信じてきた。誰もわたしを愛してくれなくても、彼だけはずっと隣にいてくれると思っていたからこそ、わたしはここまで耐えて生きてこられた。そう信じることで、貴族社会の厳しさや家の重圧に耐え続けてきたのだから。


「どうか、わたしを失望させないで……」


 そんな祈りにも似た独白を繰り返しながら、わたしは冷えたシーツを握りしめる。今までの嫌がらせが、あまりにも稚拙で効果がないのか、それとも彼女があまりに強く守られているのか。答えはわからない。だが、このままではいずれ本当に彼女が“自分の居場所”を大きく確立し、わたしの立つ場所を奪い去ってしまいかねない。その未来図を思い浮かべるたびに、わたしの心は焦りと怒りで煮えたぎる。


 いっぽう、周囲からは少しずつ奇妙な視線が向けられ始めているように思う。わたしが彼女に対して冷ややかな言動を繰り返していることは、どうやら隠しきれなくなってきたのだろう。直接咎めてくる人はまだいないが、ちらちらと気まずい目を向けられるたび、わたしは内心で歯ぎしりをする。ただでさえ貴族の世界は噂が飛び交いやすい。わたしがあの娘を嫌っているという話も、そのうち大きく広がるかもしれない。……もっとも、それでわたしが悪評を得ようとも、彼女が社交界から消えてくれるならそれでいい。極論、わたしはそう思い込み始めていた。


 こうして、わたしが抱く想いはますます歪んだ形を取りつつあった。あの娘の存在がわたしの心をかき乱し、そして彼の優しさが彼女へ向けられるたびに、わたしは深い不安と憎しみに飲み込まれていく。それでも、わたし自身は「これは彼とわたしの未来を守るための愛」と信じて疑わなかった。幼いころから彼だけを支えに生きてきたわたしにとって、今さらその思いを放棄するなどできるはずがないのだ。


「ねえ……どうか、あなたを奪う者がいない世界で、わたしだけを見ていて」


 誰に向けることもできないこの願いが、やがてわたしの行動をさらに危険な領域へと駆り立てることになる。周囲の視線や噂がちらほらと変化を見せ始める中で、わたしはさらなる策略をめぐらせ始めるのだ。あの娘を陥れてでも、彼を守る――その思いが、夜の静寂に沈むわたしの部屋で、狂おしいほどに熱を帯びていく。やがて、それが大きな破滅へ繋がる第一歩になるとも知らずに。わたしはただ、自分の“純粋なる愛”を証明したい一心で、冷たい決意を研ぎ澄ましていくのだった。

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