第4話 華やかな社交界への一歩
初めての舞踏会に参加することが決まったのは、わたしが十六の春を迎えたばかりの頃だった。公爵家の子として生まれながら、これまでずっと勉学や礼儀作法の訓練に追われ、社交界の場には一度も姿を見せたことがなかった。家柄的には当然のように受け入れられるはずなのに、わたしの心は期待と緊張が入り混じった妙な高揚感に包まれていた。
舞踏会の当日、わたしは母や侍女に手伝われながら、華やかな衣装を身にまとう。複雑な刺繍が施された淡い色合いのドレスは、いつも練習で着る堅苦しい礼服とは異なり、まるで花びらを思わせるような軽やかさがあった。鏡台の前でぎこちなく振り向いてみると、裾のレースがふわりと揺れ、まるで別人の姿を見ているような気がする。華やかな舞台へ足を踏み入れるのだという実感が、胸の奥をこそばゆく刺激してやまない。
けれど、同時に不安も膨らんでいく。これまで公爵家の内にこもり、身内や限られた人々としか接してこなかったわたしが、本当に社交界の大舞台で振る舞えるのだろうか。母からは「失態を演じれば、公爵家の名に泥を塗ることになる」と何度も釘を刺されているし、父もまた「侯爵家との縁談がある以上、お前が粗相をすれば先方にも迷惑をかける」と言い含めてきた。わたしは手のひらに滲む汗を感じながら、背筋だけは凛と伸ばそうと必死になった。
馬車に揺られて向かった会場は、王都の中心にそびえる大きな貴族邸で、広大な庭園と豪華な内装で有名だという。石造りの玄関には紅い絨毯が敷かれ、そこを通り抜けると遠くまで響くような音楽が耳に飛び込んでくる。たくさんの客人が集まっているらしく、廊下には華やかなドレスやタキシードに身を包んだ人々が行き交い、香水の甘やかな匂いが漂っていた。わたしは侍女の先導で大広間の扉へ向かいながらも、そのあまりの煌びやかさに思わず息を呑んでしまう。
扉が開かれると、そこはまるで夢の中の世界だった。大理石の床にシャンデリアの光が反射してきらきらと輝き、豪奢な装飾を施したテーブルには色とりどりの料理と果実酒が並んでいる。すでに何組もの男女が音楽に合わせて優雅に踊り、また談笑を楽しむ人々の姿もあちこちに見られた。わたしはうまく言葉が出ないまま、ここが自分の新しい舞台なのだと思い知らされる。
「いらしていたのですね」
そう声をかけてきたのは、かつて幼い日にわたしを助けてくれたあの人――今ではわたしの婚約者と見なされている侯爵家の嫡子だ。淡い色合いの正装をまとった彼は、少年だったころの面影を残しつつも、背はすらりと伸び、笑みには大人びた余裕さえ漂っている。わたしは彼の姿を見つけた瞬間、心の底からほっと安心した。同時に、これまでの不安が一気に吹き飛ぶような高揚感に包まれる。
「ここでは、あなたとわたしは“将来を嘱望されるカップル”として紹介されるらしいですよ」
彼がやや照れたように言うと、周囲の視線がわたしたちに集まっているのを感じる。貴族社会では、すでに両家による婚約の話が既成事実として広まっているのだろう。実際、わたしと彼が並ぶと「まあ、美男美女のよい組み合わせね」と冷やかしか賛辞かわからないささやき声も聞こえてくる。おそらく父や母、そして彼の両親が、こうした場を通じてわたしたちを正式に社交界へお披露目したいのだ。
そのこと自体に、わたしは大きな喜びを覚えていた。長年望んでいた彼の隣に立って、堂々と挨拶を交わし、わたしの存在を皆に認めてもらえるのだから。けれど、それと同時にわずかな不安と嫉妬のような感情が胸をかすめる。彼がわたしに優しく声をかけてくれればくれるほど、いつかこの幸せが失われるのではないかという恐れが頭をもたげるのだ。
「大丈夫。今日は楽しんでください」
彼はそう言って笑顔を向けると、わたしの手をそっと取り、踊りの輪に招くように軽くエスコートしてくれた。長い間の訓練のおかげで舞踏の基本は身についているはずだったが、いざ本番となると心臓の鼓動がやけに速くなる。彼の手の温もりと音楽の調べに合わせて、わたしは何とか優雅さを保とうと動きを合わせる。彼もまた、驚くほど自然なステップでわたしをリードしてくれる。お互いまだ若いとはいえ、周囲から見ればそこそこ様になっているのだろう。曲が終わる頃には、周囲の人々が小さな拍手を送ってくれた。
けれど、問題はその後だった。休憩の合間に何組かの客人がわたしたちのもとに挨拶をしに来たり、彼の知り合いらしき貴族の子女が彼を呼び止めたりする場面が増えてきたのだ。「お会いできて光栄ですわ」「今度ぜひお茶会にお越しください」など、当たり障りのない言葉が次々に交わされる。彼はわたしと同様、正式に社交界に入ったばかりだというのに、どこか慣れた様子で礼を尽くし、丁寧に受け答えをしている。社交性を持っていることは悪いことではないし、むしろ評価されるべきだと頭ではわかっている。それでも、わたしの胸はもやもやとくすぶるばかりだった。
というのも、彼が挨拶を交わす相手の中には、年齢の近い令嬢たちが少なくなかったからだ。華やかなドレスをまとい、気品ある笑みを浮かべる彼女たちは、一目で育ちのよさがわかるほど洗練されている。何より、彼女らが彼と会話をするたびに、まるで憧れの相手に触れるような優しい視線を向けているのが見て取れた。もちろん、それは礼儀や社交の一環にすぎないのかもしれない。けれど、その姿がわたしにはどうしても面白くない。
「……彼はわたしの婚約者なのに」
たとえ表向きは「お似合いの二人」と呼ばれていても、わたしの心に根付いた独占欲はそれだけでは満足できないらしい。彼が誰にでも同じように礼儀正しく接するたび、わたしは言いようのない不安を感じる。やがて彼が、自分以外の誰かに心を奪われてしまうのではないか、と漠然とした恐れが頭をよぎるのだ。
合間を見つけ、わたしは彼に「少し疲れてしまったので」と声をかけ、庭園のほうへ誘う。大広間の喧騒から抜け出した先には、夜空の下にライトアップされた花壇や噴水があり、美しく手入れされた生垣が続いていた。そこは空気が澄んでおり、宴の熱気とは対照的に穏やかな静けさを感じさせる。
「初めての舞踏会、大変じゃありませんか?」
彼がそう言ってわたしを気遣うように微笑むので、わたしは少し首を振ってみせる。実際、緊張はしていたが、それ以上に胸の奥を締め付けるのは、何とも言えない嫉妬心と不安だった。
「あなたが……いろいろな人と話をしているのを見て、なんだか落ち着かなくて……」
思い余って、わたしはつい本音を漏らしてしまう。公爵家の娘たるもの、こんな子どもじみた感情を表に出すべきではないとわかっていながら、言わずにはいられなかった。彼は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに「そうでしたか」と静かに息をつく。
「だって、皆さん素敵な方ばかりでしょう? あなたがいつか……他の人のほうがいいって思う日が来るかもしれないって……。そんなの嫌なんです」
夜風がドレスの裾を揺らし、わたしは自分でも驚くほど低い声でそう言っていた。彼はしばらく黙ったままわたしの顔を見つめ、やがて少し苦笑まじりに答える。
「そんなこと、あるはずがありませんよ。……わたしにとって大切なのは、あなたです」
その言葉に、わたしの心は一気に安心へと傾く。けれど、その安心感は同時に「もっと強く彼を自分だけのものにしてしまいたい」という衝動を煽るのだった。彼がこんなにも優しく、そして他の人からも好まれる魅力を持っているからこそ、わたしは余計に独占欲を膨らませてしまう。それは、自分でもわかるくらい危うい心理だった。
「わたしは……あなたの隣に立つだけじゃなくて、わたしだけを見てほしいんです」
自分でも幼稚だと思いながら、それでも声に出さずにはいられない。すると彼は「わかっています」と穏やかに微笑み、そっとわたしの手を握り返してくれた。初めて会った雨の日からずっと変わらない、その温もりに触れた瞬間、わたしは心の中で小さく安堵の息をつく。――彼の手に残る温かさは、わたしが孤独だった幼少期から、ずっと拠り所にしてきたものなのだから。
「そろそろ戻りましょうか。皆さん、あなたの初舞踏会を楽しみにしているはずです」
彼はそう言ってわたしを促す。庭園の影から再び大広間へ足を運ぶと、そこではまだ華やかな音楽と人々の笑い声が鳴り止まない。絢爛たる装飾の中、わたしは彼の隣で再び笑顔を作り、外面だけは完璧な社交界の令嬢を演じる。このときばかりは、わたしと彼が並ぶ姿を周囲に誇示することができるのだと思うと、自然と背筋が伸びる。わたしにとってはその背筋こそが、自分を守る盾となっていた。
けれど、終始にわたって彼の周囲には多くの人が集まり、踊りの申し出があれば彼は礼儀正しく断らずに相手を務める。わたしも同じように、他の男性からダンスを求められることが何度かあった。そのたびに、わたしの胸はどこか落ち着かない感情に締めつけられる。舞台の真ん中で華やかにステップを踏む彼を横目にしながら、わたしの耳には、いつか見たくない光景を目の当たりにする予兆のような囁きが聞こえているような気がした。
「……あなたはわたしのもの。どんなときも、わたしだけを見ていて」
そんな幼い祈りめいた言葉が、ふと頭をよぎる。もちろん、声には出さない。わたしは口元に微笑を貼りつけ、貴族としての威厳を保ちながらステップを踏むしかない。これから先、わたしはもっと社交界に慣れていくのだろうし、もしかすると自分なりに楽しめるようになるかもしれない。けれど同時に、ここが多くの人々の欲望や思惑が交錯する場所であることを、わたしの本能はすでに悟り始めていた。
初めての舞踏会は、こうして華やかさとわずかな不安を残しながら、夜の更けとともに幕を下ろしていく。わたしは彼と連れ立って馬車に戻り、名残惜しい宴のあとを後にした。まるで溺れるように求めてきた彼の存在を、改めて目の前の現実として確認できたのは幸せだったが、同時に社交界という大きな海に踏み込んだ自分を冷静に見つめる自分もいた。
帰りの馬車の中、わたしは窓ガラスに映る自分の顔をそっと見つめる。まるで知らない誰かのように紅潮した頬と、少しだけ強張ったまぶた。これがわたしの新しい表情なのだろうか。彼がそっと隣で「疲れましたか?」とささやけば、わたしは「いいえ、大丈夫」と首を振るものの、その視線をまともに返せなかった。胸の奥は、まだ熱さと冷たさが入り混じったまま収まりきらない。
今宵わたしは、一歩大きな世界へ踏み出した。それは期待に満ちた舞台でありながら、彼を巡る不安と嫉妬を内包する場でもある。わたしはこの夜のことを決して忘れないだろう。自分が彼に対して抱き始めている強烈な想い、それを言葉にできないもどかしさ、そして社交界に潜む様々な視線。すべてが、これからのわたしを試す試練なのかもしれない。
こうして華麗な音楽とともに幕を開けたわたしの社交界デビューは、甘美な歓びと名状しがたい緊張感を胸に刻み込みながら、静かに夜明けを迎えようとしていた。彼に振り向いてもらうだけでは満足できない――そんな独占欲を初めてはっきりと自覚した一夜が、わたしの未来をより複雑なものにしていくのだとは、まだこのときには気づけずにいた。




