表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/14

第3話 仄かな婚約話

 あれからしばらくの間、わたしの暮らしは特に変化なく進んでいった。公爵家の厳しい日々は相変わらずで、朝から晩まで勉学や礼儀作法、舞踏などの習い事に追われる毎日。しかし、胸の奥には雨の日に助けてくれた少年の存在が絶えず灯り続けていた。ふとした瞬間、窓外の雲行きを眺めたり、庭の湿った土の匂いをかいだりすると、あの日のことが鮮明に甦ってくる。そしてその記憶だけが、冷えたわたしの心をほんの少し温めてくれるのだ。


 そんなある日のこと。父がめずらしく早めに執務を切り上げ、夕刻のうちにわたしを応接間へ呼び出した。いつもは母と二人で姿を見せることが多いが、そのときは父ひとりだったのを覚えている。古風な調度品が整然と並ぶ広い部屋の一角に腰を下ろし、父はまるで書類を読むような口調で淡々と話を切り出した。


「お前もそろそろ物心がつく頃だ。公爵家の将来を見据え、より安定した関係を構築する必要がある」


 わたしはその言葉に対し、何の話をしようとしているのか皆目見当がつかなかった。けれど、父の瞳にはいつになく熱がこもっている。それまでいつもわたしに対しては素っ気ない態度だった分、何やら重大な話が持ち上がっていることだけは伝わってきた。


「先方は侯爵家だ。先日、わたしが面会した際に向こうも乗り気だった。……お前には、あちらの嫡子との縁談を考えている」


 父の言葉を聞いた瞬間、わたしは思わず息を呑んだ。侯爵家との縁談。それはつまり、将来わたしが嫁ぐ相手が決まるかもしれないということだ。公爵家の娘が他家に嫁ぐ話など、そう珍しいことではない。むしろ、政治的・経済的な結びつきを強めるために、こうした縁談が早くから決まる例は貴族社会ではよくある。だが、そのときわたしの頭を駆け巡ったのは、あるひとりの少年の顔だった。


「その、侯爵家の……お子様の、お名前は……?」


 思い切って尋ねてみると、父は微かに眉をひそめたあと、淡々と答える。


「あちらの嫡子の名は……」


 聞き覚えのある名が父の口から発せられた瞬間、わたしは胸がはち切れそうになる。それはまさしく、あの雨の日にわたしを助けてくれた少年の名と一致していた。まさか、こんな形で思い出の人が現実と結びつくとは夢にも思わなかった。


「向こうもまだ幼いが、将来有望な子だそうだ。公爵家と侯爵家が婚姻で結ばれれば、王宮にも強い影響力を持てる。……この話、拒むつもりはないな?」


 父の問いかけに、わたしは喜びと戸惑いが入り混じったまま、言葉を失った。大人からすれば、「良い家柄同士の縁談」という程度の見方かもしれない。けれど、わたしにとってはそれ以上の意味があった。まだほんの幼いころ、真っ先に手を差し伸べてくれたあの少年。わたしがずっと胸の奥で思い描き、いつかまた会いたいと願っていた、その彼と将来を約束されるかもしれないというのだから。


「もちろん……わたしは異存などありません。ぜひ……」


 精一杯声を絞り出しながら、わたしは内心では歓喜に震えていた。父の口調はそっけないが、要するに先方の侯爵家もこの話を断るつもりはなく、いずれ正式に婚約を交わす段取りになりそうだ。そうなれば、わたしがずっと求めていた再会も、近いうちに実現するかもしれない。


 その夜、部屋に戻ったわたしはベッドの上で膝を抱えながら、ずっと興奮を抑えられずにいた。幼いながらも、あの雨の日以来ずっと想ってきた少年と結婚――そんな夢のような話が現実になるなんて信じられない。わたしは窓外の月を見上げながら、「神様ありがとう」と何度も心の中で繰り返した。公爵家としての体裁や、父の思惑はわたしにとってさほど重要ではなかった。ただ、あの少年とこれから先もずっと一緒にいられる可能性が開けたことが、無性に嬉しかったのだ。


 それから日が経たないうちに、母からも改めて同様の話を聞かされた。母は形式を重んじる性格だからか、具体的な結納や礼の準備について淡々と語るばかりで、「祝福」や「喜び」といった感情的な言葉は一切口にしなかった。しかし、わたしはそれでもかまわないと思っていた。大人たちの思惑が何であれ、わたしにとっては一生に一度の大切な縁談だからだ。


「……やがては、正式にお披露目の場が設けられるわ。あなたもしっかりと礼儀作法を復習しておきなさい」


「はい、母様」


 たとえ無味乾燥な指示であっても、わたしの中でそれは期待をかき立てる要素に変わる。この話が正式に成立した暁には、あの少年がわたしの目の前に再び現れるのだ。その笑顔をまた見られると思うと、日々の苦しい勉強や厳格な指導など、すべてが軽く思えるほどだった。


 やがて、わたしが緊張に包まれながら待っていると、本当に父と母から「侯爵家の方が屋敷を訪れる」という知らせが届いた。おそらく婚約に向けた話し合いの一環だろう。わたしは鏡台の前でドレスの皺を整えながら、胸の鼓動を必死に押さえ込む。いざ対面したとき、うまく笑えるだろうか。彼に失望されないように、しっかりと“公爵家の娘”としての振る舞いをしなければならない。


 そして迎えた当日。応接室に通されたわたしが緊張で手汗をかいていると、しばらくして使用人が一組の親子を案内してきた。先頭に立つのは立派な衣装に身を包んだ侯爵と思しき男性、そしてその隣に控える小柄な少年。わたしは少年の顔を見た瞬間、思わず口許が震える。それは、まぎれもなくあの雨の日に出会った人だった。


 相手の侯爵と両親が言葉を交わすあいだ、わたしは少年と目が合うか合わないかの微妙な距離感でお互いを見つめ合った。少年もどこか落ち着かない様子ではあるものの、ときおりわたしに向かって穏やかな微笑みを返してくれる。あのときよりも少しだけ背が伸びて、表情にも少し大人びたところがある。でも、差し出す手のあたたかさが目に浮かぶようで、わたしの胸は高鳴りっぱなしだった。


「また会えたね……」


 少年はそう小さく口を動かす。はっきりした声が聞こえたわけではなかったが、わたしはその唇の動きを見て、彼がそう言っているのだと確信した。わたしは微かな笑みを返そうとしたが、緊張のあまりうまく表情を作れず、ぎこちない愛想笑いになってしまう。それでも彼は笑って頷き、安心させるように視線をそらした。


 大人たちが真剣な面持ちで話し合いを続ける中、わたしと少年は応接室の一角で向かい合い、ほんの少しだけお互いの近況を報告し合った。まだ幼い二人の会話など、大人からすれば取るに足りないものかもしれない。けれどわたしには、その時の一言一句が宝石のように思える。


「あの日のこと、覚えてる?」


 わたしが小声でそう尋ねると、少年は「もちろん」とすぐに返してくれた。あの雨の日、ずぶ濡れになったわたしに上着を貸し、手を貸してくれたこと。少年にとっても、それは心に残る出来事だったのだという。どういうわけか、わたしはそれを聞いただけで自分の存在が初めて認められたような気がして、胸が熱くなる。これまで孤独に耐えてきたわたしを、誰かが確かに覚えていてくれた――その事実だけでも、何よりの救いになった。


 やがて大人たちの話が一段落つくと、両家の交流を兼ねて庭を散策することになった。まだ正式な婚約の儀式が交わされたわけではないが、お互いに近い将来を意識しているのは明らかだ。わたしは少年の少し後ろを歩きながら、庭の花々を案内する。すると、その途中でわたしは何気なく、「ずっとあなたに会いたかった」と口をついて出そうになった。しかし、喉元で言葉を飲み込み、代わりに笑顔を作って「ここはわたしのお気に入りの場所なの」と無難に伝えるにとどめた。


 けれど、次の瞬間、少年は控えめな声で「きれいだね」と言いながら、花壇に咲く可憐な白い花を手に取ってわたしに差し出してくれた。わたしはその花を受け取り、胸の前でそっと抱え込む。あのとき感じた雨の冷たさとは対照的な、やわらかな空気がわたしのまわりを包み込んでいるように思えた。心の底から嬉しくて、もう少しだけこの時間が続けばいいと願わずにいられない。


 散策を終えて再び屋敷に戻るころ、わたしはふとある不安に駆られた。これほど優しくて純粋な少年が、もしわたしの内側を知ったらどう思うだろう。公爵家としての厳しい教育を受け、見栄を張り、自分の本心を隠して振る舞っているわたしを、彼は本当に受け止めてくれるのか。さらには、わたしがいつしか「彼だけは絶対にわたしのものにする」と心のどこかで強く思い始めていることも──もしそれを彼が知ったら、きっと驚いてしまうに違いない。


 こうした不安は、わたしが彼を強く想えば想うほど、際限なく大きくなっていく。厳格な両親と過ごす中で学んだことは、相手を気遣う方法ではなく、相手を支配して自分の意に沿うようにする手段だったかもしれない。もちろん、実際にそんな乱暴なやり方をするつもりはない。けれど「彼がほかの誰かに優しさを向けたり、ほかの相手と親しくなったりしたらどうしよう」という想像が胸をざわつかせることがある。わたしの中で芽生え始めた独占欲と呼べる感情は、幼いながらも確かな熱を持って膨らんでいた。


「大丈夫、わたしはあの人と結ばれる運命なのだから……」


 あの日に感じたあたたかな手の記憶を思い起こすたび、自分にそう言い聞かせる。わたしと彼を結ぶのは公爵家と侯爵家という家柄だけではなく、あの雨の日に宿った縁だと信じたかった。だからこそ、彼が離れていく未来など想像すらしたくない。もし何かがわたしと彼の間に割って入ろうとするなら、わたしはどんな手段を使ってでも阻止しようとさえ思ってしまう。そのころのわたしにとって、それは純粋な愛情と同時に、不安から生まれる執着でもあった。


 そうしてわたしが複雑な想いを巡らせている間に、侯爵家の一行は日が暮れる前に屋敷を後にした。見送りの場で、少年は少し照れたように「またすぐに会えるよ」と言ってくれる。近いうちに正式な婚約話が進むだろうからだ。わたしはその言葉にほっと胸を撫でおろし、同時に「また少しでも長く一緒にいたい」という惜別の想いが込み上げる。最終的に、わたしは彼に向かって固い笑顔で「はい」と頷くだけしかできなかった。


 屋敷の門が閉じられ、馬車の音が遠ざかっていくころになって初めて、わたしは自室に戻り、ようやく息をつく。心の中ははち切れそうな喜びと、得体の知れない不安で満ちあふれていた。「将来、彼と結婚するのだ」と確信めいた喜びは、わたしを浮き立たせる。けれど、同時に「もし自分が彼にふさわしくなかったら……」という恐れが、理性の一角をむしばむ。おそらく両親は、この縁談を家の都合により進めようとしているに過ぎないだろう。もし万が一、向こうにわたしよりふさわしい娘が見つかれば、あっさり話が変わるかもしれない。そんな思考が頭をもたげるたび、わたしは打ち消すように「大丈夫、わたしこそが彼の隣に立つのだ」と自分を奮い立たせるのだ。


 こうして幼いながらも、わたしはある種の歪んだ決意を胸に抱いていた。どんな手段を使ってでも、あの少年だけは自分のものにする――そう心のどこかで強く固く誓い始めていたのだ。まだ手探りの感情で、無邪気な恋心が混ざり合っている一方、その裏側には「絶対に彼を逃したくない」という焦りが確かに存在した。気がつけば、その想いは少しずつ大きくなり、わたしの行動や思考を静かに支配し始めていた。


 あくる日から、わたしはさらに勉強や礼儀作法の稽古に打ち込むようになった。自分に何か欠点があれば、いつか彼に失望されてしまうかもしれない。それだけは避けたいという思いが、わたしの背中を押す。しかし、頑張れば頑張るほど、わたしの心は張りつめていく。まるで糸がピンと引っ張られているような感覚。周囲の誰にも言えない秘密のプレッシャーが、わたしのなかで渦を巻いていた。


「いつか、わたしは彼と正式に婚約して……」


 わたしは教科書の文字を追いながら、何度もその先を想像する。子どものような単純な夢かもしれないが、真剣にそうなってほしいと願ってやまない。あの雨の日のやさしさと、再会したときの笑顔は、わたしの心の支えになっている。けれど、一度でも立ち止まって考えてしまえば、不安が襲ってくるのだ。「彼にふさわしい娘であるためには、もっと完璧でなければ」「もし別の誰かのほうが魅力的だったら、彼はそちらへ行ってしまうかもしれない」。


 そうした思考は、子どもの純粋な恋心に陰を落としつつも、わたしのモチベーションを支える原動力でもあった。わたしは自分が抱える孤独と不安を隠し、あくまで立派な公爵家の娘であるかのように振る舞い続ける。だが、本当のわたしは誰かに愛を乞いたくてたまらない子どもにすぎない。それを彼なら、きっと赦してくれるに違いない――いつしかそう思い込みながら、必死に完璧さを装っているのだ。


 まだ幼いわたしたちの間に結ばれようとしている約束は、大人の都合を抜きにすればただ微笑ましいだけのものかもしれない。だが、その裏でわたしは自分の欲や焦燥を自覚し始めていた。彼だけは何があっても手放したくない。彼の心をわたしだけに向けて、誰にも奪われないようにしたい。そんな感情がわたしの中で大きく息づいている。まだ幼いがゆえに、その感情をどのように制御すればいいのか分からない。その不安定さこそが、このときのわたしの本当の姿だった。


 そうして、新たな縁談話という風が、わたしの平凡だった日常に大きなうねりを与える。いつか近い未来、彼との結婚が正式に決まるかもしれない。そのためには公爵家の娘として一層の努力を続けよう。そう固く心に決めた一方で、わたしははっきりと気づいていた。――この想いが強まれば強まるほど、わたしはどんなことでもやってのけるだろう、と。


 それは幼い恋心の延長というにはあまりにも強烈で、自分でも怖くなるほどに真っ直ぐな執着の芽だった。わたしはその芽が今後どのように育っていくのか、まったく想像できないまま、ただ必死に両親の期待と自分の不安とを抱え込み、彼との未来だけを支えに日々を過ごしていくことになる。やがて、この純粋な喜びと不安は、わたしの生き方に大きな影を落とすのだが、そのときはまだ何も知らずに、幼いわたしは胸をときめかせるばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ