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第2話 公爵家の厳格なる日常

 朝の鐘が遠くの塔から低く響くころ、わたしは寝台から体を起こした。窓の外にはまだ朝もやが立ち込めており、庭の木々は白く霞んで見える。眠りから覚めたばかりの頭の奥に、さっそく嫌な重さがのしかかるのを感じる。公爵家の娘として始まる一日は、決して心穏やかとは言い難いものだからだ。


 すぐに部屋へ入ってくる侍女が、恭しく頭を下げながら寝間着から朝のドレスへと着替えを手伝ってくれる。わたしはじっと彼女の手つきを見つめながら、無言を貫く。子どもとはいえ、無遠慮に話しかけては失礼にあたると思っているのだろう。かといって、わたし自身もいまさら親しげに声をかけられるほど素直ではない。結局、部屋を出るまでほとんど言葉を交わさずに終わってしまった。


 ドレスの裾を整え、朝の身支度を済ませると、使用人が整えた広間へ向かうのが日課になっている。そこでは簡単な朝食が用意されており、わたしはテーブルに座ってスープやパンを口に運ぶ。しかし、食卓にはわたしの両親の姿はない。彼らはわたしが物心ついたころから、ほとんど別々に食事を取る習慣を続けていた。重要な客人がいるときや、どうしても家族としての体裁を示す必要がある場面でしか同席しないのが、この家の当たり前なのだ。


「公爵令嬢たるもの、自立心を育まねばならない」


 そう言われ続けてきた結果、わたしは家族と話しながら食事をする機会をほとんど知らないで育った。わずかながら寂しさを感じなくもないが、この家の空気に慣れてしまった今では、あまり疑問に思わなくなっている。むしろ、無言のまま朝食を終え、干渉されないことを安堵している自分に気づくこともある。


 朝食を終えると、教育係が待つ書斎へと足を運ぶ。そこは公爵家の名に恥じぬよう、膨大な蔵書が並ぶ重厚な部屋だ。部屋には張り詰めた空気が漂い、窓際には厳格そうな老齢の家庭教師が姿勢正しく待っている。彼は長年わたしの学習を見てきた人だが、柔和な表情を見せたことは一度もない。


「今日も始めましょう。公爵家の後継者として、怠惰は許されませんよ」


 彼の抑揚のない声に促され、わたしは椅子に腰掛ける。机上には歴史書や数理の書物などがずらりと広げられ、文字だらけのページが視界を埋め尽くす。この時間は退屈というより息苦しさを感じる。わたしが一瞬でも上の空になろうものなら、すぐに家庭教師は眉をひそめて「公爵令嬢としての自覚が足りない」と容赦なく指摘してくるからだ。


「ここをもう一度読みなさい」


 そう言われて差し示されるのは、むずかしい古語で書かれた国の法典や王家との歴史の逸話。たしかに重要なことなのだろうと頭では分かっていても、まだ幼いわたしにとっては理解が追いつかないことが多い。それでも顔には出せず、必死にページを追うしかない。なぜなら、彼の目は常にわたしを値踏みするように鋭く光っているからだ。わたしが少しでも気を抜けば、「公爵家の名誉を汚すつもりか」と言わんばかりに冷たく叱責される。


 もちろん、こんな厳しい環境を愛おしく思うわけもない。しかし、両親や使用人からも同じような態度をとられ続けた結果、わたしはこうした教えを「耐えてこそ当然」と考え始めるようになっていた。抵抗すれば余計に叱られる。ならば表情を変えず、完璧にこなしてみせるほうが賢いというわけだ。


 黙々と勉強を続けていると、ふと視線を机上から外してしまいそうになる瞬間がある。それは、いつかの雨の日を思い出したときだ。まだわたしが幼かったころ、激しい雨の中で手を差し伸べてくれたあの少年のこと。いつまでも胸の中に残るその記憶が、時折まるで小さな温もりのようにわたしを包む。けれど、その瞬間を家庭教師に見とがめられれば、「集中力が足りない」と容赦なく叱責が飛んでくるのだ。


「……失礼しました」


 わたしは小さく頭を下げ、再び書物に集中する。しかし頭の片隅には、あの少年の穏やかな目と、不器用ながらも優しさを滲ませる声が小さく灯り続けている。あれから彼の姿を見かけたことはない。父が面会する相手は多くても、わたしが直接会話する機会はほとんどないし、もし仮に彼が再び訪れたとしても、わたしがそれを知る手段は少ないだろう。それでも「いつか再会できるかもしれない」という期待を、わたしはひそかに抱き続けていた。


 午前の勉強が終わると、昼食までのわずかな時間、使用人の言うとおりに邸内を移動して礼儀作法の練習をする。わたしが母と顔を合わせるのは、この時間帯が多い。母はこの家の主婦として、公爵夫人としての体裁を守ることを何よりも重視していた。わたしに求められるのは、緻密な礼法を正確にこなすことと、相応の美貌と身だしなみをキープすること。彼女はそれを半ば当然のごとくわたしに押し付けてくる。


「姿勢が少しでも乱れてはなりません。あなたはわたくしの娘なのだから」


 母はわたしの髪の一本さえ乱れているのを許さない。付き添いのメイドが一度でもヘアピンの角度を間違えれば、容赦なく注意が飛ぶ。わたしはそんな母の目にさらされるたび、まるで人形のように扱われている気分になる。母がわたしを可愛い娘として可愛がっているわけではないのだというのが、幼いながらにも痛いほど伝わってくる。


 そして昼食もまた、ひとりで取ることが多い。母は社交界の付き合いや、外部での用事を理由に出かけてしまうし、父は執務室にこもりきりになることが大半だ。だから広い食堂に、わたしひとりがぽつんと座っている光景が日常化している。テーブルクロスには高級な刺繍があしらわれ、香り高いスープや贅沢な食材を使った料理が並ぶのに、心が浮き立つことは決してなかった。


 そんなとき、執事がそっと近寄り「お嬢様、ご気分はいかがでしょうか」と声をかけることがある。彼は長年公爵家に仕えてきた人物であり、わたしの成長をそれなりに見守ってきたはずだ。けれど、こちらの返事がそっけなくても彼はあまり表情を変えない。心配しているように見えながら、どこか距離を置いている。あくまで仕事として、わたしの様子を伺っているのだろうと感じる。


「……変わりません。いつもと同じです」


 わたしは手短に答える。執事は「かしこまりました」と頭を下げ、再び静かに下がっていく。それで終わりだ。わたしも彼も、それ以上何をどう言えばいいのか分からない。わたしが求めるのは、形だけの報告ではないと分かっていながら、だからといって自分から甘えた言葉を口にする術を知らない。それはいつしか「仮面をかぶったまま誰とも深入りしない」というわたしの習慣へと変わっていった。


 午後は舞踏や音楽、あるいは裁縫といった貴族趣味の学習が詰め込まれている。こちらの講師もまた厳しく、わずかなリズムのずれや指先の動きなど、細部に至るまで容赦なく注意を飛ばす。わたしは時に嫌気が差しそうになるが、そのたびに頭の中で「公爵家の娘なのだから仕方がない」と自分を納得させるのだ。


 思えば、小さなころからわたしは「自分がどうありたいか」を考える前に、「どうあらねばならないか」を教え込まれてきたのだと思う。両親も家庭教師も使用人たちも、皆が口をそろえて言うのは「公爵家の名に相応しい行動を取れ」ということばかり。わたしが何を感じ、何を望んでいるのかなど、誰も聞く余地を与えてくれなかった。そんな環境にいると、いつの間にか自分の心を閉じ込める技術だけが自然と身についてしまう。


 そんな閉ざされた日常の中で、唯一かすかな息抜きになっているのが、あの雨の日の思い出だった。激しい雨の中、転んだわたしを助けてくれた少年のやさしげな瞳。彼はわたしの家柄に気圧されることなく、手を差し伸べ、上着まで貸してくれた。幼いわたしにとって、それは人生で初めて触れた「純粋な気遣い」だったと思う。あの日のぬくもりを思い出すと、いつも乾いた心がわずかに潤されるのだ。


「きっと、あの人はわたしを受け入れてくれる……」


 そんな思いが頭をもたげるたび、わたしは笑う術を思い出せそうになる。しかし、それを実際に口に出せば、また誰かに叱られるのではないかという恐れが先に立つ。だから、わたしは誰にも言えない小さな秘密として、あの日の出来事を胸に仕舞い込むことにした。そして、その思いを無理やり強く信じ込もうとする。たとえば「将来は彼と結婚するのだ」と夢想することで、この厳しい家の中において自分を奮い立たせる材料にするのだ。


 夕方に差しかかると、父は執務を終えたタイミングでわたしに顔を見せることもあった。しかし、それも形式的なあいさつに過ぎず、わたしが礼を尽くして頭を下げれば、父は「勉学はどうだ」「礼儀作法は怠っていないか」と質問してくる程度で、それ以外の会話はほとんどない。わたしが答えを返しても、納得しているのかどうか分からないまま、彼は「それならよい」とだけつぶやいて足早に書斎へ戻る。


「きっと父上もお忙しいのだ」


 そうやって自分を納得させるしかなかった。愛情ある言葉など一度もかけてもらった記憶がないわけではないが、それらは「公爵家の未来を託す期待」のようなニュアンスが強く、わたし自身を思いやる感情とは違うように思えた。母も同様に、わたしの将来が公爵家の威信にどう関わるかという視点でしか接してこない。そんな両親の姿勢を、いつしか「これが当たり前」として受け止めるしかなくなってしまったのだ。


 夜が更け、部屋でひとり床につく前に、わたしはときおり鏡に向かって小さく声を出してみることがある。たとえば「あの人は、わたしともう一度会いたいと思ってくれているかな?」と。もちろん、誰も答えてはくれない。そんなつぶやきを使用人に聞かれれば、勘違いされるだろうし、母に聞かれでもしたら「はしたない夢など見てはなりません」と諫められるに違いない。


 それでも声に出してしまうのは、言葉にしないと心が折れてしまいそうになるからだ。日々周囲から求められる「公爵令嬢としての威厳」や「完璧さ」は、いわば重りのようにわたしの存在を押しつぶしてくる。わたしが素直に笑ったり、憧れを抱いたりする自由は、この邸の空気の中では極端に許されないように思えた。だから、あの日の少年を思い浮かべ、「わたしはきっと、あなたのもとへ行く」と自分に言い聞かせる。それが、どうにか自分を支える唯一の拠り所になっていた。


 そしてそんな生活が続くうちに、わたしは少しずつ違った態度を身につけていくことになる。最初は自分を守るために始めた「感情を表に出さない」振る舞い。必要最低限の会話しかせず、周囲からの厳しい視線にも無反応を装うようになっていった。すると、いつしか周りの使用人たちは、わたしをますます遠巻きにするようになる。もちろん元から親密ではなかったが、それでもまだ幼かったころはもう少し話をしてくれる人がいたかもしれない。しかし今は、誰も必要以上に近づこうとはしない。


 そうやって周囲を遠ざけ、表面上は尊大な態度を取るほうが楽になってしまったのだ。手ひどく叱られるリスクが減り、母にも「少しは堂々としてきたわね」と皮肉まじりに評価されることすらある。そうすることで、わたしはますます本心を閉ざし、「公爵家の娘らしい」仮面をかぶって過ごすことを覚えた。友などいなくて構わない。あの日の少年と再び会えるなら、わたしはそれだけを糧に生きていけるとすら考えていた。


「わたしは何も間違っていない」


 心の中でそう言い聞かせることが日常になっていく。誰かの愛を乞うことを諦める代わりに、あの少年の存在だけを心の支柱とする。厳格な両親に評価されるために、着飾り、学び、礼儀を尽くす。それがわたしの生き方なのだと受け入れ始めていた。


 夜になると、屋敷の灯火が消され、静寂が広がる。廊下を巡回する侍女や衛兵の足音がかすかに聞こえる中、わたしはふと窓辺に立ち、暗い庭園を見下ろしてみる。遠くの木々の影が、まるで黒い絨毯のように広がっている。昔、あの雨の日に転んだ場所は、この窓からでは見えないが、記憶ははっきりと胸に残っている。


「いつか、わたしもあなたのそばへ――」


 小さくつぶやいて、わたしは唇を噛む。その先の言葉を出すには、あまりにも現実と乖離しているからだ。わたしのように、誰からも愛を求められず、厳しいしつけのもとただ完璧さを強要されている娘が、本当に誰かと結ばれる日など来るのだろうか。それでも、あの少年には会いたい。できれば、お礼を言いたい。あのとき上着を貸してくれて助かったと、幼いわたしを気遣ってくれてありがとうと。


 そんな願いを抱きながらも、現実のわたしは日々の厳格な教育と両親の期待の狭間で、少しずつ、しかし確実に心を閉ざしていった。強がりとも言える振る舞いをするしかなかったのだ。もし弱さを見せれば、さらなる叱責や蔑視を受けるだけ。誰もわたしのことを真正面から受け止めてはくれない。この家での生き方とは、そういうものだと幼いころに悟ってしまったのだから。


 深い夜の闇の中、わたしは寝室のカーテンを静かに閉め、ベッドの上に腰掛ける。胸にはまた、あの少年の面影が浮かんでいた。これまで厳しい言葉や冷たい視線だけを浴びてきたわたしにとって、雨の日の一瞬こそが宝物のようだ。あの日を境にして、わたしの中に「彼となら、わたしはきっと報われる」という信念が芽生え始める。それがどんな形であれ、わたしを受け入れてくれる人物が世界にひとりでもいるならば、この閉ざされた日々も乗り越えられると思えるのだ。


 無論、それが単なる幼い夢想だと、理性の一部は気づいているのかもしれない。けれど、わたしはそうした疑念を振り払うように目を閉じる。余計な不安を拭い去るために、自分の将来を想像してみる。彼が再び訪れたとき、わたしはすっかり立派な公爵家の娘としての地位を固めていて、その姿を見たときに彼は褒めてくれるだろうか。それとも、しっかりと胸を張って「わたしはずっとあなたを待っていました」と伝えられる日が来るのだろうか。そんな淡い想像に浸っていると、ほんのひとときだけでも安らぎを感じられる。


「わたしの未来は、きっとあの人が変えてくれる……」


 そう信じ込むことでしか、わたしはこの家での厳しい日常を乗り越える術を知らない。愛を乞うのではなく、厳しい現実に耐え、それを成し遂げる先に彼との幸せがあると信じるのだ。結果として、わたしは周囲からは「公爵令嬢らしく威厳を保つ娘」として評価され、それがまるで鎧のようにわたし自身を守ることになっていく。


 こうして、わたしは自分の心を閉じ込めながらも、ひそかな憧れを胸に秘めて暮らしていた。両親の厳格さに耐え、教育係の無機質な指導に従い、礼儀作法の訓練に身を投じる。愛される術を知らず、時に高慢とも映る態度で自分を守るしかない。けれど、わたしにとってはそれこそが生き抜く手段になっていたのだ。


 そうして日々が過ぎ行く中で、あの日の記憶はより鮮明な光を帯びるようになった。雨に濡れた庭、転んで泥だらけになったわたし、そして手を差し伸べてくれた少年の上着の暖かさ。それらを思い返すたび、わたしの内側には小さな灯火がともる。たとえ周囲からどれだけ冷たい態度を取られようと、わたしは自分を見失わずにいられる。いつか、必ずその人と結ばれるのだと固く信じているから。


 夜の深い闇が、重苦しい静寂とともに邸を包み込む。遠くからかすかに風の音が聞こえてくる。わたしは瞼を閉じて、自分が理想とする未来を頭の中で思い描いた。そこには、誰にも邪魔されずに優しい言葉を掛け合うわたしたちの姿がある。公爵家の娘としてではなく、一人の人間として、大切にしてもらえる日が来るはずだと――幼いわたしは、そう祈るように思っていた。厳しいしつけと孤独の狭間で、わずかに芽吹いた淡い執着と望みを握りしめながら、再びまた明日を迎えるのだ。

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